10
西と東を隔てていた襖障子が静かに開かれた。
唐衣と裳をつけた紫の上の前で、私はくつろいだ小袿姿だ。
誰の目にも明らかだ。彼女は女房の如くかしずく者。私はかしずきを受ける者。
ただし、立場の変わった義理の娘のために装ったと思えば、それほどの屈辱を感じなくてすむだろう。
彼女に向かってやわらかく微笑んだ。会ったばかりの娘より私は幼く見えるはずだ。紫の上は明らかに落ち着いた。
そこに、驕慢な競争相手の姿ではなくあどけない童女を見出して満足したか?
あなたは気づかない。その童女の棘に。その底に潜む、大きな獣に。
母のようにやさしく声をかけた彼女は、控えていた中納言も呼んだ。
「たどれば同じ祖先を持つもの同士、これからはお気軽に私の方にもおいでください。こちらに行き届かぬことでもございましたら、叱ってくださいね」
中納言はうやうやしく申し立てた。
「ご親切なお言葉ありがとうございます。お身内の事情で宮さまは、心細くされておりました。法皇さまもぜひあなた様にお世話いただきたいとのご意向でございます」
抵抗できないことをわかった上で、父の名で縛る。
「数ならぬ身で申し訳ないことですが、ありがたい御文をいただいております」
気色張らない様子で彼女は答え、またこちらに向き直った。
「宮さまは絵や、お人形遊びなどはお好きですか」
「ええ、大好き」
確かに私はそのどちらも好きだ。物の形を写し取ることも、漠然とした思考を脳裏に図として描いて明瞭な形に変えることも好む。手持ちの人形をいろいろな人物にたとえ、状況を考え配置をたくらむことも楽しい。見えにくかったこともこうして仮の姿を与えると、明確に把握できる。
樺桜がその梢を揺らすように紫の上は微笑んだ。
「まあ、私も。いまだにやめられませんの」
私の素敵な新しい人形。あなたの形代には特に美しいものを用意させよう。
そして、礼を尽くした対応には応えさせていただこう。表面上は私は、けしてあなたを辱めることはないだろう。
対面の際、源氏は六条院にいなかった。どこにいたかは想像がつく。
そのしばらく前に私のもとへ藤の花が届いた。文さえ添えていなかったが、あの方だとわかった。
花よりも鮮やかでありながら、潤んだ艶を含んで輪郭さえにじませる方。朧月夜の君。以前その部屋を訪れたのは最も寒さの厳しい頃だった。
その頃のあの方は憂いに沈んでいたはずだ。彼女の嘆きさえ私の父の出家を翻意させることはなく、彼女は長年空けていた二条の里に戻ることになっていた。
だがそんな時でさえ自分を失ってはいなかった。大后と相反するたおやかさを持ちながら、そのくせ強固な意思がまごうことなきその一族の者であることを示していた。
「すぐには出家も許してくれないのよ。ひどい方だわ」
笑みを含んだその唇から漏れた恨み言は、父に向けたものだった。
「けして私が逆らえないことを知っていて、未練など残さぬよう十分に罪を宿して、それを供えて世を捨てよとそそのかすの。とんでもない男だわ」
「そうなさるの」
「そのつもりはまったくないけれど、結局はそうなるでしょうね」
寵姫と呼ばれるにふさわしいこの方は、若々しい様子で言葉を続けた。
「かまわない?」
「ええ。こちらこそあなたの恋人を傷つけるつもりなのよ」
「彼にはそれが必要よ。私はあの人が大好きだけど、本気でそう思うわ」
それからふいにやわらかな色合いを瞳に宿した。
「話すべき事柄ができたら、どうにかして教えて差し上げるわ。私はあなたに配慮することなくしたいようにするけれど、邪魔をするつもりはないわ」
強い人だと私は思った。過去の傷はけして彼女を貶めずただ輝かす。弱さまで含めて自分を愉しみ、その上他者への情を失ってはいない。
この方の存在が私の母を苦しめたことを知っている。母は桐壺帝の前の帝の皇女ではあるが更衣腹で、女御にはなったがたいした後見を持たなかった。源氏の宮とあだ名された彼女を、父は内心いとおしがりながらもそれほど報いてやることはできず、大后の肝いりで後宮の最上位である弘徽殿さえもらったこの方が来てからは威圧されてしまった。
そのことと生まれた私が女だったこと、そのため相性の悪かった兄の母の承香殿の女御に見下されたこと、そして父が早くに退位してしまったことのためか、世を恨むようにして早くに亡くなった。
そんな母には申し訳ないけれど、それでも彼女は敬意を向けるにふさわしい人だと思った。
凍りつくような廊を渡って戻る時に、寒々しい冬の月が冴えた光をこぼしていた。
私は、人の好まぬこの季節の月が好きだ。足を止めて見上げたことを思い出す。
今、月は緩みそれを臨む場も移ったが、私自身は変わらない。
紫の上との対面は、物事の本質に羅(薄絹)を掛けるような効果をもたらした。争うはずの女同士が温和な付き合いを持っただけで、二人共に世評は上がる。
だが、世の人々が本当にほしがるものはこんなものではないと知っている。
高き位置の者の苦悩を。安定したものの失墜を。はるか昔に与えられた、当時の源氏の正妻と高貴なる愛人・六条の御息所の車争いなどは、彼らの最高の娯楽であったことだろう。
しかし私はそれをやすやすとは与えない。せいぜい、親王の娘ごときに押されがちでお気の毒な内親王であってやるだけだ。
