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晴れ渡る空の正月を迎えて半月がたった。凍りつく冬の気配が緩み始め、梅の香に交じって気の早い鳥の声まで響く。
その日もよく晴れた一日だったが、踏歌(楽器演奏付きヴォーカル&ダンスパフォーマンス)の一行が朱雀院を訪れるのは夜更けも過ぎて朝方近くなってからだ。それまでは祖母である大后のもとで過ごした。
私は中納言の乳母とあやめ、もう一人の女房に付き添われて柏殿の寝殿(メインの建物)の几帳の影にいた。
中央の御座所には大后の姿がある。遠い昔弘徽殿の女御と呼ばれたその方は、尊大な気質で名高い。老いた今でさえその威風は辺りを払うほどで、孫であろうとありふれた情など見せたりはしなかった。
一通りのあいさつはしたが、彼女はこちらに興味を示さない。うなずいただけでかまわれなかった。この場合はそれは好都合だ。私はいつものように気配を消してその場の空気に溶け込んだ。
一行の訪れまで大后の横で眠った。やがて父のいる正殿の方から音が響いてきて目が覚めた。
女房たちも動き出し、格子を上げて金具で止めたり、室内の明かりをほとんど消したりしている。中が暗くなると外のかがり火があかあかと輝くさまがまぶしいほどだ。
支度が整ってからもだいぶ待った。気遣って話しかけてくれる老女房たちも、一行が現れて笛の音が響き始めると落ち着きをなくした。まして、感情のない人形としての私に慣れているこちらの者たちは、袖の重ねも鮮やかに御簾(すだれ)の際まで身を寄せた。
足を踏み鳴らす音が地を揺るがす。のびやかな若い男たちの声。時の流れに忘れさられたようなこの場では不似合いな気さえする。けれどここの女房たちはだからこそ現在を感じさせる青年たちの声や姿に心を奪われているのだろう。
揺れるかがり火の影が部屋の奥まで届く。かすかな雪の気配。彼らの衣装は麴塵(カーキっぽい色。禁色)の袍(平安ジャケット)に白い襲で、特別に許された栄誉あるものだが、色合い的には寂しい。けれど権門の子弟の舞姿はその品位のためか華やかだ。
彼らの舞の合間、女房たちはもてなしの準備に忙しかった。酒や肴を運び、高めの声で歌うように呼びかける。そんな中、承香殿の女御の兄は部屋続きの簀子(広めの縁側)に敷かれた円座に座っていた。
彼は女たちに好かれてはいない。武張っていかつい容姿と固苦しい態度が彼女たちを安らがせないのだ。だから大后に目通った後に簀子の端に退くと、通り一片の接待を受けただけでほっておかれた。そんな扱いに慣れているらしく、不平も言わずに土器を傾けていた。
女房たちは役のある者はそれにいそしみ、それ以外の者たちも若い殿上人にその視線を向けていた。周りの人気が失せあやめだけが私のもとに控えていることを確かめ、几帳の影から簀子に向かってそっと声をかけた。
「髭黒のおじさま」
「おや、三の宮のお姫さん、こちらで見物だったのか」
彼はこの院によく来るし、私の兄に従ってきた時は傍近くに控えるから言葉を交わすことにためらいはない。年よりもあどけない声で語りかけ、話をうまく決めた道筋に運んだ。
「このあと六条の院に行かれるの?」
そこは他の公卿(セレブ)の邸四つ分の広さの源氏の邸だ。髭黒はうなずいた。
「そのつもりだよ。大人はいろいろ忙しい」
「うらやましいわ。私も噂の女君にお会いしてみたい」
「紫の上のことかな」
「違うわ、もっと若い方。新しくいらした姫君のこと」
「どんな人かな」
「すごく綺麗な方ですって」
この大将は行動的だ。そして北の方との仲が思わしくないと噂されている。
あくまで無邪気な童女のように、見知らぬ女人の美しさへのあこがれを語った。彼は熱心にそれを聞いていた。
私は満足げな笑みをあやめだけに見せた。
言葉で引いた結弦が放った矢がその的を射抜くまで、長い時を待たねばならなかった。
夏が来て過ぎ去り、秋に変わり冬に移った。それを繰り返した冬の頃、ついに望んだ話を得ることができた。
その時私は父の膝に身をもたれさせて届けられた絵を眺めていた。彼はいつでも最上のものを選んで私に見せてくれる。この時の絵も、以前見せられた源氏自身の描いたものほどの凄みはないが充分に質の高いものだった。
女のように優しげな彼の指が静かに私の髪に触れすべっていく。国をすべ、人を従える役割を果たしたとは思えぬほどの優美さで。
父はその父、桐壺帝によく似た顔立ちであるそうだ。けれどその方よりずっと艶なる風情を持つらしい。それはあの、きらびやかな源氏さえも超えるほどだとこちらの女房たちは語る。
祖父は知らないが源氏の顔は知っている。数少ない伺候(参上)の折などに垣間見たことがあるが、確かにその男は美しかった。が、その美の中に激しすぎる何かがあり、それがほんのわずかに過剰な色を見せていた。
しょせん按察使大納言の孫だ。血の中に織り込まれた高貴さが足りないのかもしれない。
焚かれた香の匂いが淡く漂うその午後、父の腹心の女房が断りを入れて近寄ってきた。
「源氏の君の養い姫である玉鬘と呼ばれる方の身の定めが決まったそうです」
太政大臣として大きな力を持つ源氏やその身内の者の動向は、それ自体がまつりごとだ。ましてやこの姫は最近、内大臣の実子でもあるとわかったから、特に重要だ。
「尚侍(女性キャリア公務員。帝のお手付き可)として出仕する予定だったね」
「彼の君はそのおつもりでいらしたようですが、不本意な形で髭黒の大将の夫人に決まったようです」
「それはお気の毒に。彼はどうしている」
声に感情は表れていないけれど、源氏の様子がいつも父の興味を惹きつけることを知っている。
「たいそう嘆いていらっしゃると伝える者もあります。もちろん、父君としての対応は充分にお取りになりましたが」
女房が下がった後、父は私の頤に手をあてて顔を上げさせた。視線をそらさずに彼を見た。
「あなたはどう思う」
意識的ににっこりと微笑んで答える。
「自業自得。少し傷つけばいいのよあの方は」
「手厳しいね」
「大嫌いですもの」
姿勢を戻すと彼はまた優しく髪を撫でる。
「なぜだね。君に関わったことはないと思うが」
「この院に敬意を欠いているわ。なのに、お父さまはあの方を気に入ってらっしゃる」
「弟だからね」
「それ以上だわ。私以外にそんな視線を向けるのは許せないわ」
父はわずかに口元を緩めた。優美さを際立たせるその笑みの中の苦さ。それが絢爛たる美や人聞きのいいなにかの才よりもよほど価値あるものに思える。
鮮やかなものの持つ衒いのない魅力より、含むものの多い混沌が私の心を惹きつける。
「いっそ私が帝でお父さまが女御だったらよかった。それなら藤壺に入れてあげたわ」
「たとえ男に生まれていたとしても兄はいるかもしれないよ。それはどうする」
「うちのお兄さま程度ならどうにでもなるわ」
父の笑みが更に深くなる。苦みも増したようだが叱ったりはしない。戯れを許し包み込む大きさと、その言葉に大してとらわれぬ冷たさが人の上に立つ者の証のように彼を彩る。
父は答えず批判もせずに、髪をそっと撫で続けた。私は機嫌のいい猫のようにその感触を楽しんだ。