1
そこにささやかな悪意の存在。
よくある話だ。私の周りにも多い。
女ばかりの閉ざされた部屋で、上の立場にある者が格下の者をいびる。もしくは同輩同士で、容姿や性格何かの才などを利用してその差異をあらわにしようとする。
実につまらない。そんな程度が楽しいか。
かすかな優越。井の中の社会の敬意。たかの知れた羨望。日々を多少は快適にするらしいその薄っぺらいもので本当に満たされるのか。
その小さな世界が少しだけうらやましい。
そして私は飢えている。
中の獣は飢えて乾いている。
この牙を肉に突き立て、切り裂き、血をすすることを欲している。
兎などではだめだ。腹の足しにもならぬ。
もっと大きな獣を。草をはむ穏やかな生餌などいらぬ。賢くずるい肉食の獣を。私などを歯牙にもかけぬあの力を。
私の中の悪意の存在。
微小な力しか持たぬ者の大きすぎる欲望。
神も仏も人さえも厭うはずのこの想い。
それだけを礎に私は嫁ぐ。
帝と上皇に次ぐ地位のあの男、光源氏に。
もの心つく前から私は彼を憎んでいた。
彼さえいなかったら、きっと父はいまだに帝の位にあり、私は望めば母のいた藤壺に住むことができただろう。
彼は父から帝の位を奪い、私からは母のゆかりの場所を奪った。
もちろん彼がじかにその位についたわけではない。でも、同じことだ。今の帝は父の弟でもあるにもかかわらず、あの男の忠実な傀儡なのだから。
もの心ついたころ、彼はまた父から女を奪った。
父がそっと面影を抱いていた美しい前の斎宮。父の望みを知っていたくせに、それを無視して手駒である今の帝に与えた。
私が生まれる前にも彼は、父の最愛となるべき女を奪った。女御となり后となる予定だったのその方は、戯れと知りつつ禁じられた恋に落ちた。
それよりもずいぶんと昔、そう、生まれたその時から彼は奪い続けていたのだ。父の父、桐壺帝の愛を。女たちのほほえみを。上卿(セレブ)たちの好意を。
けれど私が嫁ぐのは父のためではない。私自身の欲望のために他ならない。
いつか私は地獄に落ちるだろう。だが、それが何ほどのことか。
温かく守られたこの豪奢な暮らしの中でただ息を吐き、ささやかな楽しみを享受し、年老いて死んでいくぐらいならば、その苦痛は望むところだ。
その牙を研ぐことを覚えたのは十歳になる頃だ。
当時も今も私が他者に与える印象は変わらない。年よりも幼い人形のような姫宮。小さな体が、子どもっぽい姿が人にそう思わせるらしい。
けれど本当はそんなあどけない少女ではなく、同じ年頃の誰よりも大人びていた。
それを知るのは父と姉の女一の宮、そして私の女童であるあやめだけだ。
私は父である前の帝に、ひどく愛されている。腹違いに、東宮(皇太子)である兄と二人の姉そして妹が一人いるが、その誰もが及びもつかないほどの愛情を注がれている。
このことについて人々思う理由の一つは後見(保護者)の不在だ。私の母は臣下に下った皇女で、その里は絶えている。不安定な立場を不憫に思ったと考えるようだ。
乳母たちならば、私の容姿をその理由としてあげるかもしれない。確かに父は美しいものを好む。寵愛する者も身の回りの調度も、磨き抜かれた感性で選ばれている。
だが私は、そのどちらにもうなずけない。傲慢のそしりを受けてもかまわぬが、彼は私が私であるから愛したと信じている。
その情はひめやかなものではなかった。私は、今は父の名でもある朱雀院で育ったが、彼は幼い私を連れてその中を自由に動いた。
「母のない者です。可愛がってやってください」と女たちの御簾(すだれ)の中まで伴い、女御(帝の妃の位。えらい)や更衣(帝の妃の位。えらくない)たちはそれを拒むことができなかった。広い院の中のほとんどが私の庭だった。
それを恩恵と感じていたわけではない。当然としていた。だがその心根は表面には表れていなかったと思う。勘の鋭い者でさえ、言葉少なく感情を表さない私の内部を読み取る者はいなかった。
そう。私はあの男とは違う。同じように彼の父帝に扱われた源氏とは違って、目立たずにその場に溶け込んだ。そこにいる人々が置かれた人形のような私の存在を忘れ、幼い姫宮の前ではふさわしくないうわさ話にふけるほど。
「源氏の君が六条の院に新たな女人を迎えたそうですよ」
木々の梢の先が寂しく見える年の瀬近く、ある女御の部屋の几帳(移動式平安間仕切り)の陰でその話を聞いた。
「若く、たいそうお美しい方だとか」
互いの口を最大の娯楽とする女房たちが、まだ世には伝わっていない話を持ち込んだ。
「紫の上もお悩みのことでしょうね」
一人が彼の一の人とみなされている女性の呼び名をあげた。源氏は数多くの夫人を持っているが。特に寵愛されているのは、幼いころから身近に置いて育て上げたその方であるらしかった。
「ですが今度は娘だとおっしゃっているようですよ」
「本当でしょうか」
「違うにしても、また理想の女に育て上げようとしていらっしゃるのじゃありませんか」
「幼女ならともかく、今度の方はそれなりのお年のようですから無理でしょうよ」
