16.|蹴鞠《けまり》
明石の女御は若宮を抱いて、早々に内裏に戻った。私の攻撃が理由かと思ったが違って、源氏と紫の上の意向らしい。実母の明石の女はもう少し休ませたかったと聞いた。だけど隣に人がいなくなって、私の女房たちはのびのびと羽を伸ばしている。
庭先の桜はいまだに咲き続け、まるで栄華を世に誇ろうしているかのようだ。風もやわらかく光も豊かで、御簾越しの風景も輝いて見える。人も少なくのどかな一日で、心置きなく策謀に励むことができた。
六条院の日々にも慣れた。幼すぎる姫宮の真意は他の者に見破られることもなく、各御殿の女君や仕える者の気質も知った。
私は遊びを一つ加えることにした。源氏に身近な若公達の心を捉える。それを彼にひけらかすつもりは今のところないが、支度だけはしておきたかった。
真っ先に浮かんだのは源氏の息子の夕霧だ。私の降嫁が取りざたされたときに名を上げられた一人だから、私に対して多少の興味はあると踏んだ。しかし彼は妙に生真面目で、源氏以上に扱いにくそうだった。
射抜くべき的を決めかねて考え込んでいると、渡殿を通る足音が微かに聞こえた。
部屋から出ることもめったにない毎日を過ごす私は、仕える者の足音のほとんどすべてを把握している。耳慣れたこの音の主は小侍従だ。そう思ったとたん図が描けた。
「柏木」
中納言と按察使が納得したようにうなずく。そしてすばやく表情を消し、わが乳母子が現れたときにはいつものように静かに控えているだけだった。
小侍従の伯母は柏木と呼ばれる衛門の督の乳母だ。情報を得るにも流すにも都合がいい。
過剰に自分を飾りたがる彼女のことだ。太政大臣の息子である柏木に、私のことを実物以上に高めて語ってくれていることだろう。
そのせいか彼は、求婚の際もだいぶ熱心だった。その折りの胸の埋み火を煽ることはそう難しくはないはずだ。
夜が明け初める暁の頃。時が端正な面持ちを崩さぬ朝方。届いたばかりの料紙に似た輝きを持つ真昼。落ち着いた光の午後。甘くかすんで全てをにじませる夕闇の頃。内の光を際立たせる闇夜。
人の途切れる間があると、中納言と按察使の二人は交互に外に出て内部を眺めた。彼女たちはあらゆる位置から適切な角度を探った。
「明かりを灯した夜はともかく、他の時分はあまり目立ちませんね。宮さまにおいては小柄でいらっしゃるのでなおさらでしょう」
人の気配のおぼろな夕暮れ、試していた按察使が戻って来て述べた。
柏木は源氏に気に入られているので、六条院に現れることは多い。もちろんこの寝殿に寄ることはないが、東の対の辺りから未練ありげにこちらを眺めていることもある。その際を意識して、念入りに調べ上げる。
彼が訪れる時刻も私たちには選べないから、念のために可能性が低い頃合も確かめた。
「几帳(和風パーテーション)をどけても中は暗い。端近にお座りになっていただいても見えにくいようです」
中納言も言葉を添える。彼に私の姿を見せ付けるという案は遂行することが困難だった。
それでも私たちはあきらめなかった。規定の枠を踏み越える思考のできる按察使が、考え抜いたあげくに提案した。
「いっそ、お立ちになられたらどうでしょう」
あきれて見返す私にきっぱりと告げた。
「宮さまはどのような様子でも気品がおありになるので、そうなさったとしてもお美しいと思います」
この時代、、身分ある女性が立ち上がることはひどくはしたないとされている。場所を移動する時でさえひざ立ちで動くことを求められるほどだ。赤面して断ろうとしたけれど彼女は続けた。
「そもそも、高貴な女が立たぬもの、姿を晒さぬものと決めたのは誰です。いにしえを描いた古い絵では立ち姿もあったと聞きます。宮さまのあどけない美しさは人の心を捉える。立っていようが座ろうが少しも欠けることはありません。男の都合で押し付けられた勝手なたしなみなど何程のことでしょうか。この美がわからぬ頭の固い者などは惑わせる価値さえありません」
