三章
バイトが終わると急いで下宿に飛んで帰りたかったのだが、たまたま土曜日で明日は私の学校も休みだと思ったのか、バイト仲間の郁美が「今から飲みに行かん?」と私を誘ってきた。断ろうかと思ったのだが、普段陽気な郁美が「ちょっと相談事があるんじゃ」と妙に深刻な顔をして言ってきたので、仕方なく彼女と一緒に飲みに行くことにした。
二人で向かった先は、バイト先と似たような商売をしている別の居酒屋「明るい田舎」で、何故そこを選んだのかというと、敵情視察なんていう殊勝で勤勉な職業意識から来ているなんていうものとは程遠い、単に「安く飲んで食べられるから」というこの一点のみを理由としていた。
「あー、たいぎー」
「ほんま。お疲れさーん」
二人で焼酎のカルピス割りで乾杯した。二人で店長の悪口やら、イケメンの厨房の兄さんの話やら、珍しくチップを下さったお客様の話やらをして、三十分を過ごした後、私が唐突に郁美に訊ねた。
「で、何なん? 相談事って」
郁美は短大を卒業した後、就職せず、家事手伝いと称して、ま、今で言うフリーターをしている。郁美も私も同い年の二十一歳で、この年代の深刻な相談事といえば、男のことと相場が決まっている。たぶん、郁美の付き合っている雅紀のことなんだろうと、私は勝手に決めてかかっていた。
「多加志のことなんじゃけどさぁ。彼、彼女おったんよね」
「はぁ? 誰、多加志って? あんたの彼氏、雅紀じゃったよね」
「だから、この間、電話で言うたじゃん。気になる人がおるって」
「え、そうじゃったっけ?」
「もー、これじゃけー桜子ってヤダ」
「ごめん」
私は店員が次々に運んできた焼き鳥やらシシャモやらに手を伸ばし、がっつくように食べ始めた。郁美はその様子を見て、「ちょっと、あんまり食べんとってよ。桜子は食べだしたら、人の分まで食べつくして、すぐ寝るんじゃけん」と言った。
「それは、下宿の話じゃろ。いくらなんでも外で寝たりせんよ」
「分かった、分かった」
「それで?」
「だから、昼間のバイト先の喫茶店で、一緒に働いとるんが彼なんよ」
「ああ、あれが多加志って人なんじゃ」
「うん」
「それで、なんでそれが悩みなん?」
「なんでって、多加志のこと、好きになってしもうたってことじゃんか」
「好きってあんた、彼氏おるじゃん」
「好きなもんは好きなんよ」
「じゃったら雅紀と別れたら?」
「ほじゃけど、多加志には彼女、おるんじゃって」
「それがどしたんじゃ!」と思わず口にしそうになったが、これを言ったらお終いのような気がしたので黙っていた。
「じゃったら、仕方ないじゃん。それより雅紀のことはどう思うとるん?」
「雅紀は空気みたいな存在ちゅうか、ま、家族みたいなもん……」
「じゃ、雅紀はお取り置きしといて、多加志とは恋のアバンチュールとでも言いたいわけかい?」と言いたくなったが、またしても気の小さい私はその言葉を飲み込んだ。
「雅紀っていいヤツじゃん。あんなヤツ、滅多におらんよ」
「でもな、ちょっと、亭主関白っぽいちゅうか、時々そこが鼻に付くんよね」
「多加志って人は?」
「彼はね、紳士なんよね。いっつも穏やかで笑顔が絶えんちゅうか。お客さんにも凄く親切なんよ。そこがウチが気に入っとるとこなんよね」
「ふーん、そうなんじゃ」
「そいでね、多加志から、この間、告白されたんよ」
「何を?」
「付き合うてくれって。彼女とはええようにいっとらんのじゃって言うとった」
「それを早く言わんかい!」とまたもや口にしそうになったが、郁美の場合、いつも的が外れているというか万事が万事この調子だったので、「またか」と思い、黙っていた。
「ほじゃけど、なんか怪しい」
「何が?」
「ドラマとか小説じゃったら、誰にでもいい顔しとる紳士ぶった男って、実は悪男って相場が決まっとるじゃんけ」
