七章
大学が休みの日曜の午前中、ここぞとばかりに爆睡していて、目が覚めたのはちょうど正午だった。一週間のうちの六日間は、大学で講義を受け、バイトで馬車馬のように働き、朝から晩まで慌しい生活を送っている私は、日曜の朝に惰眠を貪ることに生き甲斐を感じていた。寝ることは好きなのに、性分なのかいったん起きれば、寸暇を惜しんで掃除と洗濯、または料理と洗濯を同時進行でこなしたり、友人とドライブしたりして、何もしないで休日を静かに部屋でじっくり過ごすということがほぼ皆無だった。三高予備軍だった良幸と別れた今、することといえばバイトとドライブ、それしか思いつかなかった。
良幸は今にして思えば、普通にいいヤツだったと思う。家は代々続く弁護士の家系で、「自分は跡継ぎなので仕方なく法学部に行ったけど、そうじゃなかったら弁護士なんて目指しとらんと思う」と言っていた。「じゃあ、何になりたかったん?」と私が問うと、彼は「ジャズのピアニスト」と答えた。けれども、「やっぱり自分は人のためになることが好きじゃけ、結局弁護士も好きな職業になると思うよ」とも言っていた。私は流行の三高という言葉に躍らされて、エリート街道まっしぐらの良幸と付き合い始めたが、結局、私が彼の一番好きだったところは、高学歴でも金持ちであるということでも身長が高いところでもなく、「人のためになりたい」という彼の優しさだった。それに気付いたときには既に遅く、無理をして彼に合わせようとブランド品の服やバッグやアクセサリーを買い漁っていた私に愛想をつかして、彼は私から離れていった。郁美には、自分が良幸に合わせるのに疲れたから彼と別れたと嘘を吐いたが、それが事実だった。風の噂によると、今では彼は私より随分年上の社会人の女性と付き合っているらしい。良幸のことだから彼の選んだ彼女は、きっと私なんかより人間性もセンスも何もかも優れた女性なのだろうと思う。そう思うと少し胸が痛んだ。私は下宿にあったブランド物のバッグやアクセサリーをすべて質屋に持ち込み処分した。いくら外側を着飾っても年齢や中身が伴っていなければ、滑稽なだけだということにようやく気付くことが出来たからである。
日曜の朝、と言っても正午だが、簡単な食事を作り、その後、久しぶりに街に買い物に出掛けた。あの、車を直してくれた新聞青年のポロシャツを買うためにである。ポロシャツなので選ぶも何もあったものではないが、意外と材質や値段にいろんな種類があって迷っていた。高いものではきっと彼のことだから遠慮するだろうと思い、そこそこの値段の、作りのしっかりしたものを選んだ。色は白ではなく黒にした。黒だと汚れもあまり目立たないだろうと思ったからである。まあ、あのときは急だったので作業着を着ず、そのまま私服で直してくれたのだろうとは思うが……。
久しぶりに街に出て、本通り商店街をうろうろしていて、商店街の端まで歩き、急にアーケードが途切れて目の前が開け、十階建ての瀟洒なファッションビルに突き当たった。中に入ってエレベーターに乗り、九階のレコードショップを物色した後、このビルの真向かいにある建物の二階のカフェでコーヒーでも飲もうかと思い立った。フロアの真ん中に位置する下りエスカレーターに乗り、目の前を通り過ぎていくショップをぼんやりと眺めていたら、突然、見たことのあるロゴ文字が目に飛び込んできた。以前、バイト先の客に貰った名刺にあった「Adagio」という文字だった。店は繁盛しているらしく、フロアの所有面積が他のショップに比べても圧倒的に広く、多くの客でごった返していた。こんな大きな店を全国に展開する社長と、ひょんなことから知り合いになれたなんて、まったくもってあり得ない話だと思う。でも、彼も今となっては、広島の居酒屋での出来事なんて覚えていないだろうし、きっと私の顔だって忘れているに違いないと思った。
買い物から帰ってきて、ベランダに出てぼんやりと空を眺めていた。空は青く輝き、入道雲が出ている。七月も中旬にさしかかり梅雨も明けたようだった。テレビのニュースによると例年より梅雨明けが十日も早いらしい。もうすぐ夏休みだった。夏はビールの消費量が多くなるので、居酒屋も繁盛し大忙しになる。たぶん、あの店長のことだからあんまり休みをくれないんだろうなぁと思うとげんなりした。しかし昨日も田舎の母から電話が掛かり、「もうすぐ夏休みやろ? いつ、帰るん?」と打診されたが、私はただ「忙しいけん、まだ分からん」とだけ答えておいた。
普段からてんてこ舞いでその日暮らしで精一杯な私が、青空をゆっくりと流れていく巨大な雲の塊を見ていて、「一体、私はどこへ行くんだろう?」と思い、少し不安になった。たぶん、こういう悩みは年配者より若者のほうが大きいと思う。歳を取れば取るほどあっという間に、一日、一ヵ月、一年が過ぎるというから。果てしなく続く先行きの分からない未来を憂慮するのは、若者の特徴なのだと思う。大人は、先行きが分からないからこそ人生は面白いのだ、そういう未来を憂慮するのは若者の特権である、と言うのかもしれないが……。でも、それって、言葉で言われても分からない。大人になって、毎日毎日何も変わらない退屈で安定した人生を送って辟易している経験があってこそ、若い頃は良かったなぁという実感が溢れてくるものなのじゃないだろうか?