力をこめて語られた。さすがに男も女も自在に操る色好み、言葉が上手い。つい、のせられてしまいそうになる。
「品下れるところの少しもないあなたは、それでもかえって魅力的です。思うだけでこの場に跪きたくなるほどです」
按察使の細い瞳はなぜか乾いた色合いに見えた。横にいた中納言は少し考え、それからその意見を肯定した。
「艶麗に過ぎる美を持つ者がその姿勢をとるのなら、どこかに浅ましさが加わるのかもしれません。しかし宮さまは幼子のように可憐で美しい。微笑ましくさえ思える気が致します。それに、確かに立ち姿の美は賤しめるべきものとは思えません。万葉の歌の出で立つ娘子を思わせて、清らかな魅力をこぼすでしょう」
几帳さえも傍らにのけ、端近に身を現す私を男たちはどう見るか。さすがに少し心もとない気持ちがした。
うららかな春の午後だった。風はなく、ほんのりとした霞が花の色さえおぼろに見せている。暖かな光が六条院の全てをやわらかく包み、芽生え始めた木々の緑をはぐくんでいた。
この春の町を訪れていたのは蛍兵部卿の宮や柏木など見慣れた人々だったが、そこに夕霧の姿はなかった。
源氏は夏の町で蹴鞠で遊ぶ彼を呼び、そのままここで続けさせた。
東面に住む女御は内裏に戻っていたから、遣水が音を立てる人気の少ないその辺りで、若公達たちは白い鞠を蹴りあっていた。
いずれ劣らぬ若さを競い合う彼らの中でも、太政大臣の子息の一段がひときわ優れた技量を見せていた。趣ある庭の木立をかすませるのは花か霞かわからないほどの陽気の中で、若者の生み出す熱気が生々しい。
その様子に誘われたのだろう、柏木の同腹の弟の頭の弁がそれに加わった。若いけれど地位の高い夕霧と柏木は軽々しすぎるこの遊びに混ざらずにいたが、顔を寄せた源氏のなにごとかの囁きの後、耐えかねたように身を投じた。
鞠を受けて、色とりどりの公達の衣の上に雪のように花が散る。花は白砂の上に消え、もしくは水面を飾り立てる。わずかに暮れかかる空に白い花が舞う。
柏木は卓越した技を見せた。さほど熱意があると思えぬが、他の者は並べぬ巧みさで鞠を操った。
その姿かたちもなかなか悪くはなかった。共にいる夕霧の大将の桜襲にはかなわぬが、権門の長子の品位を見せて水際立った様子だった。
蝶のようなわが女房たちは、もちろんこの常にない遊びごとに目ざとかった。特に指示などなくとも几帳をさっさと脇に払い、御簾をはらませるほど端近によって眺めている。外からは色鮮やかな衣の裾や透き影が、春の手向けの幣袋のように見えただろう。
腕を差し伸べるように垂れる桜の枝を夕霧は折り取り、それを契機に蹴鞠をやめた。
わが寝殿の階の中ほどに腰を下ろした彼を見て、柏木も遊びを抜け隣に身を置いた。なかなか都合のよい位置だ。
夕闇がわずかに降りてくる。それでも春の宵というにはまだ早いが、辺りの気配は心なしか甘美い。
源氏は東の対の高欄に座り、こちらに背を向けて蛍兵部卿の宮と話し込んでいる。他の若公達もまだまだ蹴鞠に夢中になっている。
狙う相手は視線をこちらに向けた。
「夕霧の大将も見ていますね」
「他に好機もないでしょう。お立ちください、宮さま」
忠実な二人の言葉に従う。按察使は、かねて用意の唐猫を煽った。
愛らしい子猫を追って少し大きな猫が御簾の端から走り出る。それに驚いて女房たちは騒ぎ立てる。
子猫はまだ人に懐いていない。そのため首に長い紐が結んである。紐の先は按察使の器用な指先によって御簾の紐へと絡めてある。
子猫が逃げようとしたときにそれが引かれて、御簾が引き上げられた。
私の立ち姿は二人の貴公子の目に晒された。
按察使の勧めで特に華やかな紅梅襲をまとっている。女房とは異なり、裳や唐衣をつけぬ袿姿だ。
いつもはより幼げに見誤らせるために重すぎる衣装に埋もれる風に装うが、この日は濃い薄いの彩りを草子の褄(端)のように鮮やかに、上に合わせた桜の織物の細長も優美の極みを尽くして、春の夢に似た内親王の幻を夕暮れの薄闇にほのかに見せた。
