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 明石(あかし)女御(にょうご)から生まれた一の宮が春宮(とうぐう)となったため、特別に用意された行事もある。


「みなさん来月には、牛車を連ねて住吉(すみよし)(もう)でに行かれるそうよ。わたしたちにはお誘いがないのかしら」


 秋の終わりの淡い日差しが傾きだした頃合に、女房の少納言(しょうなごん)が勢い込んで語りだした。兵衛(ひょうえ)がつまらなさそうに言葉を受けた。


「結局は明石の方々のお礼参りでしょう。わたしたちに誘いがあったとしても、ただのおまけとして肩身の狭い思いをするだけだわ」

「紫の上は行かれるそうよ」

「あの方は明石の女御のご養母だからそうでしょうよ」

「奉納の舞人も特に美男がそろえてあるとか。どうにか加われないかしら」


 小侍従(こじじゅう)も話に混ざりこむ。けれども兵衛は首を横に振った。


「お優しい紫の上は、そりゃこちらにもお声をかけるでしょうよ。でも、六条院で最も高貴な内親王(ないしんのう)である宮さまが、脇役としての扱いを受けてそれでいいわけないじゃない。今回は参加できたとしてもわたしたちは添え物。でも、それはいいわ。だけどわれわれはともかく宮さまにそんな思いをさせるわけにはいかないわ」


 聞こえないような顔をしながら聞いていた私は、内心で少し微笑む。日常の仕事以外はただ華やかに遊んでいればいい蝶々が思いやってくれたものだ。兵衛自身も派手な催しは大好きな娘なのに。蝶は蝶なりに考えたり育ったりしているらしい。

 他の者たちも納得したらしく、それ以上は言いつのらずに話題を変えた。



 神無月(かんなづき)(旧十月)の二十日、神の忌垣(いがき)(神聖な場所にめぐらした垣根)に這う(つた)の色も変わり、紅葉の美しい季節だった。人々は美々しい車を連ねて六条院を後にした。


 紫の上と明石の女御は同じ車で、明石の女とその母の尼君は乳母と共に次の車に乗った。

 お供も致仕(ちじ)の大臣(元頭中将)や左右の大臣以外、すべての上達部(かんだちめ)がそろったほどで大変な勢いだった。

 しかし私の女房たちはその列にはいなかった。


 彼女たちをただ我慢させるのも哀れと思い、源氏の所有する嵯峨(さが)御堂(みどう)に詣でさせることにした。行き帰りの山の景色はやはり紅葉が盛りで、住吉への道に引けをとらぬ美しさだという。造られた趣とは違う眺めや風情を楽しむといい。


「宮さまはいらっしゃらないのですか」


 不安そうな少納言の問いに微笑んで答える。


「私が今動いたら、やはり不満だったのではないかと、住吉に行かれた方々が不安に思うわ。せっかく楽しんでいらっしゃるのにそんな思いをさせたくないわ」

「宮さま……」

「やはり私が残りましょう」


 無表情に割り込んだ中納言の言葉を押し留める。


「あなたが行かなければ若い人ばかりで、もしもの時に困ると思うの。乳母(めのと)も幾人か残るわけだし、気にしないで。お土産話を楽しみにしているわ」


 最後の言葉のみを小侍従に向けると、あきれるほど首を縦に振って有頂天になった。



 彼女たちはささやかに車を連ね、警護の者を供にして都の西へ向かった。

 愉しみごとの好きな蝶たちが嬉しそうに出かけるのを見るのは、主としての私も喜ばしい。

 それに、人が少なければそれはそれで多少は気楽だし、したいこともある。

 珍しいほど閑散とした部屋を眺め、そわそわしながら夜を待った。


 夜が更けると年老いた乳母は早めに休む。すぐにそれを許し、端近(はしぢか)に控えていた按察使(あぜち)塗籠(ぬりごめ)(閉鎖的な部屋。ここでは物置にしている)の奥にしまわれて見つけ出しにくい漢籍(かんせき)をいくつか探しに行かせた。


 だからあやめと二人きりだ。自分でそのように運んだのにいざとなると何も言えなくて、しばらく黙って彼女を見つめた。

 胸の音がすごい速さで打ちつける。臆病極まりないわが心。ただ風の吹くうつろな居室のように寒々と、埋められることだけを待っている。


「…………あやめは、好きな人はいないの?」


 得意の詐術(さじゅつ)はどうしたことか、私は遠まわしに聞きたかったことをいきなり尋ねてしまった。顔色が赤くなることを止められない。


 きょとん、とこちらを見返したあやめは言葉の意味を悟ると、まじめな顔で首を横に振った。


「でも、いつかはそんな人を作るのでしょう」


 起こってほしくない事態を故意に口にする。そうすることで自分の心が耐える力をつけるかのように。

 いつもはうつむきがちの彼女はまっすぐに私を見て寂しそうに微笑んだ。


「私の母は幸せではありませんでした」


 彼女を捨てた相手であることに気づくのが少し遅れた。あやめは現れた時からそのままのあやめで、それ以前などなかったような気がしたが、もちろん生んだ人はいるわけだ。


「遠い祖先はかなりの人だった、ということが口癖で、実際の身分よりも高望みをするたちでした。それでも、わたしと違ってある程度は美しかったので父に取り入ることができたのですがすぐに捨てられ、なおいっそう不幸せでした」


 水の音のような優しい声が淡々と過去を語っている。あやめが自分のことを話すのは初めてのような気がする。


「その様子を見ていたわたしは何かを望むことが怖いのです。男の人を好きになってしまったら、わたしはきっと母のように相手にいろいろなことを求めてしまいます。けれど、その人が求めるものを与えることはできません。一人前の女房みたいに振舞っていますがその身分ではなく、そのくせ市井の女のように働くこともできません。だから、誰ともおつきあいするつもりはありません」


 香ではない匂いが、ほんの微かに彼女から漂う。いつぞやの薫香があの方の魂に染みついたものだとしたら、この春を思わせる匂いは彼女自身の持つものだろう。


「お許しさえいただけるのなら、ずっとお仕えさせてください。こんなことを宮さまに直に言うことが、身の程知らずだと知ってはいるのですけれど」


 (ひつ)に鍵刺し(おさ)めたはずの、恋の(やっこ)がつかみかかる。

 私は幸せで息も吐けない。心細い身の上が言わせただけなのに、わが心は千々(ちぢ)に乱れる。


 この恋は語ってはならない。気取らせてもいけない。たとえ彼女が受け入れてくれたとしても、抑えきれずに見返した視線一つで、このはかない立場の娘は追い落とされる。


 表情をなくした私に、あやめは不安そうな顔をした。少し間をおいて微笑んで見せる。


「嬉しいわ。ずっと傍にいてね」


 作り事のような顔で真実を(とざ)す。その手にさえ触れなかった。震えてしまうことがわかっていたから。ただ、眸にだけ色を込めて彼女を見た。


 あやめという名には分別という意味がある。私はそれを無くすわけにはいかなかった。



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