八章
去年と同じように夏が過ぎ、私は相変わらずの生活を送っていた。変化があったといえば、一週間に一度くらいの割合で、私が翔太の部屋を訪れるようになったことだった。カレーを作ればいつも作りすぎてもてあましていたので、彼におすそ分けしたりした。その度に翔太は、大した料理でもないのにすごく喜んでくれた。そうやってなんだかんだ理由を作って私は翔太に会いに行った。私が翔太の顔を見たくなるようなときは、学校やバイトで失敗して落ち込んだときが多く、誠実で大らかな彼の笑顔を見ているとそれだけで悩みの半分は軽減されるからだった。
それからもう一つ変化があった。私は翔太に公園で寝泊りしている老人に紹介され、彼とも友達になった。友達というより弟子になったと言うほうが正解かもしれない。その老人は翔太によって高田先生と呼ばれていた。私は翔太に「高田さんは、なんで先生なん?」と訊いてみたら、彼は「高田先生は僕の師匠じゃから」と言った。翔太の話によると、高田先生はその昔、本当に大学の教授をしていて、かなりの地位のある人だったらしい。噂によれば、H大の学長候補にも名前が挙がったことがあるらしいと、高田先生の仲間のおじさん達に教えて貰った。私は翔太の話を聞いていて、ますますわけが分からなくなった。
「なんでそんな人がこんなところであんなことしとるん?」
高田先生は日がな一日、自転車を走らせ、スクラップ回収や缶拾いに精を出していた。
「何もかも嫌になって逃げ出したくなったんやって。今が一番自由で自分の人生を謳歌しとる実感があるって言うとった」
「ふーん。人生、分からんもんじゃね」
「そうじゃね」
「大学教授なんて誰にでもなれるもんじゃないじゃん。もったいないなぁ」
「でもな、大学で研究するにもいろんな制限があるし成果を上げんといかんし、そいでもって研究しとけばいいだけじゃのうて、学部長選挙やら学長選挙やら、いろいろ鬱陶しいらしいよ」
「なんか想像しただけで、うんざりかも」
「そうじゃろ? でも、高田先生もな、一つだけ後悔しとることがあって……」
「ふーん。 それで? 何を後悔しとるん?」
「家族を捨てたってこと」
「……」
「高田先生は、恋愛結婚じゃのうて、大学の上司の娘さんと半分強制的に結婚させられたんじゃって」
「もしかして、派閥闘争かなんかに巻き込まれたってこと?」
「うん。でも自分と奥さんは、育ち方も考え方も違いすぎて、何もかもちぐはぐで最後までぎくしゃくしてて……」
「だから家を出たん?」
「そうじゃって言うとった。でも、やっぱり奥さんと子供のこと、愛してたって。何があろうとも最後まで責任を持つべきだったって」
「ふーん、なんか悲しい話じゃね」
「高田先生は僕みたいな若造に、いろいろためになる話をしてくれて、ほんまに勉強になるんじゃ」
「……そうじゃねぇ」
翔太は私がおすそ分けを持っていくたびに、彼の下宿でこういう高田先生の話を聞かせてくれたが、今日もそろそろお互いバイトの時間が迫って来ていたので、私が自分の下宿に準備をしに帰ろうとすると、彼は「最後に、一番胸に染みた高田先生のお言葉を特別に聞かせたろう」と私に言った。
「『どんな境遇にいたとしても、誠実でいさえすれば、道は開けるものだ』」
「うっわー、何かじーんと来た」
「そうじゃろ。高田先生はこれを地でいく人なんじゃ。先生は誰にでも親切にする人じゃけんじゃと思うけど、仲間からいろんな差し入れがあって食うに困らんって言うとった」
私は思わず笑ってしまった。
「元気、出た?」
「出た、出た」
「じゃ、バイト、頑張って」
「翔太こそ、頑張れよ」
「おう」
そう言って笑い合った。