表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
清く、貧しく、美しく  作者: 早瀬 薫
15/17

十五章

 日曜日の午後、翔太は朝から会社に出勤していて、久しぶりに一人でぽつんと部屋にいた。前からやっていることなのだが、私は暇さえあるとベランダに出て、何も考えずにぼーっと空や景色を眺めるのが習慣になっていた。いつものように空を眺めた後、真下にある公園の木立を眺めていたら、高田先生も珍しく一人でぽつんとベンチに座ってるのが見えた。高田先生は浮浪者の身分でありながらいつも忙しく、缶拾いに勤しんでいたり、仲間と談笑したりしていて、公園に一人でいることが滅多にない。私も久しぶりに一人になったものだから、急に人恋しくなって、高田先生とお茶でもしようと公園に下りていった。

「おう、桜子ちゃん、久しぶり。元気にしとったか?」

 高田先生は私を見つけると笑顔で言った。

「高田先生、こんにちは。私はいつもながら、元気満々ですよ。これ、良かったらどうぞ。貰い物ですけど」

 そう言って、私は会社の同僚の旅行土産の温泉饅頭の箱を高田先生に差し出した。高田先生は「いつも、すまないね」と言いながらにこにこと笑い、箱の中の饅頭を一つ、私にくれた。そして彼は、「今、お茶を沸かすから」と言い、やかんに水を汲むべく公園の水飲み場に向かった。水を汲み終えると、こんどは七厘に、新聞やら草やら何やら得体の知れない塵を丸めて乾燥させ、中心に穴を開けたドーナツ型の炭もどきを数個入れて火を点け、その上にやかんを載せた。高田先生は、木の棒で時々七厘の中をかき混ぜ、火が消えないように炭もどきに酸素を送っている。お茶の葉はオオバコ。どこにでも生えているオオバコは、葉だけでなく茎や根までお茶に利用できるそうである。つまり彼は、公園清掃と称して根こそぎオオバコを引っこ抜き、乾燥させてせっせとお茶作りに勤しんでいるらしい。また、「オオバコ茶には、整腸作用や風邪の予防などいろいろ効能もあって非常に重宝する」と、高田先生は説明してくれた。ふと、見回すと、公園の花壇に赤や黄色の花を付けているナスタチウム、ピンクの花のヒルガオが目に留まった。綺麗だなと思ってぼんやりと眺めていると、それに気付いた高田先生は私の視線の先を見て、「あれはワシの家庭菜園なんじゃ」と言った。地味な花しか付けない野菜を植えると公共の場所を私的に使うなと苦情が殺到するので、綺麗な花が咲くものばかり植えて密かに収穫して食べていると彼は言った。ここに浮浪者が住み着いていることのほうが、よっぽど大きな問題なような気もするが、私は黙って彼の話を聞いていた。私達が座っている場所から高田先生のテントの中が少しだけ見えたのだが、中は山と積まれた雑誌と本で埋もれていた。資源ゴミ収集の日、高田先生が一週間で一番嬉しい日なのだそうだが、その日に捨てられている新聞、雑誌の山を、とりあえず持てるだけ持って帰ると、必要なものとそうでないものとに仕分けをして、どうしても読みたいものだけを残しているそうである。だからだろうか、テントにはテレビもラジオもないのに、高田先生は私や翔太よりやたらと世事に詳しくて、度々私達にその話を聞かせてくれたりしていた。高田先生の日常の様子を見たり聞いたりしていると、究極のエコロジー生活だなと感心する。

「どしたんじゃ。なんかあったんかい?」

 高田先生は、コップに入れたお茶を私に渡しながら言った。

「いえ、別に何も……」

「嘘を吐きんさんな。何か話したいことがあって、訪ねてくれたんじゃろ? 翔太から聞いとるよ。ついにあんたらも結婚するんじゃろ? 実に目出度いことじゃないか」

 実は一週間前、大きな薔薇の花束と指輪を抱えて帰ってきた翔太が、突然私に、プロポーズしたのだった。私はあまりの突然の出来事にびっくりして、返事を先延ばしにしてしまった。翔太は、予想外の私の態度に少し戸惑っていた。

「は、はい。ありがとうございます」

「浮かん顔しとるなぁ。なんか不満でもあるんかね?」

「いえ、不満じゃないんです。不満と言うより不安かな……」

「俗に言うマリッジブルーじゃな。結婚前の女性にはよくあることじゃて」

 「結婚って良かったですか?」と思わず口走ってしまって、高田先生が結婚に失敗していることを思い出し、「あ、すみません。変なことを訊いて」と言った。それなのに、高田先生は嫌な顔をせず「良かったよ」と言ったので、私は少なからず驚いてしまった。

「遠慮せんでもええよ。ワシで良かったらなんでも聞くよ」

「はい、ありがとうございます。あの、今、彼と同棲してるじゃないですか。だから別に結婚とかいう紙ぺら一枚に、そんなに拘らんでもええんじゃないかなと思ってて」

「うむ、そう言われればそうかもしれん」

「それに……」

「それに、何じゃ?」

「それに、私みたいなんが彼のお嫁さんになんかなってもいいんかなと思うところがあって。なんにも取り柄がないんですよ、私……」

「はははは」

 驚いたことに高田先生が笑い始めた。

「何を言うかと思うたら。桜子はええ子じゃないか。他にもようけ、ええところがいっぱいある。じゃけど、ええ子ってとこが一番肝心じゃ。翔太はそれを見抜いただけのことじゃ」

