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 ()の折でなくとも、六条院での不自由は人目がありすぎることだ。朱雀院(すざくいん)も仕える者は多かったが、そこの主である父は私の思うようにさせてくれたので、人払いをして書を読みふけることができた。ところがここではそれは容易ならぬことだ。


 困り果てた私は源氏の通わぬ夜にこっそりと御帳台(みちょうだい)(平安ベッド)に持ち込み、読書を楽しんだがその夜の宿直(とのい)按察使(あぜち)に見つかってしまった。


「『戦国策(せんごくさく)』ですって。あなたがこの劉向(りゅうきょう)の書をお読みになるのですか」


 これはあまり人に誇れる本ではない。唐国の昔の戦乱の世の権謀術数について書かれたもので、道徳や倫理観などとっぱらって、人の本質を追及しつつその裏をかく大変に面白くて俗っぽい本だ。

 あせって、好奇心でと言いかけてふと気づき、彼女を見つめた。


「なぜ、この書の編者を知っているの?」


 彼女も困ったような顔をした。漢字など読む女は世間から非難される。けれど少しの沈黙の後に、片頬を歪めてわずかな笑みを見せた。


「比喩が巧みでわりに好きです」


 あきれてしばらく彼女を見つめ、それからつい、素直に答えた。


「私もそう思うわ」


 二人顔を見合わせて噴き出した。そういえば以前源氏の追及にあったときもやり過ごしてくれたのは彼女だ。もしかしたらあの時すでに予想されていたのかもしれない。


 人聞きの悪い愉しみ。まさか過激な行動を平気でやってのける彼女にそんな一面があるとは思わなかった。つい語り合い、もう一人の宿直の役目の中納言(ちゅうなごん)が近づいてくることに気づかなかった。彼女はあまり音を立てないのだ。


「宮さまにふさわしい趣味とは言えませんね」


 思わず飛び上がりそうになった。中納言は責めるような無表情で漢籍(かんせき)を取り上げた。殊勝(しゅしょう)ぶった様子でごまかせる相手ではないので、すべもなくうつむく私に彼女は続けた。


「わたしは『史記(しき)』の方が好みです」


 あっけにとられて口を開けた。なんとお仲間だったらしい。王道中の王道の歴史書をあげられた。


 この二人しか近くにいないとき、わたしは書を楽しめることになった。そして同時に読み物を語り合える相手を得た。これは大きな収穫だった。

 他にはあやめ以外、私が漢籍を好むことを知る者はいない。この二人を心の底では信じてはいなかったが、極めて有益な相手だと思えた。それは私には珍しいことだった。


 大事に思える従者はあやめだけだが、彼女にこの下地を求めるわけにはいかなかった。格下と見下したい女房たちに命じて、女文字を身につけさせるだけでも苦労したのだ。それ以上のことは不可能だった。

 乾いた心を潤してくれるのはいつもあやめだ。けれどそれ以外の部分で二人は役に立った。


 たとえば、策略めいた事項にはなるべくあやめを関わらせたくない。私がそんな気性の持ち主だと彼女は知っているが、あやめには不似合いだ。ただ横で微笑んでいてくれればいい。


 しかしこの二人には私の心の最も暗い部分を任せられる。けれど、それ以外でも語り合うことはなかなかに楽しかった。



「月並みですが李白(りはく)です」


 大殿油(おおとなぶら)の光に浮かんだ中納言は、いつもどおり感情を浮かべない。日常の言葉をこぼす時やたくらみに加担する時と同じ顔をしている。


「彼の詩は身近なことをうたうときでさえ広く、大きい。感傷をそれだけにとどめず滑稽味さえ持たすところなども好ましく思います」


 按察使が口を挟んだ。


「俗をうたって卑に堕ちず、といった趣ですね。では、杜牧(とぼく)はいかがですか」

「好きな作もあるにはあるが小器用すぎる。あの天地(あめつち)と一体化したような興奮を与えてはくれない。ですからわたしの推すのはやはり李白です」


 彼女に向き直って中納言が答えた。わたしは按察使に尋ねてみた。


「按察使はどうなの。李商隠(りしょういん)あたり?」


 唐国の詩はなぜか恋をうたう物が少ない。わが国の歌のかなりの部分を占めるのと対照的だ。だがこの作者は例外的に恋愛詩が多くて巧みな才人だ。けれど彼女は首を横に振った。


「いえ。色ごとは実践(じっせん)に限ります」


 聞いていた中納言がわずかに口の端を緩めた。私も微笑み、さらに問いかける。


「では、誰が好きなの」


 彼女は私の目を見つめ返し、少し間をおいて答えた。


「…………李賀(りが)です」

「ほう」中納言が感心したような声を上げた。


 確かに意外な名だ。夭逝(ようせい)した天才で、鬼才といえばこの人のことだ。華麗で妖美な作で知られる。私が口にした李商隠が心酔していたことでも有名だから、わざとあげたのかもしれないけれど。


 思わず彼女の目の奥を見た。冷ややかな青い鬼火がその中に見えることを期待して。

 もちろんそんなものは見当たらず、いつもと同じ眠たげな(ひとみ)


「李賀といえば、科挙(かきょ)(官吏登用試験)を受けることを妨げられたのは気の毒ですが、あの尖った性格で官人をやっている所は想像もつかない」


 中納言の言葉に私もうなずく。


「ええ。どっちにしろ合わなかったとは思うけど、誇り高い人だったみたいだから可哀想だわ。邪魔をしたのは白居易(はくきょい)の親友の元稹(げんしん)なんでしょう。詩を読むといい人だと思えるのにね」

「人の本質を読むことは難しいですね」


 そういえば私もその意見を助長させている。くすりと笑って視線を流した。

 今日の宿直はこの二人で他に女房はいない。あやめは知っているからいつもは一緒にいることが多いけれど、今夜はいない。そのことに気づいた按察使が聞いた。


「あやめは控えていませんね」

「連日そばに居続けにさせたから休みをあげたの。もう遅いから休んでいるでしょうけど」


 この部屋の裏の北廂(きたびさし)の一角に彼女の場所がある。ふいに会いたくなって胸が痛んだ。だけど呼び立てるのも気の毒で、その気持ちを閉じ込めた。

 少し表情が暗くなってしまったのか、気を変えようとしたのか中納言が私に尋ねた。


「宮さまのお好みはいかがでしょう」

「ずっと王維(おうい)の自然詩が好きだったけれど、最近は他にも多いわ。李白だったら静夜詩(せいやし)が好きだし、張継(ちょうけい)楓橋夜泊(ふうきょうやはく)も胸に染み入る。白居易も好ましいけれど、今気になるのは李煜(りいく)の作かしら」


 南唐の最後の王にして詩人。豪奢な生活に明け暮れて国を失い、囚われの身となり異郷で死んだ。

 その詩は甘苦く美しく、官能的でありながらひどく清らかで切ない。


「…………淋しい詩がお好きですね」


 柄にも合わずにそうなのかもしれない。策謀に疲れて一人思い出すのは、そんなものが多かった。

 遠い異国の隔たりのせいで、自分の内部をささやかに照らし出すことを拒否しないでいられるのかもしれなかった。



途中出てきた李煜は937-978に生きた人で源氏物語のモデル時代とは少しずれています。

が、原作でも時代の違う催馬楽を入れたりしてるので、かってながら許していただきます。

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