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清く、貧しく、美しく  作者: 早瀬 薫
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十四章

 四月になり、私は大学四年になった。翔太は予定通り、ニッタに入社した。翔太の大学時代の友人達は、何故大学を中途退学した翔太が、大手一流企業に就職出来たのか、みな一様に不思議がった。それもそのはず、普通にM大を卒業しても、ニッタには毎年数人程度しか採用されなかったからである。

 翔太は入社してまず、広島市の北部に位置する安佐北区の支店に配属された。そこで彼はセールスマンをすることになった。社会人となった彼の生活は忙しく、私も卒論制作にとりかかっていたし、結構な割合で学校に缶詰になっていて、以前よりも彼とすれ違いの多い日々を送っていた。前に約束していた、春になったら桜を一緒に見に行こうという約束も果たされぬまま、桜の季節をとうに過ぎてしまっていた。けれども、忙しいってことは幸せなことなんだろうと思う。

 翔太はどんな客にも紳士的な態度で接し、どんなトラブルが起ころうとも投げやりにならず粘り強く解決した。一月に一度、翔太とのデートで彼からいろんな話を聞かされ、私は相変わらず凄いヤツだなと感心した。

 一年が過ぎ、私はコピー機を売る会社の広島営業所に就職した。担当は経理である。経済学部出身なので妥当な線におさまったと自分でも思うが、やっぱり現場に出るような職のほうが自分にはあっていたかも、と少し後悔した。翔太は人当たりが良いせいか、営業成績も良く、上司や同僚からも好かれたが、彼の学歴は大卒ではなく高卒だったので、そのせいか同僚よりも給料が低いようだった。その話を翔太から聞かされたとき、いくら社内規定があるとはいえ、社長じきじきに入社してくれと請われたのに、あまりに酷い仕打ち、と一人で勝手に憤慨してしまったが、翔太本人はさほど気にしていないようだった。

 それからまた、二年の歳月が過ぎ、私はそこそこの昇給を果たしたが、翔太は相変わらず薄給だった。大学時代からずっと住んでいる古く薄汚れた彼の下宿を家捜し、彼の給料明細を見つけると、私はため息を吐いてしまった。

「こんなんじゃ、自分の会社の車も買えんじゃん」

「ま、ええじゃないか。桜子が変わりに買うてくれたし」

 私は、この三月のニッタの決算期に、翔太が薦めた小型車を購入していた。

「今も家に仕送りしとるんやろ?」

「うん。弟が大学に入ったし、何かと物入りで。でも、父親も働けるようになったし、これでも前より楽になったんじゃ」

「翔太って凄いいいヤツじゃし、そういうところが私も好きなんじゃけど、なんか、気の毒っていうか可哀そう」

「え、そうかな?」

「そうじゃ! 人のことばっかり考えんと、自分のことを大事にし! 自分、車好きなんじゃろ? じゃったら、まず自分の車、買え! それが終わってから人に親切にしたらええじゃんか!」

 なんだかいつまでたっても翔太が報われない境遇にいるような気がして、そんなことを考えると腹が立ってきて、一気に捲し立ててしまった。それでも、翔太本人は、「仕方ないじゃろ」と言うだけだった。


 経済的に苦しいという理由で、私は翔太を説得し、私の1DKのマンションに彼と同棲することにした。翔太も私も、古い下宿には古いなりに愛着があったので、私も彼をそこから引っ張り出すことに少なからず抵抗があったのだが、何せ背に腹は変えられぬ。いくら風呂付きトイレ付きとはいえ、あの築五十年のぼろぼろアパートに三万円二千円の家賃は高すぎる。広さは翔太の部屋とほぼ同じだったが、築五年、鉄筋コンクリートエレベーター付きの私のマンションの家賃は四万五千円だった。私の部屋は七階で眺めもいいし、どっちかを引き払うなら、やっぱりどう考えても翔太の下宿のほうだろう。しかし、三畳のキッチン、六畳の居室に、もう一人人間が増えると、なんだかやっぱり狭かった。かなり処分したとはいうものの、荷物も結構増えたし、なんといっても人間が一人増えたということが、部屋の狭さを強調しているような気がする。私は小柄で身長一五四センチ、翔太も同じく小柄で一六八センチなのに、である。翔太は当初、「男が女のところに転がり込むなんて、硬派な自分としては納得いかん」とぶつぶつ言っていたが、そんな彼もすぐに慣れて、「なんか結婚しとるみたいでええな」とか「家に帰ったら明かりが点いとるのはほんまにええ。『お帰り!』なんて言われたら、気絶しそうじゃ」と言った。翔太は、掃除機をかけている途中、狭苦しい部屋を時々見回し、エノケンの歌、「せーまーいーなーがーらーも、たーのーしーいーわーがーやー」と鼻歌を歌った。そういうときは、私も彼に負けじと一緒に声を張り上げて歌った。

 

 贅沢も出来ず、趣味にも没頭するような余裕もなく、大して楽しみも無いように思われた生活をしていたはずなのに、翔太との同棲生活はなんだかいつも楽しかった。ベランダのプランターに葱やパセリやプチトマトを植え、「芽が出た!」と喜んだり、バーゲンでいかに安く物が買えたかと、戦利品を見せ合って自慢したり、こんなふうに他愛のないことをいつも話題にして一緒に喜んだ。こんな生活もいいなと思っていたのに、突然、翔太に変化が訪れた。変化が訪れたのは、同棲して三ヶ月も経っていないときのことだった。

