最終章
まったく、貧しくて何も無かった若い頃のことを考えれば、嘘みたいな話である。嘘のような話かもしれないが、どこにでも転がっていそうな話でもある。居酒屋で飲みつぶれてトイレで衰弱していた老人を介抱した若者が、実は大会社の会長であった老人の秘書をすることになったという翔太と似たような話を、先日、TVのトーク番組で、ある男優が披露していた。四十六歳になった翔太も、「いい若者がおらんかのうと思うて、いつも見とるんじゃ」と言い、繁華街に行く度、飲食店や衣料品店などで、いろいろと若者を物色したりしているそうだ。私も翔太と同じようなことをしていて、いつも通っている歯医者の受付の親切なお嬢さんに、「誰かいい結婚相手はいないものか」と勝手にお世話したくなったりする。
若い頃は何もかもが暗中模索で、まさに誰が言ったか、トンネルの中にいるような気がしたが、それを傍から眺めている大人は、結構温かい目で見ていたりする。「最近の若者ときたら!」なんて怒っている輩は、大人になりきれていないと私は偉そうにも思ってしまう。本当は、大抵の大人が「そうそう、自分もそういうことで悩んでいたなぁ」などと、述懐していたりするもんじゃないかと思うのである。深く悩んでいる若者がいるならば、どうかこの言葉を思い出して欲しい、と僭越ながら思ってしまう。
人生は戦いだとよく人は言う。確かにそうかもしれない。けれども、大抵の人は、何かの大きな戦いに挑むでなく、その日その日の暮らしをただ懸命に過ごすだけで終わってしまう。そのことに意味があるのか、こんな人生を自分は送っていていいのかとも思う。けれども、懸命に過ごすということに意味があるとも私は思う。それを十年も続けていけばなんらかの形でスキルアップしている自分がいるし、それを繰り返して六十五歳までどうにかやっていければ、そういう人生もまた有意義ではないかと思うのだ。
若者と中年、または年配者で、明確に違っているところは、時間の過ぎ方なのかもしれない。若者は人生が永遠に続くと思っているが、年配者は人生はあっという間に終わると知っている。若者はいつまでたっても下っ端で苦労が永遠に続くと思っているが、年配者は辛抱していればいずれ近いうちに責任ある地位につくようになると知っている。先が見えない、と思い込んでいることはなんと苦しいことか。けれども、物事には始まりがあると同時に必ず終わりがあるのである。才能ある者だけが人生を謳歌しているのではなく、決して諦めず努力し続けている者が成功を手にしているのである。
「どんな境遇にいたとしても、誠実でいさえすれば、道は開けるものだ」という高田先生のありがたい言葉。翔太はこのことを身をもって体験した、と度々私に語った。どんなトラブルが起こっても解決の糸口が見つかったし、必ず助けてくれる人が現れたと言うのである。私はその話を聞くたびに「人徳だね」と翔太に笑いながら言った。
この先の人生も楽なことばかりでなく、まだまだ苦難もあるだろう。けれどもそれを苦しみだと思わず、坦々、いや淡々と乗り越えていければと思うのである。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この小説は、一見して私小説のようですが実は違います。フィクションです。ですが、東山翔太は私の理想の男性像です。世の男性はかくのごとくあって欲しいと思って書きました。
やっぱり三高でなくとも誠実な人が一番ですよね。




