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清く、貧しく、美しく  作者: 早瀬 薫
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五章

 私は自分の所有する赤い軽自動車を乗り回すのが好きで、その車で山口や島根や岡山に、しょっちゅう日帰り旅行をしていた。何が面白いのかバイトが終わった真夜中にも、暇さえあれば車を乗り回していた。どこにでも気軽に行けるということが、自分なりの自由を謳歌する方法だったのかもしれない。高校生の頃と違って、なんでもかんでも一気に自由になった。しかし、なにしろお金がない。ガソリン代はあっても他のものに回すお金がない。駐車場を借りるにも安価だからと理由で、マンションから少し離れた場所に借りていた。そこは、民家の庭の一部をブロック塀で仕切って駐車場にして貸しているというもので、駐車場の貸し賃はそこを所有するおばあちゃんの小遣いになっているようだった。なんでそんなことをしていたのか今となっては記憶にないのだが、そのおばあちゃんの銀行口座にお金を振り込むのではなく、現金を封筒に入れて私は毎月おばあちゃんの家を訪れた。そのおばあちゃんは私には随分優しかったけれど、紹介してくれた不動産会社の人間には、えらくつっけんどんな態度を取っていた。そんなもんだからそこを引き払うときに、不動産会社を通すのが嫌だから次の人を紹介してくれ、とかなりしつこくおばあちゃんに頼まれるわけだが、要するに不動産会社の人を彼女はまるでハイエナかなんかのように思っていたのだと思う。ついでに言わせてもらえば、銀行というものも彼女は信用していなかったに違いない。それにしても、その駐車場の借り賃は、近隣の駐車場に比べるとかなりの低価格で本当に助かった。たぶん、半額ぐらいだったのではないかと思う。それでも、マンションからは少し距離があるので、私はマンションのすぐ裏手にある公園の柵の外側の道路に、しょっちゅう車を横付けして置いていた。公園と言っても、1Kや1DKの部屋しかないマンションが林立するこの界隈に小さい子供がいるわけでなく、いつも閑散としていた。しかも道路はかなり広かったので他の車の通行の邪魔にならず、車をちょっとだけ置くにはもってこいの場所だった。それなのに!である。私は、しょちゅう駐禁を貼られた。最近では、百発百中という確率で三十分以内に駐禁を貼られた。たぶん、近くに密告者が潜んでいたのではないかと思う。というわけで、いつまでたっても、私はバイト地獄にどっぷり浸かっていた。


 七月の上旬のある晴れた日、学校が休校になっていて、いつもどたばたしている私が珍しく時間を持て余していた。なので、マンションの裏の公園で、レポート提出の課題になっている本でも読もうかとベンチに座って読んでいたら、かなり広い公園の向こうの端から、「うん、うん、うん」と規則正しく誰かが唸っている声が聞こえてきた。何事かと思い、見えない近眼の目を凝らして見ると、鉄棒に若い男性が掴まり懸垂をしている。見たことあるような無いようなその男性の容貌を見て、私ははっとした。ジーパンにポロシャツといういつもと違う服装をしていたので分からなかったのだが、彼は紺色のジャージの上下でいつも頑張っているあのドジな新聞青年だったのである。彼は三十回ほど懸垂をすると、近くに張られているテントの主、つまり浮浪者と思われる老人にジュースを渡し、仲良く二人で歓談し始めた。まさかその若者まで浮浪者だとは思わなかったが、この二人はかなり親しい間柄に見えた。


 一時間ほど公園で本を読み、そろそろ部屋に帰ろうかと思いベンチを立ったとき、車をすぐ傍に置いていたのを思い出し、また駐禁の罰金を払わされてなるものかと思った私は、念のため駐車場に入れておこうとエンジンを掛けたが、さっき読んでいた本の中で気になっていた箇所が何箇所かあったので、車の中でエンジンを掛けっ放しのまま、何ページだったか確認し、ページの端を折り込む作業をしていた。そして、もう一度、軽く本を読み直そうとしていたら、急にシューッという音とともに、車のボンネットから蒸気が上がった。運転好きなくせに一度も自分でボンネットを開けたことがないほどメカ音痴の私は、どうしていいのか分からず慌てふためいていた。するとその様子を見ていたのか、新聞青年が公園の向こうから走ってきて私に声を掛けた。

「大丈夫ですか?」

「……だ、大丈夫じゃないみたいです」

 彼はボンネットを開け、しばらく中を覗いていたが、「パイプが劣化して冷却水が漏れているみたいですよ」とすぐに車が壊れた要因を見つけてくれた。そして、うまい具合に公園の東側にある車の修理工場を指差し、「僕、あそこでバイトしとるんですよ。よかったら車を運びましょうか?」と言った。私は「ええっ、新聞配達は?」と思わず口にしていた。彼は何故私がそのことを知っているのかしばらく驚いていたが、やがてにっこり笑うと「掛け持ちしとるんですよ」と言った。