「え?」

「ワシはいっつも翔太に聞かされとるぞ。桜子のおかげで苦しい生活も乗り切れるとか会社でも出世出来たとか。あー、聞いとったら耳が痒なるわって、いっつもあいつに言うとるんじゃ」

「はぁ……」

「ええか? あいつはそりゃ一本筋の通った律儀な男には違いない。努力もするヤツじゃし、才能もあると思う。じゃけど、あいつが今、一番大切に思うとるのは、仕事でも金でもなく、あんたなんじゃ。翔太からあんたを奪ったら、あいつは腑抜けになるに決まっとるじゃないか」

 私は高田先生のその言葉を聞いて、しばらく言葉も無く彼の顔を見ていたが、急に熱いものがこみ上げて、涙が頬を流れ出し、ハンカチも何も持っていなかったので、手の甲で拭いていると、高田先生が「ほれ」と凄く大切にしていて、滅多に使わないまっさらなティッシュを一枚私に差し出した。私はそれを受け取ると目にあて、一番最後にはおもいきりぶーんと鼻水をかんだ。鼻をかんで丸めたティッシュをジーンズのポケットにしまおうとすると、高田先生は「貸してみんさい」と丸めたティッシュを七厘の中へ投げ込んで燃料にした。そして、「もう一杯、どうかね?」とコップにオオバコ茶を注いでくれたのだった。


 夕方、翔太がいつものように会社から帰ってきて、いつものように二人で夕飯を食べた。普通にしていたのに、彼にしてみたら私が普通にしていることが普通でないらしく、「どしたん? 何かあったん?」と訊いてきた。嘘を吐くのも面倒だし、隠し事をしていても平気な顔が出来るというような器用な性分じゃないので、正直に高田先生との会話を彼に話した。彼は赤くなったり青くなったりしてその話を聞いていたが、私の話が終わると一言、「ほんまに高田先生の言うとおりじゃで」と言った。私は、「ありがたいけど、やっぱり納得がいかん」と言った。すると翔太は目を丸くした。そして今まで彼の口から聞いたことも無い、驚くような長いセリフを私に向かって放った。

「なんであんたは、そんなにいっつも自分に自信が無いんじゃ? いっつも真面目に会社に行って真面目に働いて、上司や同僚や後輩や友達やとくに郁美ちゃんや高田先生やワシにも優しいじゃんか。あんな貧乏で汚いワシを嫌いもせず、車の修理させてくれたし、缶コーヒーじゃってくれたし、お礼じゃ言うてシャツまでくれたじゃろ? あんなことされたん、ワシ生まれて初めてのことじゃったんや。掃除や洗濯はワシも手伝うけど、毎日遅くまで仕事してしんどいのに、買い物に行って美味しいご飯作ってくれるし、ワシのスーツやネクタイも選んでくれるし、パンツや靴下が破けたら縫うてくれる。それにな、『給料貰うたら、一番最初に、自分の車、買え!』って怒っとったじゃんか。あんとき、ほんとは涙が出るくらい嬉しかった。それに、どこで仕入れてくるんか知らんけど、こんなええ話があったとか、こんな面白い話があるんじゃとかいっつも大声で、こっちが眠いのにずっと聞かせてくれるじゃんか。ワシ、今まで言わんかったけど、いっつも家に帰ってきて桜子の話を聞くんを凄い楽しみにしとるんじゃ。ワシな、これでもな、親父やお袋の病気のこととか会社のこととか結構きついこともあるんじゃ。それでも、いっつも笑うとる桜子に励まされてどうにかやって来られたんじゃ。高田先生が言うてくれた言葉があるじゃろ、『どんな境遇にいたとしても、誠実でいさえすれば、道は開けるものだ』って。ワシな、その言葉を信じてワシなりに、いつでもどんなときでも真面目でおろうと、これでも努力して来たつもりなんじゃ。その結果かどうか分からんけど、大きい会社に就職出来たし、お客さんにも上司にも評価して貰うて、ある程度の地位につけたし、給料じゃて凄い上がった。でもな、一番の収穫は、桜子と出逢えて付き合えたことじゃと思うとる。ワシがクソ真面目なんをいつも褒めてくれたじゃろ? じゃけ、桜子はワシのこと、好きでおってくれたんじゃろ? ワシはな、桜子がおってくれたけん、真面目でおれたんじゃ。高田先生の言葉を地で行くんはワシじゃ、って桜子はいつも言うとるけど、でもな、あれは本当は、桜子のことじゃとワシは思うとる。自分でも何を言うとんのか分からんけど、ワシは、不器用なくらい真っ直ぐな生き方しかできん桜子のことが好きなんじゃ。だからお願いします、どうか僕と結婚して下さい!」

 そこまで彼の話を聞いていて、私はいつの間にか、ぼろ泣きしていた。翔太は「泣くな、笑え。桜子は笑っとる顔が一番似合う」と言った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