「ええ。幼い者なら素質があれば、思うとおりに変わりますけどね」
利害の絡まぬ気楽な話に、彼女たちは俗な憶測を付け加えた。
私はすべての気配を消し、耳だけとなってそこにいた。
女房達の話の多くは何らかの真実を含むが、同時に単なる希望もはびこっている。これをできるだけ除いてその核だけにするには、同じ噂の手持ちの数を増やせばいい。おのずと余計な部分が見えてくる。
割にたやすい事だ。連れ歩く父を意識的に誘導し、噂を得やすい場所に私を運ばせた。
ーーーー本当の娘ではないらしい
そんな噂が混じっている。
ーーーー兵部卿(そこそこえらい皇子の身分)の宮が興味をお持ちのようだ
ーーーー内大臣のご子息も気を惹かれているらしい
たくさんの噂の中にさりげなく、毒のある話が混ざる。
――――源氏の君ご自身もその姫を…………
「あやめ」
人目をはばかって自分に仕える女童を呼んだ。
「承香殿の女御さまの兄君がここに訪ねてくる頃合いを調べてちょうだい」
東宮のおじであるその方は、源氏と対照的な外観だ。濃いひげを生やしていてまるで武士のように荒々しい。そのためか彼はあまり女性に好まれない。だから北の方と不仲であるとか、目立つ話以外は女房たちの口の端にはのらない。
調べ上げる自信がなかったのか、あやめは不安そうに私を見た。落ち着かせてやろうとほんの少し微笑の形を見せる。
「門番か厩の人に、いかめしくて恐いのでいらっしゃる日はお勤めを避けたいとでもいえば教えてくれると思うわ」
内裏から離れ表立った力を失ってはいても、父の元を訪れる殿上人(エリート)は意外なほど途切れない。その穏やかで親しみやすい人柄のせいでもあるし、源氏に次ぐ実力を持つ内大臣が誠実に仕えるためでもある。
そのせいで朱雀院の車宿り(平安ガレージ)が混みあう日もある。だからこの方の従者は、あらかじめわかる限りにおいては訪問の予定を告げて場所を確保している。これは本人に聞いた話だ。
父の唯一の皇子を生んだ女御の兄である彼は、将来を約束された臣下だ。だから父に選ばれて私と言葉を交わすことがある。
皇女はうかつに声を聞かせぬものだが、幼いうちから身近にいる幾人かはその栄誉を与えられる。
彼は個人でこちらに来ることも、普段は内裏に住む承香殿の女御や東宮に従って伺候(参上)することも多いので、私には見慣れた臣下の一人だ。特に怖いとは思わない。けれど大抵の女童は、彼の雄々しい見た目や言動に脅える。
実際は私と同じ年頃の娘がいるためか子供には優しい。けれど彼女たちはそのことに気がつかない。だからあやめがそう申し出たとしても、不審がられることはないだろう。
彼女はうなずいた。その目の色が不安よりも心配であることに気づいて、私は形だけではなく微笑んだ。 本来なら彼女は、直答すら許されない身分だ。逆らうことなどけしてないがその域を超えて思いやってくれる。三つ年上のやや大柄な娘。私の大事なあやめ。
私には多くの乳母がいるが、その中に侍従と呼ばれる者がいる。娘とともにこちらに仕えているが、以前その夫が得体の知れない女に子を産ませた。それがあやめだ。
ある雨の日に、侍従の里の門前に捨てられていたそうだ。持たされていた文で事情を知ったこの乳母は、怒りつつも樋洗童(トイレ係)として使うつもりでここに連れてきた。だが私は彼女をいたく気に入り手元に置いた。そのことが今の私を築いたともいえるが、それはまた別の時に語るつもりだ。
「新年のご挨拶と男踏歌の時にいらっしゃるそうです」
そう聞いて考えた。さすがに年の初めの重々しい雰囲気の中ではうかつに動けないだろう。しかし、後者なら。私は脳裏に図を描き出す。
男踏歌は睦月(旧一月。現在はほぼ二月)の半ばに行われる行事だ。四位以下の殿上人や地下(下っぱ)の者などが内裏から上皇御所などを廻り、足を踏み鳴らしつつ歌舞を披露する。毎年はないがこの春は予定されている。
承香殿の兄君は三位の右大将なのでその義務はないけれど、義理堅い方だからかこの度は付き添ってくるそうだ。
女たち、特に閉ざされた世に住む者たちは、ことのほか若い男たちの舞楽を好む。いつもとは逆に品定めにいそしみ、普段はかたくるしい年配の女房たちさえそれに見とれ、配下の者を許容する。序列さえその日は乱れがちだ。
考えた。いつも通り父の傍にいるのは目立ちすぎる。人が多ければいかに催しごとに気を取られようとも、上皇鍾愛(すごく可愛がること)の姫宮に視線を向ける女房が出ないとは限らない。そこは不向きだ。それならば、私が動ける範囲で目立たぬ所はあるだろうか。
すぐに最適な場所を思いつく。
私の祖母、大后は朱雀院の東北にある柏殿に住んでいる。もはや大した力を持たぬ方なのでこちらほどは人がいない。しかし男踏歌の一行は礼儀上この場にも回ってくる。
そこに決めた。普段その方のもとに向かう時に父は私を伴わないが、以前に連れて行かれたこともあるので、さほど不審には思われないだろう。折を見て、静かな場所で楽しみたいと乳母にねだることにした。