12.死霊
「あなたが我を張る方でなくて本当によかった」
たびたび源氏はそう口にする。それは半分は本心であり半分はけん制だ。
わたしは言葉に逆らわず無心に見える微笑を返す。その実、皮肉な思いをかみ締めている。
あまりに重なるので昼さえ風の冷たくなる頃、やんわりと言葉を返してみた。
「まあ。どなたとお比べになっていらっしゃるの?」
彼はわずかに得意そうな色を浮かべる。細く時雨降る季節となって、子どものような正妻にやっと女らしい趣が表れたとでも思ったのだろう。
「今いらっしゃる方のことではありませんよ。こちらの方々はそれぞれにふさわしい振る舞いをなさる方ばかりです。まあ、多少古風な方もいますけれど」
末摘花とあだ名される、亡くなった常陸の宮の姫君のことをあてこすっているらしい。彼はこの方に対しては気づかいのない発言をすることが多い。
だが、身よりもなく哀れな立場のこの方を世話していることだけは評価できる。だから知らぬ顔で耳を傾け続ける。
「お若いあなたにはわかりかねることでしょうが、長く生きていますと多少の過去は持たざるを得ないのです。遠い昔に、素晴らしいたしなみをお持ちの女性と縁があったことがあります。その方は賢明で美しく身分も申しなかった。しかしあなたと違って気を許せないところのある人で我が強く、私に辛い思いを強いることのある方でした。それはこちらも配慮のないこともなかったとは言えませんが、男女のことはどちらか片側だけが罪を負うものではないのです。他のことでは充分に知性を示される方でしたが、そのことを理解していただけませんでした。私は、その方のことで不愉快な思いをさせられることがありました。しみじみ思うのですが、やはり女性は我を張らず従順なことが一番大事です。風雅の道や気のきいたもてなしなど何ほどのことがありましょうか。もちろんあなたはそのことをご承知でいらっしゃるでしょうが、この言葉は胸に刻み込んでおいてください」
反発は胸に隠して「はい」とうなずく。話の元となる方は、六条の御息所と呼ばれ方に違いない。
いい気なものだとあきれてしまう。風流人たる貴公子の憧れの君であったその方を悩ませ捕らえ、そのあげくに見捨てた言い訳がこの説教とは。
罪を二人で背負うのは、対等に渡り合った男女だけであろう。軽々しく心を移すことのできぬ高貴な女など、同じ位置に立てはしない。むしろ期待など持つすべもない女房たちの方が、気持ちの上ではまだ楽な者もいるだろう。
たとえば先日、女房の兵衛に源氏の手がついた。騒ぎ立てることもない、つまらない日常の一情景で、彼女に限らず紫の上の配下の女房にも、他の町の女にもそんな娘はいる。
だが兵衛に対してはそれほどの寵には至らなかった。当初は誇ったこの娘自身さえ、忘れたような顔で日々をすごしている。
それと違って高貴な女君の言動は固く縛られ、世の噂と女房の視線によって抑制される。
必然、たまさかに訪れる恋にすべてを注ぎ込むような生き方をする人もいるだろう。身分高く資産に恵まれ、教養や容姿が申し分なくとも、男と同じ位置に立つことなどあるはずもない。
「あなたは素直なところが大きなとりえですね。とてもよいことです。この様に私の言葉を聞き入れてくださっているうちに、きっと素晴らしい女性におなりになるでしょう。さすれば山にお入りになった院もお喜びになると思います」
感情と逆の表情を作ることは得意だが、この時はさすがに少し苦労した。傍に控える按察使が、一瞬だけ同情的な目線をこちらに向けた。
ことあるごとに源氏は私を教え諭す。しかし今は女房たちや女童にまで口を出すことはない。
嫁いだ当初はそれを試みた。東の対の女房たちを見本に落ち着いた空気に染め上げようとした。
ところが浮薄な蝶であることを前提に集めた彼女たちは、そのような趣を解さない。ひたすら華やかでただ明るく、言葉には逆らわないが態度を改めることもなかった。
源氏は女房たちを抑えることをあきらめ、次には幼い女童を指導しようとした。そして彼女たちが夢中になる子供っぽい遊びを止めようと口を挟んだ。