 ある日、営業所の所長が「ちょっと」と翔太を接客室に呼び付けた。翔太は、何事かと思ったが、今度紙屋町の本社に新しく出来る、お客様相談サービスの係長に抜擢されたということを所長から告げられたのだった。所長は顔を紅潮させて興奮しながら話した、「やっぱり、最初から東山君には特別なものがあると思うとったよ!」と。

 いきなり本社の係長だなんて、前例から言っても高卒の学歴では考えられないくらいの異例のスピード出世らしい。人事課の課長の話によれば、車を購入した客から返送されてくるアンケート葉書の中で、翔太の丁寧な接客を褒め称えるものがかなりの数に上ったらしいということだった。「新車を買うので、古い車を知人に譲りたいのだが、名義変更はどうしたらよいのか」とか「新車を買いたいが車庫がない」などの要望に対して、名義変更に必要な書類を全部揃えて用意したり、客の自宅近くの駐車場を懸命になって探し出して来たりと、至れり尽くせりの仕事をしていたのである。翔太本人からすれば「自分がお客さんの気持ちになってやっただけのこと」なのらしいのだが、通常の自動車販売の業務の範疇を超えていることは誰の目からも明らかだった。それが功を奏したのか、勿論、売上げ自体も入社三年目にしては考えられないような高い数字を翔太は叩き出していた。

 翔太は、会社から帰って来るなり、翔太の帰りを一人マンションで待ち受けていた私に、栄転を報告してくれた。私は「えー!? うそーっ!? マジでー!?」と叫んで喜んだ。



 紙屋町の本社に配属になった後、再び、翔太は社長から呼び出され、社長室を訪れた。翔太は栄転の御礼を社長に述べたが、社長は「勘違いして貰っちゃ困る。僕は何もしていないよ。君の実力だ」と笑顔で言った。

 それから、翔太の怒涛の快進撃が始まった。入社三年目で係長になった後、二年後には、人事部に異動になり、営業成績を上げるための接客に関するノウハウを、講師として営業マンにレクチャーすることになった。翔太の言葉を借りれば、自分の実践してきたことを披露しただけなのに、講義はなかなかの評判だったらしい。そのまた二年後には、新車開発に繋がる客の要望を取り入れたアイディアを、自動車を設計、開発している親会社に上げる業務をすることになり、役職も課長に昇級した。それから、親会社に一年出向した後、帰って来たときは、弱冠三十歳にして、営業所の所長という地位に就いていた。私は翔太が出世する度に、「えー!? うそーっ!? マジでー!?」を繰り返し、この先これが一体何回続くのだろう、と思った。

なんという強運の持ち主、と彼のことをよく知らない者は噂したが、「えー!? うそーっ!? マジでー!?」を繰り返しながらも、私はそれが強運でもなんでもなく、ひとえに彼の人柄と努力の賜物であることを知っていた。たぶん、彼の周辺で一緒に働いていた人は私と同じことを思っただろうと思う。どんなに面倒なことでも嫌がらず、それが客だけに限らず周囲の者に対しても丁寧で親切で、たとえ彼のことを妬む者から嫌がらせを受けたとしても、それに構うどころか気付きもせず、仕事に邁進する彼だからこそ、得ることになった当然の結果なのである。

 亡くなったばーちゃんの言葉が再び思い出された、『陰日なた無く真面目にやるんよ。誰が見とるか分からんからね』。この間、このことを会社の飲み会で、上司である四十代の課長に話したら、「ワシもな、若い頃はちっとも人を見る目がのうてな、綺麗なばっかりの中身の無い空っぽのねーちゃんにいつもたかられて、それで自分がモテとるなんて勘違いしとったんよ。それじゃのに、なんかしらんけど、年取るだけで知らず知らずに知恵がついとるんじゃろうな。この頃は、『あ、この子はええヤツ、この子はいかんヤツ』ってちょっと話しただけで分かるんじゃ。水の持ってきかたでも、震えながら持ってくる子って、どんくさいかもしれんけど真面目なええ子じゃと思うじゃろ? 要領が良くても、どんっ!と無作法にコップを置くヤツはいかん子。それだけで分かるじゃん」と言っていた。私が「それって女の人だけじゃなくて、男の人に対してでもそうですよね?」と訊くと、「そうそう、おんなじ、おんなじ。こんど入ってきた新入社員の坂田と峰岸、どっちが出来るヤツじゃと思う?」。そう課長が私に訊いてきたが、私は別段、二人に違いがあるようには思えなかったので「分かりません」と答えると、彼は「坂田じゃ」と言った。不思議に思った私が「なんでですか?」と問うと、課長は「コピーのとり方で分かる」と答えた。付け加えて、「ただコピーしただけのものをぼんっと渡すのが峰岸で、ちゃんと種類分けまでしてクリップで止めて渡すのが坂田」と言った。そして、「そういう細かい気遣いが出来る者が這い上がっていける」と課長は確信に満ちた目つきで私を見ながら言った。私は、なるほどなぁと思ったのだった。


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