文を交わし、遊びごとなども共にする。妬心の存在さえ知らぬようなあどけない姫宮。それが私の役目だ。紫の上は私の位置には心を置くものの、私自身には用心さえしない。だからこの人の性格や心根のほどがよく見えた。
その核は、装った私よりもよほど無邪気な少女だ。勝気で利発で、優しささえも充分に持っている。
だが彼女はさまざまな資質に恵まれてはいるがそれ以上に努力を重ね、すべてのことで他者の上を行こうとする。
なぜ追い立てられるようにそのことを求めねばならぬのか。香合わせの話を聞いたときも少し気になったが、神無月(旧十月)に行われた源氏の四十の賀(当時としてはシニアである四十歳の祝い)の時にさらに疑問に思った。
侍従に尋ねられた時、紫の上に任せるように答えた。この乳母は不満げだった。
「正妻たる宮さまのもとで盛大に行われるべきではありませんか」
「もう支度を始めていらっしゃるのにお気の毒だわ。手伝いだけに留めておいて」
「宮さまはお人がよすぎます」
浮世離れした様子でおっとりと微笑む。そう見えるのなら好都合だ。
四十の賀のために嵯峨の御堂で行われた薬師仏の供養は、控えめにしてくれとの源氏の言葉に従わずに派手なものとなった。
それに続く精進落としは、昔源氏が紫の上と住んでいた二条の院で行われた。彼女はここを自分の私邸のように扱っている。よく目の行き届いた盛大な宴になったらしい。
「お見せしたいほどでしたわ」
手伝いから戻った小侍従が勢い込んで語った。
「ご衣裳もどれも素晴らしかったのですが、調度がこりにこっておりました。帝の御台もかくやとばかりの螺鈿細工の椅子。沈の香の花足の台の上に生きているかのような金の鳥が銀の枝にとまる趣向の挿頭。これは明石の人が指示なさったという話ですけど思ったよりやりますわね、あの人。紫の上のお父さまの式部卿の宮からは山水画の屏風四帖。他にもあまたの品がそろえてありました。楽人や舞人も数多く呼ばれてそれぞれ立派でしたが、太政大臣のご長子の衛門の督の柏木さまと、こちらの院のご子息の夕霧さまが舞った入綾(ラストダンス)がえもいわれぬ見事さで、垣間見ていて思わず涙ぐんでしまいました」
幼い時の私のたくらみは、確かに彼女に一つの才を与えた。よく、舌もかまずにこう立て続けに話せるものだ。
「そう。それはよかったわ」
かすかな合いの手を挟むと彼女はさらに話し続け、次の宿直の者が控えてもなかなか席を立たなかった。
上ずった声を聞きながら布施だけを届けたその祝いに思いをはせる。
この華やかな催しは私に張り合ってのことではない。それはたぶん、今年の初めに行われた髭黒の大将の現在の北の方、私が最初に牙を研ぐ契機となったあの昔の源氏の養い姫を意識したものだ。
子の日の若菜にかこつけたその方の祝いは、仰々しい儀礼を好まぬ源氏さえ感心するほどの鮮やかさだったという。
しつらえた屏風や壁代、その他さまざまな品も極めてふさわしく趣味のいいもので、用意を整えた玉鬘と呼ばれる方の評判は上がった。
なおかつ彼女の実父の太政大臣や、夫君の髭黒の大将が生ける調度として飾られた。実はこれが一番重要だ。口さがない女房たちと違って政の感覚のある者は、品ではなく人を見る。だが、こちらの女君たちは花散里は知らぬが、そのような見方は持ち合わせていない。
そのときの賀は格式ばった椅子など用意せず、ものものしさは感じさせなかったという話だ。当時の私の父の不調に配慮して、楽人の用意もなく、ただ居合わせた方々の調べが夜を彩ったと聞く。
紫の上がことさらに整えた椅子や華々しくそろえた楽人や舞人、綺羅の極みの品々はその玉鬘の君を超えようとしたとしか思えぬ。
不思議だった。もはや寵を争うこともない異郷育ちの女と張り合う意味があるのかと。けれど紫の上は己のあり方を確かめるようにそのことを必要としていた。
何かが不安なのだ。彼女の父である式部卿の宮は後見としてふさわしい人物とはいえない。はっきりいって無能だ。そしてその正妻、きつすぎる性格で評判の北の方は彼女に悪感情を抱いているとの噂だ。
自らを頼みにせざるを得ない立ち位置が過剰に走らせるのか。しかしそれならば、夏の町の花散里も確固たる後見を持っていないが、このような様は示さない。
彼女を脅えさせるもの、その一つは私の立場だ。だがそれだけとは思えない。彼女は偽りの私を信じている。それのみが不安であれば自分主体で賀の用意はできない。表面は私を立て、裏からの支援にとどまったはずだ。
やはり、それは源氏に起因するのだろう。一所に羽を休ませぬ浮気心が惑わせるのか。
しかし私は手の者に探らせたが、彼女が気をつかわねばならないほどの相手はいない。中では源氏の従姉の朝顔の前斎院が目立つ相手だが、その方は心を寄せるつもりはないとわかっている。
朧月夜の件もばれているらしいが、今さら彼女が六条院に来ることはない。
他は、明石の女が評判を上げ価値を示しているが、その娘の明石の女御に仕えることに忙しくて、源氏の元に侍ることは少ない。
彼女の不安の根幹を成す何かがありそうだ。それは幼い頃から引き取られ親しんだはずの源氏を信じきれぬほど深いもの。もしかすると彼女自身さえ理解していない心の奥の闇。それが光をまとうあの男の底につながっているような気がする。