そんなことを考えていてふと公園を見ると、新聞青年が「にこにこ引越センター」のロゴがバックプリントされている繋ぎを着たまま、また、いつものように鉄棒に掴まり懸垂をしていた。私はポロシャツを彼に渡すチャンスと思い、急いでエレベーターに乗り公園へと急いだ。
公園に着いたとき、彼はトレーニングを終え、くだんの浮浪者である老人と仲良く歓談していた。私は、はたして割り込んでもいいものかと逡巡してしまい、遠くから彼らを見守っていたが、ふとこちらを振り返った新聞青年は私がいることに気付き、私に向かって笑顔で「こんにちは」と言いながら手を振った。そして彼は、いつまでもモジモジしている私が、何か自分に話があるのではないかとみてとると、老人に別れを告げ私のほうに向かって歩き始めた。
「こんにちは。また逢いましたね」
「はい」
「車の調子、その後、どうですか?」
「はい、おかげさまで、すごく調子いいです」
「そうですか、それは良かった」
「……あの」
「?」
「あの、これどうぞ」
私は、よく知らない異性にプレゼントを渡すという行為に慣れておらず、緊張のあまりうまく説明出来そうも無かったので、後ろに隠していたポロシャツの包みをいきなり彼の前に差し出した。
「何ですか?」
「この間のお礼というかお詫びというか……」
「開けていいですか?」
「ええ、どうぞ」
彼は包みを開け中を確認すると、「これを僕に?」と言って驚いた。
「あ、あの、その、……ポロシャツが白かったもので、汚れてしまって申しわけなかったもんですから」
「なんじゃあ、そんなん、気にせんでも良かったのに。僕が作業着に着替えるのを忘れとったけ、自業自得ですよ」
彼は笑顔になり、緊張が解けたのか急に広島弁になった。
「でも、やっぱり洗濯しても駄目じゃったんじゃないですか?」
「そうじゃね。少しは汚れが取れたけど、やっぱ駄目じゃったですね。でも、着る人間がいつも汗まみれで汚いけん、ちょっとくらい汚れとっても分からんですよ」
そう言って、彼はケラケラと笑った。笑ったときに見える彼の白い歯が眩しかった。
「あの、ちょっと僕もお礼がしたいけん、もし良かったら、僕の下宿でお茶でも飲みませんか?」
「えーっ!」
私は思わず、すっとんきょうな声を張り上げた。
「……あ、あの迷惑ならいいですけど、すぐそこなんですよ」
と、彼は、巨大なマンションとマンションの間にこぢんまりと建っている、築五十年ぐらいは経っているだろうボロボロのアパートを指差して言った。
訪れた彼の部屋の表札には「東山翔太」とあった。考えてみれば、いつも自分は彼のことを新聞青年と呼んでいて、彼の名前を知るのは初めてだったことに気付いた。彼は「インスタントですみません」とすまなさそうに言いながら、コーヒーを淹れてくれていた。あまり不躾にジロジロ人の部屋を見るものではないと思いながらも、好奇心を押さえられず、部屋の中をあちこち眺めてしまっている自分がいた。と言っても、彼の部屋に荷物は少なく、箪笥と本棚とテレビ、それと小さな折り畳みのテーブルがぽつりと置かれているだけだった。壁に貼られているアイルトン・セナの乗ったルノーのF1カーの大きなポスターが印象的だった。
「やっぱり車が好きなんですね」
「そうじゃね。僕、セナが大好きなんですよ。彼、近いうちにまた優勝しますよ」
「セナって人、そんなに凄いんですか? でも、私、自分で車を運転するのは好きなんじゃけど、F1とかちょっと分からんくて」
「ああ、女の子は普通はそうじゃろうね」
そういうと、彼はマグカップに入れたコーヒーを私に差し出してくれた。彼の入れてくれたコーヒーはミルクも砂糖の分量もちょうどよく、インスタントとはいえコーヒーの香ばしさを損なわないような入れ方だった。