「……ま、ほーじゃね」
「ほいじゃけーさー、すぐに返事せんと、もうちょっと観察してみんさい」
「えー、そんなん、多加志に悪いじゃん」
「そんなところで良い子にならんでよろしい!」と思ったが、またしても黙っていた。
「じゃけ、あんたはどうなんよ。あんたの気持ち次第じゃろ?」
「うん、ほうなんじゃけど、それが自分でもどうしたらええか、よう分からんのよ」
「どっちにしろ、このまま多加志と付き合って、二股っていうんは、ようないよね」
「……うん」
「ほじゃけ、もうちょっと返事するん待ってみ。多加志のこと、よう知らんのじゃろ? 友達として付き合うとったら、いろんなことが分かるかもしれんし、もしかしたら反対に、雅紀のいいとこも改めて分かるかもしれんじゃん」
「ほうじゃね。そうするわ。やっぱり桜子に相談して良かったわ」
なんだかんだ言いながら、結局、郁美と私は悪女になりきれないのであった。
その後、郁美の自宅がバイト先から遠いこともあって「下宿、行ってもいい?」と郁美が訊いて来たので、土曜日でもあったし、別に大学の宿題も出ていないし、私は快く承諾し下宿に二人でなだれ込むことにした。郁美は公衆電話ボックスに入ると自宅に電話を掛け、「今日、桜子んとこに泊まるから」と一言言うと、ガチャッと一方的に電話を切っていた。気になった私は「泊まっても、ええん?」と訊くと、「ママだったらよかったんじゃけど、電話、出たんが珍しくお父さんじゃったけ、すぐ切ってしもた」、「じゃけ、泊まってええんかって訊いとるじゃん」、「桜子じゃったら許すって、お父さん、前に言うとったけ、ええんよ」、『それを早く言わんかい』とまったく、郁美との会話は疲れる。
一応飲酒運転はせず、普段なら原付で十二、三分、歩きなら三十分もあればいいところを、二人でのろのろと一時間近くかかって、下宿までの道のりを歩いて帰った。途中、下宿近くのコンビニの前を通ると郁美は「ねぇ、チューハイ買おうや」と言ったので、私は「まだ、飲むん?」とうんざりした顔で言いながらも、私はお酒よりも小腹が空いていたので、おにぎりでも買おうかと思い二人でコンビニに入り、店内を物色していた。郁美は私と違い、いつもは実家にいるので、こんなに夜遅くまで外をフラフラすることが滅多にないので、嬉々としてコンビニの雑誌を立ち読みしまくっていた。私はふと腕時計を見た。時計の針は、もうすぐ五時を指そうとしていた。時計を見た途端ドッと疲れが押し寄せてきたので、私は「まだ、読み終わってない」と心残りの郁美の腕を引っ張り、下宿へ向かった。
外は白々と夜が明けようとしていた。五月の早朝はほんの少し寒かった。けれども、日中、かなりの交通量のある騒々しい道路に車が一台も走っておらず、空気が澄んでいて、なんだか清清しい気分がした。早起きは三文の徳である(ちょっと意味が違うと思うが)。
ふと道路の向こう側に目をやると、こんな時間にも忙しく働いている人がいた。私は、前と後ろに新聞を山ほど積んだ自転車を漕ぎ、必死の形相で新聞を配っている青年をぼんやりと眺めていた。郁美も一緒に眺めていたのか「ご苦労様じゃね」と言った。
私の下宿であるマンションの玄関に二人で入り、郵便受けの中を確かめていると、道路の向こう側で、突然、グワッシャーンという凄まじい音が轟いた。私も郁美も心臓が飛び出るかと思うくらい驚いた。音源を確かめるようとマンションの玄関を飛び出ると、道路の向こう側でさっきの新聞配達の青年が、台所の流し台を販売している会社のショールームのショーウインドウに、自転車ごと激突していた。店の中にも外にも新聞と割れた大量のガラスの欠片が散乱し、お見事というくらいの酷い様相を呈していた。