童女たちはしゅんとして従おうとしたが、不満を抱いた一人がしばし考え込み、それから納得がいったように言葉を発した。
「わかりました。昔の人は遊びごとなどしなかったのですね」
さてもさても、無邪気さは武具になる。噴き出しそうな気持ちを抑えて困ったように中納言を見ると、彼女も内心を隠した無表情さでその子をたしなめた。
源氏は憤然としてしばらく訪れがなかったが、その後は私だけに教えの言葉を賜るようになった。
今日の言葉もそのようなものの一環だ。源氏は諭しに満足して、その夜は対に戻っていった。
夜更けに、気配を感じて目を開けた。私は自分の御帳台の中にいる。いるけれどもそこは同時に別の場所でもあった。薄闇。いつもとは違う香の匂い。
長く艶やかな髪が、私の胸元にまでかかっていた。傍らに、身を伏せる影のような女の気配がある。
その様子はとても気品高くなまめかしい。そして女が、ゆるゆると面を上げた。
顔は見えない。凄艶な美を有していることだけがわかる。白い闇のようなおぼろな顔に、血のように紅い唇だけが見える。
女はこの世に生きる者ではない。閉ざされた過去に縛られた何かだ。
かそけき声が、その女の口から漏れた。
「力をお貸しいたしましょう」
私は即座に答えた。
「不要!」
そして胸にかかった女の髪を払いのけ、半身を起こした。
源氏について充分に調べた私には、女の名は想像がつく。六条の御息所と呼ばれた方に違いない。
命を失ってやっと自由に妬み、自由に怒ることができるようになったか弱き者の助けなど必要としない。
「私はこの、血の通う身体で挑み、限りあるこの脳裏のうちに謀る。得体の知れぬ力など望んではいない」
さらに続けた。
「おまえが私の思う者なら、わが帳のうちをこれ見よがしにおとなうことを許される身分ではない。格下であることを認め、わきまえよ!」
女は恐ろしくは見えなかった。むしろ悲しげに見えた。
「私が……何者かはすでに忘れてしまった…………」
「その程度の浅い執念で惑うか。笑止。さっさと憎む者のもとへ行って祟ればよい。私の手など借りずに」
細い声が悲鳴のように聞こえる。
「できぬ……あの方は、あまりにまぶしい………」
「思い込みだ」
決めつける。
「あの男の光は昏い。女の想いがまとわりついてそれを輝かせるに過ぎない」
「それでも」
その寂しい声に、捨てきれぬ気品が薫香のように煙る。
「それでも私には眩しすぎる」
「おまえの想いが強いからだ。誇れ。おまえがあの男を輝かせている」
唇が微笑んだ。形よく薄い唇だった。
「幼子のような声と姿を持ちながら、鬼神のような心根。生きている頃の私にその強さがあったなら、あの方をまっすぐに見つめることができたものを」
張り詰めていた空気が緩む。私は普段の自分を取り戻し、この妖しいまでに美しい女に尋ねた。
「今のあなたにできることはあるの?」
「ない」女は答えた。
「呼ばれた時に現れ、偽ることができるだけ。祟ることなどできない」
そういってすすり泣いた。
女の涙は時雨にも似て、ぼやけた顔のあたりから糸よりも細く滴り落ちた。
「ならば、その偽りを真実と代えればいい」
まるで生きているかのような艶を持つ髪が、そこだけ鮮明に私の声に驚いて揺れた。
覚えのない香の奥ゆかしい匂い。身につけたたしなみは魂に刻み込まれるのだろうか。
「私は源氏を傷つける。必要なときに現れて、自分のせいだと述べればいい。その方が私にとっても好都合だわ」
薄い闇がゆっくりと濃くなっていく。女は再び微笑んだ。
長い髪がぬばたまの闇に溶ける。女はこの場から静かに消えていく。
輪郭の定まらない白い顔と紅い唇が、最後まで際立って美しかった。
何事もなく目覚めた。昨夜のことは夢か現実かわからぬが、それとなく宿直の女房に確かめたところ、その夜は何の変わりもなかったようである。
私は記憶を払いのけた。現実であったとしても意味のない会話だ。忘れてしまうに限る。そんなことよりも考えることは多々あった。
たとえば、引き続き行われた源氏の四十の賀だ。帝は行幸を予定したが源氏に断られ、やむなく断念した。代わりに、中宮が予定している。
十二月の二十日過ぎに行われるはずのその日を待つことにした。




