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清く、貧しく、美しく  作者: 早瀬 薫
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六章

 次の日、いつものようにバイト先の居酒屋へ行くと、のんびり屋の郁美が珍しく先に来ていた。郁美は私が来るのを待っていたのか、私を見つけると、二人で掃除をすると見せかけて、化粧室へ私を引っ張り込んだ。

「あのさー、多加志のことなんじゃけど」

「ああ、多加志」

「やっぱ、彼、曲者じゃったわ」

「えーっ、ほんま?」

「だってねえ、喫茶店のウェイトレスの若い女の子って私の他に由美と寛子っていう子がおるんじゃけど、その子らにも私とまったく同じこと、言うとったんよ。まじ、ぶち殺したるけって感じ」

「ほんまにー?」

「うん、じゃけ、桜子、ありがとね」

「あ、うん」

「あんたがああ言うてくれんかったら、ウチ、ころっと罠に掛かっとったわ。じゃけ、飲みに行こーや。今日はウチの奢りじゃけね」

「えーっ、今日?」

「忙しいん?」

 忙しくはないが、昨日は溜まっていた宿題をこなすため、ほぼ徹夜したあと大学へ行き、講義が終わるとそのままここへ直行し、いまやフラフラ状態だった。そんな私の事情を知ってか知らずか、郁美は自分の親切な思いつきを、当然私がありがたがると思って疑わないようだった。


 その日のバイトをどうにか気力だけで乗り切ると、私はいつものように郁美と居酒屋「明るい田舎」へ向かった。断ることは簡単だったが、がんがん頭痛がしている思考回路切断寸前の頭で、尋常ではないのんびり屋の郁美に、何故断るのかという理由を分かりやすく説明することが不可能なように思われたので、私は郁美に言われるがままされるがまま、「明るい田舎」のテーブルに着いていた。

「なんか今日、桜子、いつもと違うね」

 「だから、死にそうなくらい疲れとるんだってば」と言いたいのを我慢していた。

「あー、気持ちわる。吐き気がしそう。私、雑炊だけでいい」

「えーっ、なんでー? 今日はうちの奢りじゃけ、なんでも食べてええんよ。桜子、ほんまに具合が悪いんじゃない?」

 「じゃけ、そうじゃってさっきから何回も言うとるじゃんか」と言いたいが面倒なので黙っていた。すると突然、郁美が店の一角を見て言った。

「うわ、マジでー」

「どしたん?」

「多加志がおる」

 私は郁美の視線の先を見ようと振り返った。そこには多加志と思われる男性が、郁美より数段綺麗で派手な若い女性と楽しそうに話し込んでいた。

「ね、あの女の子、喫茶店で一緒に働いとる子?」

「違う」

「ほんじゃ、彼女かね」

「違うと思うよ。だって多加志の財布に入っとった写真の女の子と全然違うもん。びっくりするくらい、地味な子じゃったで」

「ふーん、性懲りの無いヤツじゃね」

「そうじゃね。ま、あんなん、気にせんと食べよ」

「うん」

 郁美は私のためを思ってか次々と酒の肴を注文したが、私は目がぐるぐる回り、今にもこのままテーブルに突っ伏して爆睡しそうで、運ばれてきた料理に何も手が付けられない状態だった。その様子を見てまた郁美が言った。

「やっぱり今日の桜子、おかしい。ドカ食いの桜子がなんも食べんなんて。……病院行ったら?」

 「じゃけ、さっきから何度も言うとるじゃん。単に眠いだけなんじゃって。お願いじゃけ、早よ帰らして」と声にならない心の声で私は郁美に向かって叫んだ。

「それでね、やっぱり雅紀のほうがええ男やって再確認したわ」

「そうじゃろうね」

「桜子は?」

「は?」

「誰かいい人現れた? 良幸君とは別れたんじゃろ?」

「うん」

「彼、いかにもいいとこの坊ちゃんって、感じじゃったよね」

「ま、そうじゃね。最初はそこが新鮮じゃったんよね。でも、うちのお父さん、サラリーマンじゃん。じゃけ、彼と育った環境が違いすぎるっつうか、なんか一緒に話しとっても疲れとったんよ」

