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 無為(むい)であることを職務とする内親王(ないしんのう)にふさわしく穏やかに飾り立てられる日常。その陰で私は悪意あるたくらみをいくつも進めていた。


 人々は考えも及ばないだろう。()の祝宴さえも紫の上にまかせるほどおとなしい姫宮の胸の内を。いまだ幼い人形。源氏さえそう思うほどあどけない顔をして、心の太刀(たち)を研ぎ澄ましていた。


 そうせざるを得なかった。私の中の大きな獣は今も飢えて渇いていて、舌なめずりをしながら獲物を待っていた。そうしてそれを充分に与えぬ私を恨み、その牙を自らに向けていた。

 権威にも(もの)()にも動じないこの私が、その獣に悩まされていた。心は琴でもないのに音を立て、風よりも微かな気配に震えていた。


 恋心とは他人を訪れるものだった。あるいは歌や物語に似合いの感情だった。(いにしえ)に確かにあった(こけ)むした逸話のはずだった。まさかこの私に生まれるはずもなかった。


 私はその想いに抗い、負け戦を重ねていた。それは恐ろしい病のようだった。


 呼べばいい。すぐに彼女は現れる。そもそも近くに控えている。

 命じればいい。逆らうことなど考えもしない。意のままに扱うことのできる従者だ。


 けれど私はそうすることを選びたくはなかった。立場で縛られた相手に無理な想いを推しつけたくない。断るすべを持たぬ者に、恋の被衣(かずき)を上掛けた特殊な役目を与えるつもりは毛頭なかった。


 視線を向けたくはなかった。それが離れなくなることを知っているから。

 声を聞くことが怖かった。話が途切れた後の沈黙に耐えられそうもなかったから。

 考えることができなかった。気持ちが大きすぎて胸を強く締めつけるから。


 たぶん私は、彼女に対して常より冷淡に見えただろう。そのように振舞わねば自分を保つことができなかった。私はあやめに恋をしていた。


 世の男たちは格下の女房に心を奪われることはないのだろうか。それともそんなときはすぐに誘いをかけ思いを果たすので、悩みの種とはなりえないのか。姫君よりも大切な召人(めしうど)(情人)など人聞きが悪いと伏せていて、伝わらないだけなのか。


 (ためし)とするものなどまったくない孤独な想い。告げる気など微塵(みじん)もなかった。

 私は無心に見える表情で人目を取り繕い、その裏で悪意を進め、さらにその奥で恋心の(うず)きに耐えていた。


 源氏と夜を共にしていても情にとらわれることはなかった。それでも、そのことは私の何かを変えたのかもしれない。嫁ぐ以前は特別な好意であったものが、いつしか他の色合いを加えていた。それはあまりに苦しく、あまりにも甘美だった。


 目の端に掠め取るように彼女の姿を一瞬だけ留め、長い時間その微かな姿を胸に抱く。

 周囲にはあまたの女房たちがいるが、彼女の位置はすぐにわかった。どんなに他の声が混ざる時も、控えめなあやめの声だけが際立って響く。水の音を思わせるあの声。

 偽ることの得意な私も、己自身だけはたばかることが難しかった。


 彼女が男だったらとは考えなかった。それならそもそも出会ってはいない。

 ならば私が男であればとも、やはり想像できなかった。無意味な仮定の趣味はない。

 なのに彼女が私を見つめ、微笑み、その手を自分から差し伸べてくれたら、とあまりに都合のいい夢を見ることがあった。


 私は悪い主人だった。三つ上のあやめは頃合の歳だ。彼女を大事と思うのなら、他の女房のねたみを買わない程度に立場のよい相手を見つけ、仲を取り持ってやるべきなのだ。

 けれどそんなことは浮かんだ瞬間に消えた。彼女が私以外の誰かのものになるなど、許せるはずもなかった。


 休みを与えることを恐れた。市で、(もう)でた寺で人に出会うかもしれない。見えないどこかで私の知りもせぬ男と語り合う彼女など考えたくもなかった。


 けれどここでも安心はできない。下の身分なので源氏のもとを訪れる殿上人(てんじょうびと)などの(ちょう)を受けることはなかろうが、従者の誰かに言い寄られるかもしれない。

 幸いに彼女は奥手で、恋の噂など聞かなかった。だがそれもいつまで続くかはわからなかった。


 数々のたくらみを自在に操るこの私が、想いだけを募らせる。それでも私は抗っていた。視線をあまりめぐらさず、飢えた獣に別のえさを与え続けた。



 源氏の最後の四十の賀が終わり、本格的に年の暮れになった。与えられた春の町の寝殿からあまり動くことのない私でも、女房たちのいささかあわただしい動きや、初春のための衣装の用意などで季節の移りを感じる。床もいつもよりさらに磨かれて鏡のようだ。


 さすがに私の前では気をつけているが、裏の廊からあまり雅ではない物音が響くこともある。人目がない時は足早に動くらしい。割合に耳がいいので風向きによってはかなり聞こえる。


 それは他の部屋の女房たちも同じらしいが、互いに気をつけているのであまりそんな様子は晒さない。例外は隣に住む明石の女御に仕える女房たちだ。たまたま急いでいた少納言(しょうなごん)を見かけて、侮蔑(ぶべつ)の笑みを浮かべたらしい。本人が憤慨していた。


 あちらの女房も当初のおごりこそ影を潜めたが、それでも権高な空気は残っている。表立ってこちらの女房を煽ることはやめているが、上に立つ機会があれば完全に隠そうとはしない。