 今日はたまたま修理工場の定休日で、二階で休日を満喫しているだろう工場主を呼び出すために、彼は「ピンポン、ピンポン」と呼び鈴を何度も押して、工場主を呼び出してくれた。工場主は渋々二階から降りてきて、私の顔を見ると「あーっ!」と叫んだ。私は訳が分からず、ぽかんと口を開けてその男性の顔を見ていると、「何度も駐禁貼られとったお嬢さんじゃんか。今度は何があったんじゃ?」と言われ、私は恥ずかしくて何も言えず俯いてしまった。まったく、ここは地元じゃないから、この界隈に私を知っている人間はいないはずと高をくくっていたが、誰に見られているか分かったもんじゃないと思った。しかも、洗車するお金も無いものだから、車のボディを濡れ雑巾で拭くというとんでもないことをしょっちゅうやっていて、それも彼に見られていたんだろうなと思うと余計に恥ずかしさで一杯になった。

「社長、工場を開けて貰えますか? 彼女の車、壊れたみたいなんで。僕が修理しときますから」

「あ、うん」

と言うと、快く工場主は彼にシャッターの鍵を渡した。


 新聞青年が汗まみれでボンネットの中に首を突っ込み、車を直してくれている間、私は外にある自動販売機の缶コーヒーを二本買うと、そのうちの一本を彼に渡した。

「あ、すみません」

「いえ、いえ、どうぞ。直りそうですか?」

「この車の純正のじゃないんですけど、同じサイズのパイプがあったんで付けてみました。ちょっと、エンジンを掛けてみますね」

 そう彼は言うと、運転席に乗り込みエンジンを掛けた。そしてもう一度外に出ると、ボンネットの中のパイプの様子を真剣な顔で眺めていた。それから再び運転席に座り、エンジン温度計が正常値を示していることを確かめ「大丈夫なようですよ」と言った。

 ショーウインドウに自転車ごと頭から突っ込むくらいあんなにドジな彼なのに、こんな風に魔法でも使うかのような鮮やかな手つきで修理をしている様子を見ていて、これが同一人物のやることかと思ってしまった。気が付けば、私は思わぬことを口にしていた。

「あの、怪我はなかったんですか?」

「?」

「いえ、その、偶然、ショーウインドウに自転車ごと突っ込まれているのを見てたもので」

「えーっ!? 見とったんですか!?」

「はい」

「うっわっ、恥ずかしーっ」

「凄い派手にガラスが割れとったから、心配しとったんですよ」

「いやー、たまたま、あそこのガラスが最新式の強化ガラスじゃったもんじゃけん、ガラスが粉々に砂利みたいになって割れたから大丈夫じゃったです」

「そうじゃったんですか。それを聞いて安心しました。でも、大変じゃったんじゃないですか?」

「はぁ、そうなんですよ。最新式のガラスじゃったんはええけど、値段も高うて……」

「弁償したんですか?」

「ええ、まあ、当然じゃから。でも、またバイトを掛け持ちです。新聞配達と車の修理とあと引越屋も今月から新しくやってます」

「……大変ですねぇ」

「ま、しょうがないです」

「学生さんなんですか?」

「はい、……いや違います」

「?」

「春まで大学に通っとったんじゃけど、うち、もともと貧乏でおまけに親父が病気になったもんで、休学しとります。でも、復学は無理じゃと思うけん、辞めようと思っとるんです」

「ええっ、そんな……。今、何年生なんですか?」

「四年です」

「じゃったら、もう少しじゃないですか。もったいない」

「僕、結構、車いじるの好きじゃし、こっちのほうの免許を取ろうかと思っとるんです」

「……そうなんですか」

 彼は、浮かない表情をしている私とは対照的な表情をしていて、私の顔を見てにっこりすると、計算機を取り出して修理代金をはじき出した。

「えっと、千五百円ですね」

「え、そんなに安くていいんですか?」

「いいんじゃないんですか。実は社長さんが、駐禁貼られているあなたのことを気に掛けとって『ありゃ、金かかっとるで』っていつも言うとりましたけん。さっきも『工賃、いくらか差し引いとったげ』って二階に上がる前に僕に言うとりました」


 オイルの付いた手で汗を拭ったのか、彼の顔は真っ黒になっていて、彼の着ていた白いポロシャツもところどころ黒くなっていた。たぶん、洗濯しても白いポロシャツは二度と着られないに違いない。私は故郷の四国の田舎から大学に通うために広島に出て来ていた。中四国一の都会、広島は四国と違い、何もかもが超スピードで動いている。車の速さも人の歩く早さも。慣れない都会の一人暮らしの侘しさに何度も淋しい思いをしてきて、大学を卒業したら四国へ帰ろうと何度も思っていたのに、見ず知らずの広島の人にこんなに親切にされようとは思ってもみなかった。知らず知らずのうちに涙が溢れそうになって、私はそれを押さえるのに必死だった。


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