「じゃけ、別れたん?」

「うん、そうかもしれん」

「ふーん」

「それはそうと、あの人覚えとる?」

 私は新聞青年との偶然の再会を思い出し、郁美に報告したら面白がるだろうと思い、つい彼のことを口にしていた。

「あの人って誰?」

「新聞配っとって、ガラスをぶっ壊しとった人」

「え、もしかして、またやったん? あの人」

「違う、違う。車の修理してくれちゃったんよ」

 しまった、最初から話さずに郁美みたいな話し方をしてしまった。しかし、今日の私はどうにもこうにも頭が回らない状態だった。いつもなら五分で出来る説明を、十五分も堂々巡りをして彼女に説明していた。

「新聞配っとる人が、なんで車の修理して引越しするん?」

「じゃけ、掛け持ちしとるんじゃって」

「何を?」

「バイトを」

「車の修理ってバイトなん?」

「バイトしとる人も中にはおるやろ」

「ふーん」

「そんな話はええけん。とにかく彼と偶然、知り合いになってしもたんよ」

「ふん、それで?」

「で、意外としっかりしてて、いい人じゃった」

「そう。良かったじゃん」

「うん」

「それで?」

「もう、ええわ。終わり」

「えー?」

「もう一時半じゃん。もう限界じゃわ。私、眠いけん帰る」

 郁美に詳しい話を聞かせて、彼のことをどう思うか印象を訊いてみたかったのだが、どうでもいいことを説明するのに時間が掛かってしまって、埒が明かないので諦めた。私達も帰ろうかと思っていた矢先、ふと多加志がいたテーブルを見るとそこには誰もおらず、帰ったのかなと思っていたら、彼は伝票を持って私達のテーブルのすぐ横に、連れの彼女と二人で立っていた。ちょうどたった今、勘定を済ませて店を出ようとしているようだった。

「あれー、郁美ちゃんじゃん」

 席を立って帰ろうとして初めて郁美がいることに気付いた多加志は、うれしそうに彼女に声をかけた。彼は、郁美に「付き合ってくれ」と言ったことなど、まるで記憶にないようだった。一方郁美は、多加志に声を掛けられたのに、彼のことを下からジロッと一瞥しただけで、すぐにそっぽを向いた。

「えーっ? 郁美ちゃんじゃろ?」

と何度もしつこく訊いてくるので、堪りかねた私は「そうですよ」と言った。するとそれに気を良くしたのか多加志は、「ここ、座ってもいい?」とこっちが返事をする間もなく、さっさと彼女と一緒に私達のテーブルに着いた。多加志は私の隣、彼女は郁美の隣の席に座った。彼は店員を呼ぶと、草鞋豚カツ(草鞋のように平べったく強大な豚カツでこの店の名物だった)と焼酎とビールを二本を注文した。

「あのー、そろそろ帰ろうと思っとるんですけど」

と私は遠慮がちに多加志に言った。

「まだ、いいじゃん。君、郁美ちゃんの友達?」

「はあ、そうですけど……」

「郁美ちゃんの友達って可愛い子ばっかりじゃね」

と多加志は私に向かって照れもせず、しゃあしゃあとお世辞を言った。案の定、私の斜め向かいに座っている彼女は憮然としている。私は、こんなどうでもいい、くだらないトラブルに巻き込まれたくないという気持ちで一杯になった。しばらくして運ばれてきたビールを多加志に無理矢理飲まされ、「もう一杯、飲んだら帰してあげる」と彼が言ったので、しょうがなく注がれたビールをがぶ飲みしていたら、頭痛と眠気で目の前が真っ暗になって来た。まさに失神寸前だった。それでもどうにかこうにか正気を保っていると、やがて、「明るい田舎」の名物、草鞋豚カツが運ばれて来た。けれども、その揚げたての巨大な豚カツから放たれる脂ぎった蒸気が辺りに充満し、ただでさえ体調が悪くその匂いに酔った私は、さっき無理に飲み込んだビールを思わず口から出しそうになり慌てた。そんな私の様子を知ってか知らずか、突然、多加志がさっきの男性店員を呼びつけ言った。