おまけに辺りにジリジリという大音量の警報機の音が鳴り響き、近隣のマンションの住人が何事があったのかと、早朝なのにベランダに次々飛び出て来て見物していた。一方、その騒ぎの張本人の青年のほうどうかというと、彼はショーウインドウに頭から突っ込んだらしく、店の中で伸びていた。郁美もその様子を見て「うわ、ださー」と言っていた。私はおかしいのと心配なのとでしばらく青年のほうに目が釘付けになっていたが、彼は三十秒ほどすると、まるで何事もなかったかのようにむくっと起き上がり、急いで自転車を外に運び出すと自転車の荷台に上り、何かあるのか、ショールームの横の上階の住人のための玄関の軒先を覗き込んでいた。その後、彼は辺りに散らばった新聞を一心不乱にかき集め始めた。私には、彼が新聞をかき集めて、今から急いで配りに行こうとしているように見えた。
こういう場合、人は一体どういう行動を取るものなんだろう? 普通の人だったら、まず、配達所に電話して事情を説明したり、家族や知人に電話して救助を求めたりするんじゃないだろうか? それなのに、彼はまるで何事も無かったかのように、また新聞を配り始めた。「えー!? うそーっ!? マジでー!?」と私は叫んだ。しかし、二十四時間以内に、二回も同じ言葉が口をついて出て来ようとは思ってもみなかった。上を見上げるとベランダには野次馬が何人かいるものの、地上付近には誰もいないし、私と郁美は、道路を渡って彼を助けに行こうかと話し合ったが、でも、その後十分は彼を見守っていて、どう見ても彼は大丈夫そうに見えたので、そのまま放置してもいいんじゃないかという結論に辿り着き、私の下宿に向かうため、マンションのエレベーターに乗った。
部屋に入ると、郁美は押入れから勝手に布団を取り出して敷き、服も脱がず化粧も落とさず、そのまま布団の上に横になり一分もしないうちに熟睡してしまった。一方、私はといえば、部屋は結構散らかり放題なのに、布団に入る前には風呂に浸かって疲れと汚れを取らないと気のすまない性分をしていたので、郁美を起こさないよう静かに風呂に入り身体を洗った。風呂から上がり濡れた髪の水分をタオルでふき取りながら、テーブルに無造作に投げてある新聞の一面の総理大臣の脂ぎった顔を見ていて、ふと今日(正確には昨日)、最近の与党の政策についての持論で一緒に盛り上がっていた客のことを思い出し、バッグの中の彼の名刺を取り出し眺めた。
名刺には、「ニューファッションブランド 『Adagio』 代表取締役 三川雅人」とあった。彼はカウンターに座っていたし、店内は薄暗く私も彼の顔しか見ていなかったので、彼の服装までよく覚えていなかったが、思い起こせば結構洒落た恰好だったような気もする。それに「Adagio」といえば、若い女の子に人気のブランドで、広島では繁華街の中心、本通りと金座街の境目の開けた場所に聳えるファションビルの中に店舗が入っている。「Adagio」はイタリアの新進気鋭のデザイナーが服をデザインしていることが売りで、ファッション雑誌にも度々大々的に特集されていたことを急に思い出し、ギョッとしてしまった。もしかしたら、私はとんでもなくラッキーな遭遇をしてしまったのかもしれない。単に私が、若い女の子の間では話題にも上らない政治話にちょっとだけ興味があったおかげで、こんなチャンスを掴むことになろうとは……。勿論、居酒屋という中途半端な職場ではなく、それこそお水の花道、接待式高級クラブであれば、日常茶飯事なのかもしれないが。実際、会社社長や政治家の奥方の中にはお水出身の人も結構いると聞く。しかし、居酒屋勤めの私に、そんな話が降りかかろうなどと、思ってもみないことだった。ちょうど、弁護士志望の良幸と別れたばかりで、今現在フリーの私は、半年間はどんなことにも耐え忍び、「なんじゃもんじゃ」を辞めずにいようと、そのとき決心したのだった。