 義理の母の紫の上と私との交際がそれをどうにか抑えているが、女主である女御自身の奥底に(おもり)を仕掛けなければ、先々困ることがありそうだった。

 私は小さな声で中納言に命じた。


「若い女房たちのためにいつもより軽々しい遊びごとを用意して。隣の部屋の方々が、少々不満を持つように」


 けして耐えられないほどではなく、それでも身重の女御が多少の負担を感じるほどに。苦情を申し立てるほどではないが、避けたい気持ちが生まれるほどに。


「すぐに新しい年になりますので、口実には事欠きません」

「その後は紛れ込ませている者に、このような方向に持っていかせて」


 図は描き終わっている。後は時期に合わせて駒を動かすだけだ。



 六条院での初めての正月は華やかなものだった。源氏もこちらをまず訪れた。

 どちらにとっても表面だけを飾り立てた実のないうつろな儀礼。それを他意なく見える表情でおとなしく受け入れる。


 人々は浮き足立っている。年の瀬まで続いた四十の賀の後に新年の寿(ことほ)ぎが加わり、ただでさえ浮薄な私の女房たちがよりいっそう浮ついている。


 遊びごとに夢中な彼女たちの声が夜更けまで響く。襖障子(ふすましょうじ)越しの東面(ひがしおもて)の奥にまでその声は忍び込むが、女御の下の女たちはこちらに配慮を促すことはできない。


 暮れのうちに私の乳母(めのと)たちが、適切な品と共に挨拶に出向いた。その際に、里へ戻れぬ宿直(とのい)の者の遊びごとの許しを得ている。今更、責められない。


 主人思いの者が耐えられる限界近くに中納言にささやくと、彼女が仕切って寝殿は静まった。

 明日は気をつかった風に過ごさせ、安堵(あんど)した頃にまた繰り返す。正月を過ぎても里居の者が戻る。口実はいくらでもある。


 女たちをいらだたせるのは簡単だ。それは明白な悪意より、むしろ愚鈍な善意のほうが効果をもたらす。


「後は過剰に配慮して。私の名で安産の御修法(みずほう)も用意してちょうだい」

「格式のある、声の特に大きい僧ですね」


 近寄った按察使が口の端を上げる。その理解に満足を覚える。


 銀の(さじ)で、(まがき)(竹や芝などを粗く編んで作った垣。よく平安花壇に使う)の内の雪をすくい上げていくように少しずつ、隣室の人たちを追い詰めていく。気を配ったように見せながら。


 以前の先方の傲慢(ごうまん)を忘れたかのように大仰な好意を示し、同時に通常では気にするほどではないが、幼い年齢で初産を迎えるために過敏になっているはずの娘の安らぎを薄く削ぐほどの不快を与える。


 源氏も紫の上もそのことには気づかず、御修法や祈祷(きとう)を繰り返させる。

 二月、明石の女御の容態が変わった。



陰陽師(おんみょうじ)に囁いておきました」


 按察使が小声で私に告げる。


「こちらとしても相当に配慮してはいますが、若い娘の多い華やいだ部屋なので、隣の方の負担になっているのでは、と」


 それでいい。星を読み(こよみ)を手繰る彼らも、世俗と隔絶しているわけではない。有用な情報は取り入れる。


 案の定、所変えの指示が与えられた。女御はこちらの読みのとおり、実母の明石の女の住む冬の町の対の屋に居を移した。



 風によっては芥子(けし)のにおいが、これほど離れた春の町まで微かに漂い薫るほどの祈祷が行われた。


 先行きのかかる明石の女も必死だ。だからかえって隙ができる。

 いつもその場にいる者が変わらずにそこにいたとしても不思議ではない。それが私のたくらみだった。


 明石の女が疲れ果てて少し休んでいる頃、年老いた女が現れた。いつもならその場にあっておかしくない者。すなわち彼女の母である明石の尼君だ。


 まわりの者は女御にその生い立ちを告げていない。そしてこの娘は紫の上が実母ではないことをうすうす知ってはいるが、茫漠(ぼうばく)をそのまま受け入れるたちのようで、特に疑問を持ってはいなかった。


 私の手の者はその女主のもとに尼君が近づくことを妨げなかった。この尼君は元々は素性もよくたしなみもあった方だが年老いていて、今は子どものようになっている。


「あの幼い姫がこのように美しく長じなさるとは……」


 大がかりな加持(かじ)の最中で人気はなかった。手の者は隠れた位置に控えて聞いていた。


 九重(ここのえ)(内裏)にあっては淑景舎(しげいしゃ)(桐壺)に住む源氏の娘は、自分が明石の女御と称されるわけすら知らなかった。


 尼君はすべてを話した。源氏と、(ひな)(田舎)に育ってなお誇りを失わぬ娘、明石の女との恋物語を。都に戻る貴人に向けた悲しみを。そこで生まれた女御自身の幼少を。


 娘は涙をこぼしたという。その部屋は、さぞや潮の香に満ちたことだろう。

 都合よく飾った言葉に違いない。しかし核をなすものは紛れもなく真実だった。


 そしられようもない位置の準太政天皇の娘。寵愛厚き後宮一の女御。

 (きず)一つ見当たらなかったその(たま)は、表面ではなく内部に奇妙な芯を抱いている。

 彼女自身がそれを知った。見苦しいほどの泣き顔の老い呆けた老婆。それは彼女の真の身内だ。



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