「この豚カツ、きちんと揚がってないじゃん。ほら、真ん中のところに血が滲んどる」

「あ、はい。も、申しわけありません。すぐ揚げ直してきます」

と店員が言ったが、多加志は、相変わらず一言も口をきかず憮然としている郁美とつまらなさそうな彼女、今にも倒れそうな様子をしている私、つまり誰も豚カツなど食べたくないような雰囲気の三人を見回すと、「いい。もう、いらん。引き取って」と言った。その後、多加志は、帰ろうとする私達をなんだかんだ言いながら引き止めていたのだが、ほどなく店員が揚げ直した草鞋豚カツを再び運んで来た。それを見た多加志は、急に逆上し、店員に向かって怒鳴りつけた。

「いらん言うたじゃろ。迷惑なんじゃ。さっさと持って帰れ!」

 私は一気に酔いが醒めたが、相変わらず頭がガンガンしていた。

 はあ? 今、何が起こったんじゃろ?

 するとそれまで黙って聞いていた郁美が、いきなり多加志に向かって怒号を浴びせた。

「わりゃ、何様のつもりじゃ! 迷惑なんはおどれじゃ、ええ加減にさらせ! しばくぞ!」

 多加志も彼女も私も店員も周りのテーブルにいる他の客もあっけに取られて、ぽかんと口を開けて郁美を見つめていた。郁美は「帰るぞ」と完全に男言葉で私に一言言うと、その辺の客を睨み付けながら、私の手を引っ張って店を出た。

 店を出ても、一体何が起こったのか理解出来ない私は、前を歩く郁美の後姿を見て呆然としていたが、しばらくして郁美に向かって恐る恐る訊いてみた。


「……郁美ってあんなに勇敢じゃったっけ?」

「……」

「何か、すごいびっくりした……」

「うちなあ、実はお父さんがヤクザなんよ」

「え?」

「じゃけ、血を引いとるかもしれん」

「……何それ? 初めて聞いた」

「こんな恥さらし、滅多に人に言えんよ」

「……で、でも、郁美は違うんじゃろ?」

「当たり前じゃろ! 違うに決っとるじゃんか!」

「ご、ごめん」

「じゃけ、ママの子供はウチ一人やけど、ほんまは外に兄弟が二十三人もおるんじゃ」

「……腹違いの?」

「うん」

 私は、この間、郁美が「桜子の下宿に泊まるから」と家に電話をしていたときに、「ママとは仲が良いがお父さんとはうまくいっていない」と言っていた彼女の言葉を思い出し、今ようやく腑に落ちた気がした。それまで、どうやっても、おっとりしている郁美が父親と喧嘩している姿を私は思い浮かべることが出来なかったのである。

「じゃったら、今まで郁美も大変な思い、しとったんと違う?」

「ウチよりママのほうが大変じゃったと思うよ。鉄砲持ったおっさんがいきなり家に殴りこんで来たり、お父さんが刑務所に入って生活費が貰えんなったり……。普通じゃ考えられんじゃろ?」

「……」

「じゃけん、ウチと付き合うとったら、桜子にも迷惑が掛かるけ、もう桜子の下宿にも行かんとくわ」

「郁美は郁美じゃん。お父さんと違うじゃんか」

「……」

「じゃけん、今日も遅いし、郁美の家遠いし、うちに泊まったらいいよ」

「……」

「ね」

「……ほんまにええん?」

「ええよ」

 私がそう言うと、郁美はぽろぽろと目から涙を零して泣いた。きっと私には想像も出来ないような苦労が郁美にはあるんだろうなと思うと、自然と手が彼女の背中を擦っていた。それにしてもこう言っては語弊があるかもしれないが、ヤクザスイッチの入った郁美との会話が、今までで一番まともなものだったということに気が付いて、複雑な気持ちになった。


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