「おいしい。上手ですね」
「え、そうですか」
と言って彼は照れた。そして興味があるのか、「あ、あの、学生さんですか?」と遠慮がちに私のことを訊いてきた。
「あ、はい。言うとらんかったでしたっけ? 私、M大の三年です」
「えーっ、僕もM大ですよ。学部は?」
「経済です」
「なんじゃ、じゃあ後輩じゃん。僕も経済ですよ」
「えー、そうじゃったんじゃ。じゃあ、学校で何回もすれ違っとるかもしれませんね」
「ほんとですね」
「でも、やっぱ、学校、辞めるんですか?」
「はい。経済的にどうにもこうにもしようがないんですよ。親父やお袋や弟らのことも心配じゃし……」
「……そうなんですか」
「でも、親父は凄い悔しがっとりました。わしのせいですまんことしたって。僕、何も言えんかったです」
「……」
「今までだって、親は無理してきたんですよ。うち、兄弟多くて、弟が二人、妹が二人おるんですよ。じゃけん、仕方がないです」
「奨学金とかは?」
「奨学金を貰ってもいずれ返さんといけんでしょ。実は、お袋も身体が弱くて寝こみがちじゃし、今、僕のほうが家に仕送りしている状態なんですよ」
「そんな……」
言ってはいけない言葉だと思うのに、つい出てしまった。それなのに、彼はそんな私を見ても、不機嫌になるどころかむしろ笑顔になっていた。
「優しいんじゃね」
東山翔太はそう一言、私に言った。
翔太の部屋を辞すとき、もう一度、彼は私にポロシャツのお礼を言った。私は「今度はただで車を直して貰うけん」と言うと、彼は「ええよ」と言いながら、くすくす笑った。
「貧乏暇なし」とはまさに自分のことだと思っていたのに、翔太と自分の生活を比べて、鉄筋コンクリートの築浅のマンションに住み、しかも車と原付を持っている自分は、貧乏どころか金持ちの部類に入るのではないかと思った。今までの自分の生活を振り返り、お金があればブランド品を買ったりドライブに出たりと、とんでもない罰当たりなことをしていたと自分で自分のことを恥じた。それにしても彼は、なんでああも爽やかなのだろう? 自分の境遇を恨むでもなく卑下するでもなく、実に麗らかで爽快で、男ならばかくあるべきと思うほど大した人物だった。けれども、性格が真っ直ぐなだけ要領も悪いというか、そういう面がいったん悪いほうに出てしまうと、ショーウインドウを勢いあまってぶち破るということになってしまうんだろうなと思う。でも、あながちそれが悪い事かと言えば、そうとも言えない。だって、彼がショーウィンドウをぶち破ることになった本当の理由は、歩道にすずめの子が巣から落ちていて、そのすずめの子を避けるために、自転車のハンドル操作を誤ったのだそうだから。あのとき、私は郁美と一緒に通りの反対側から、翔太が無事起き上がるどうか、しばらくの間彼を観察していたのだが、そういえば、翔太は突然、自転車の荷台に上るという奇妙な行動を取っていた。あのときは、なんて変なことをするんだろうと思っていたが、考えてみれば、あれは、すずめの子を巣に戻す行為だったのだと気付いた。これって悪いというよりむしろ良い行いというものじゃないだろうか。翔太は責任感の強さから、その後、すぐさま配達に戻り、新聞を配達しながら警備会社の人がショールームに様子を見に来ていないか何度も戻って来て確認していたそうである。そんな事情を知りもせず、私と郁美は彼をほったらかしにしてさっさと帰ってしまったが、そんなことなら彼の代わりにショールームで待機するくらいのことをしてあげればよかったと後悔したのだった。