背丈の割には長い私の髪は糸をよりかけるように裾までなびいて、生身の女の艶をひけらかす。少し振り返って猫を眺める様は横顔を強めているだろう。
心の中で源氏に話しかける。見た目こそは若めいているのに老いたものだな、と。
あれだけ私に「気をつけてください。あなたは子どもっぽいから、うちの息子の目に触れたりしそうです」などとやたらに説教をしながら、実際に実行しても見逃すとは。
わがたくらみに気づきもせず、若者の熱すぎる血潮を読むこともできない。かつての色好みの残骸と成り果て、この華麗な六条院の強固な壁の中で、変わりばえのしない昔の夢にすがるのかと。
だがそれも一瞬のことで、注意を促す夕霧の咳の声で奥に入った。
充分に印象を与えたと思う。ただ、あわよくばと狙った夕霧の方は案のじょう軽侮の念を表立てた。
しかし柏木に浮かんだ色は、その昔東宮たる兄の見せたものに酷似していた。
憧憬か欲望かただの驚嘆か。定めることはできないが、視線をはずせなかった彼はその後に、子猫を招いて抱きしめていたという。
時を置かず柏木から文が届いた。人の多くない折りに小侍従が笑いながらそれを広げた。
「宮さまのことがよほど忘れがたいのでしょうね。うるさいほど文をよこします。あまりお気の毒なのでわたしもお手伝いしたくなるかもしれません」
「まあ、嫌なこと言うのね」
手蹟は以前見た時と同じでなかなか見事だ。和歌を使った露骨なほのめかしに少し興ざめる思いがしたが、あまり教養のない小侍従は何も気づいていないようだった。
「あの日、風に誘われ尊い垣根の内まで分け入ったつまらない私を、どのようにご覧になったでしょうか。その夕べより狂おしいまでにもの思いが募り、不思議なほどあなたのことを思い暮らしております。 よそに見て折らぬ嘆きは繁れども 名残り恋しき花の夕影(よそから見ているだけで手折ることができない嘆きは重なりますが、それでも夕暮れの花のようなあなたは忘れがたい)」
伊勢物語の業平を気取っているらしい。夢見がちな男だ。
心の底で薄く笑い、その様を出さずに無表情に文を戻した。反応のない私を小侍従は見たが、さすがに返事は強いず、自分で筆を走らせた。
「あの日あなたはそ知らぬ顔でいらっしゃいましたが。ご覧にもなれないのに見たようなお言葉はおかしなこと。 いまさらに色にな出でそ山桜 およばぬ枝に心かけきと(高嶺の花だから無理。顔に出さないでね) 無駄なことでしょうに」
返しが目に入った。配慮の欠片もない文だがそれでいい。従者の無情は風情のうちだ。気を持たせるような言葉よりふさわしい。
そのままほっておいて日を送ると、ある日源氏から意外なことを言われた。
「東宮があなたの子猫をほしがっているようですよ」
明石の女御を通した依頼だ。不思議に思って見つめ返すと、彼も多少の困惑をあらわにする。
「こちらに寄った殿上人の一人が、唐猫の愛らしさを申し上げたようですね。ご存知のように東宮は猫好きでいらっしゃる。是非にと声がかかりました」
「まあ。お兄さまも直接言ってくださればいいのに」
「取り上げることが後ろめたかったのでしょう。なんとも珍しいご所望ですね」
首をかしげながら猫を渡した。その理由がわかったのは、兄の身近に控える手の者の話による。
「衛門の督が東宮さまの気を惹いたのです。その後、子猫が人に慣れないことを言い訳に自分のものとして、東宮さまの催促にもお返しになりません」
さすがにあっけにとられた。思いを向ける相手の形見の品をほしがることはあるだろうが、こともあろうに東宮まで使って猫一匹を手に入れるとは。
仕掛けておいて勝手な言い草だが、少し気味が悪かった。
これがあの評判のいい太政大臣の長子の人柄だ。世間にももてはやされ、一族の者にも慕われる期待の新鋭にしては、なかなか歪な部分もお持ちのようだ。




