二章
大学の講義が午後五時に終わると、私は午後六時から始まる居酒屋「なんじゃもんじゃ」のバイトへと向かう。下宿に飛んで帰ると、原付(私は贅沢なことに車以外に原付も持っていた)に乗り換え、必死の形相でバイト先へ急ぐ。自転車じゃなく原付なんだから必死も何もないものだが、常に貧血気味の私は、毎日死に物狂いで通っていた。午後六時に店に入って、途中一時間の休憩を挟み、店を上がるのが午前〇時。時給が千円だから、一日に五千円儲かる。半日働いて五千円も儲かるなんて、当時としては非常に割りのいいアルバイトだった。しかし、このバイトは本当に疲れた。店は歓楽街にあって、平日でもいつも混雑していたし、居酒屋とはいえメニューの値段設定が普通の居酒屋より若干高めだったので、お客は若い世代よりも中年世代が多かった。そのせいか、居酒屋なのにセクハラまがいのことをするエロジジイもたまにいて、私は心の中で「こんな店、さっさと辞めてやる」といつも思っていた。
今日の私はいつもと違って凄く動きが鈍い。動作が鈍いのではなくて頭の回転が鈍いのである。女性特有の月のモノが来てしまっていた。厨房に行って、副店長にいつも「はい、五番、七番、十八番テーブルね」という具合に言われて、差出した両腕の上に注文の皿を三つ載せられるのだが、いつもなら完璧なのに、どうしてだか三つ目の番号が覚えられなくて、残った三つ目の皿一つだけ持って、何度も厨房へ逆戻りしていた。副店長は随分優しい人だったが、店長はそういうわけにはいかなかった。私がモタモタしているのを見つけて、「こら、何しとるんじゃ、さっきから」と雷を落とされた。そんなこと言ったって、覚えられないもんは覚えられないのである。正直に「生理中で具合が悪くて頭もお腹も痛いけ覚えられんのじゃ!」と言いたいのを我慢し、変なところで気の小さい私は「すみません」と一言、店長に謝った。
とにかく今日は調子が出なかったので、お飾りみたいに店内の一角にある作り物の井戸の前のカウンター(要するにこの居酒屋は和風な造りだったので、井戸なるものが存在していて、実際その井戸は本物であるわけなく、水は張れるものの浅い造りで、たまにビールを冷やしていたりした)にいることにした。ここにいるとあまり動かずにすむので、このポジションは垂涎物なのだが、いつもここは古参のお姉さんに占領されていて、滅多に新参の私がいることを許されなかった。その日は何故だかその場所が空いていて、しかも二人組みのお客さんが座っているので、誰かが相手をしなければならず、かといって他の誰もその場所に行こうとする気配がないので、「やった!」とばかりに私はその場所に立った。客は、大阪から広島に仕事で出張に来ている二人組の男性だった。
「いやー、ほんま疲れたわ」
「ほんと、ほんと」
「お仕事ですか? ご苦労様です」
私は不器用にビールの栓を抜き、二人のコップにビールを零さないようそろそろと注いだ。
「君、何歳?」
「二十一歳です」
「いやー、若いねぇ」
「でも、お客様も三十年代のお生まれじゃないですか?」
たぶん、この二人の年齢はまだ二十代だろうと踏んだ私はそう言った。
「君、失礼なこと言うね。そんな年寄りに見える?」
二人いる客のうち、どちらかというと見栄えのいいほうの男性が、急にムッとして言った。私は内心焦った。え、何か悪いこと言った? 私は昭和三十年代後半の生まれで、お客さんもたぶん、初めのほうかもしれないけれど、昭和三十年代の生まれだろうから同じようなもんだよってことが言いたかっただけなのに……。
「ちゃうよ、大田君。この人は一九三〇年代やなくて、昭和三十年代の生まれって言いたかっただけやと思うよ」
と、もう一人のちょっとぱっとしない方の客は、カウンターの前に呆然とした表情で立っている私のほうを向き、私に同意を求めるように、私の目を見ながら最後の「思うよ」という言葉に力を込めてを言った。私は、よくぞ言ってくれました、って感じで笑顔を作って、うん、うんと頷いていた。
「失礼ですけど、お客様も昭和三十年代のお生まれですよね?」
「うん、昭和三十一年」
「僕ら同級生なんや。大阪の大学に通っとってね。卒業した後、こいつは広島に帰ったんや」
と、ぱっとしないほうの客が言った。
「じゃ、今日は久しぶりの同窓会ってことですか?」
「ま、そうやね」
と、どうでもいい話をしていたが、急に話題が政治の話になって、私はテレビのニュースくらいは毎日見ていたので、二人の話に普通に交わって、かれこれ一時間近く話していたら、急にぱっとしないほうの客が、一言私に言った。
「君、頭いいねぇ。もしかして女子大生?」
「はぁ、そうですけど」
「なんか感動したなぁ。居酒屋で若い女の子とこんな話、できるやなんて」
「えー、そうですか?」と言いたいのを我慢して、にっこりしているとその客は突然、私が思ってもみないことを言った。
「あの、こんど広島に出張に来るのは、半年くらい先になると思うんやけど、僕が今度この店に来るまで、辞めんとってくれる?」
「はぁ?」
私はその場の状況が良く飲み込めず、気の抜けた珍妙な返事をしていて、もう一人の見栄えのいいほうの客のほうをちらと見ると、実に不愉快極まりないという顔をしていた。なんでこんなしょうもない小娘に興味があるのだとでも言いたげに。この場の状況を自分なりに判断すると、ぱっとしないほうの客には何でだか分からないが非常に好感を持たれて、見栄えのいいほうの客にはムカつかれてしまったということなのだろう。私自身はというと、非常に複雑な気持ちだった。この二人は横に並んで座っているので、つまりは相手の顔を見ずに、二人とも私のほうに面と向かって座っているわけで、お互いがあまりにも対照的な表情をしているってことに、全然気付いていないんだろうなと思った。こんなとき、私は一体どんな顔をすればいいというのか? 笑えばいいのか、普通にしていればいいのか、それともぶすっとしていればいいのか、皆目見当が付かなかった。それにしても、二人一緒に接客するということが、いかに難しいかということに初めて気付かされた。それでも、仮にもお金を下さるお客様の前で不機嫌にしているわけにもいかず、かといって「いやだぁ、そんなに褒めないでくださいよぉ」なんてことも言えず、引きつった笑いをしていると、もう一度ぱっとしないほうの客が私に念を押した。
「ね、必ずいて下さいよ」
「はぁ」
とまた生半可な返事をすると、もう一回「ね」と言われ、その客は私に名刺を渡すと、ほどなくして二人は店を後にした。何だか知らないけど、なんか全然嬉しくない。気に入られたのはいいとして、もう一回あの二人がここに来て、また見栄えのいいほうの客に不機嫌な顔をされた日にゃ、私はどういう風に接待すればいいというのか。どうせこんなお水のバイトなんて続くわけないし、名刺なんて貰ってもねぇと思ってゴミ箱に捨てようとしたのだが、その名刺に書かれてある男の肩書きを見て驚いた。「三川雅人」という名前の上には「代表取締役」とあった。
「えー!? うそーっ!? マジでー!?」
私は捨てようとした名刺を思わずポケットの中にしまい込んだ。