十三章
いつものバイトの帰り、今日は珍しく居酒屋ではなく、ジャズ喫茶「Vibrations」のテーブルに私と郁美は座っていた。マスターは久しぶりの私の来店を喜んでいて、「桜子ちゃんはミックスジュースでしょ?」と訊いてきたので、私はメニューを見ながら「ううん、今日はドライ・マティーニにしてくれる?」と言った。郁美はスクリュードライバーを頼んだ。
「そいでね、私、結婚することになったんよ」
いきなり郁美が言った。
「ぶっ!」
私は、飲んでいた水を思わず噴き出した。「誰と! 雅紀と!?」。口にしたいのだが、あまりの驚きで口に出来ない。
「じゃけ、桜子、翔太君と結婚式に出てね」
「えー!? うそーっ!? マジでー!?」
「嘘じゃないってば」
「雅紀と?」
「うん」
「ああ、良かった。違う人だったらどうしようかと思った」とは、やっぱり口に出来なかった。
「いつ?」
「三月」
「じゃ、もうすぐじゃんか」
「うん」
「ものすごーい、急じゃね」
「それがね、雅紀、転勤になりそうじゃけん……」
郁美の彼氏である雅紀は、店舗を他府県にもいくつも持っている大型チェーン店のスーパーの店員をしていた。
「辞令とか出たわけ?」
「うん、内々にね。じゃけ、雅紀が『離れとぉないけん、転勤する前に結婚してくれ』って」
「ご馳走様。あーあ、これで二人目」
出来ちゃった結婚して、大学を辞めていった志穂のことを思い浮かべていた。
「え、なに?」
「いや、何でもない、何でもない。でも、ほんとに良かったね。おめでとう」
「……ありがとう」
「それで、どこに転勤になるん?」
「岡山」
「遠いような近いような……」
「高速使うたら近いけん、車で遊びに来て」
「……うん」
「披露宴はせんのよ」
「そうなんじゃ」
「だって、披露宴にお父さんの仕事仲間がようけ来たら、大変なことになるじゃろ?」
「そうか。でも雅紀って、郁美のお父さんのこととか、みんな知ってて結婚してくれって言うたんじゃね」
「うん」
「ええヤツじゃん」
「うん。やっぱり桜子の言うとおりじゃった。雅紀にして良かった。ウチな、雅紀の転勤の話が決まって、結婚してくれって言われたとき、本当のことを言うべきじゃと思って、別れるんを覚悟でお父さんのことを告白したんよ。初めは雅紀もびっくりしとったけど、でもお終いには『そんなん郁美と関係ない』って言うてくれたんよ。凄い嬉しかった」
「雅紀って男気があるなぁ」
「うん。じゃけん、うちのお父さんも雅紀を気に入ってしもて、『組に入らんか?』だって」
「えー!? うそーっ!? マジでー!?」
「嘘に決まっとるじゃんか」
「ちょっと、滅多に使わんフェイント、やめてくれる? 冗談に聞こえんけん」と言いたかったが、やっぱり言えなかった。
「でもな、雅紀、ウチのせいですごい嫌な思いしたと思うよ。だって、雅紀の両親が反対しとったから。当たり前といえば当たり前じゃけど」
「それで、雅紀が説得したん?」
「うん。それが一番大きいと思うけど、実はね、うちのお父さんが向こうの両親に土下座したんよ」
「ふん、それで?」
「組のもんが、迷惑かけるようなことは絶対させんからって。うちのママ、ぼろぼろ泣いとったわ」
「そうじゃろうね。でも、ほんま、良かった」
「うん」
「郁美、幸せになりんさいよ」
「うん」
そう返事をして、郁美がしくしく泣き出したので、私も思わず貰い泣きした。
「そろそろ、いいかしら?」
私達が真剣に話し込んでいるので、なかなか注文の品を運ぶことの出来なかったマスターがドライ・マティーニとスクリュードライバーをテーブルに運びながら言った。私と郁美は手に取り、一口飲んだ途端、二人同時にぶっと吐いた。
「ちょっとっ、汚いじゃない!」
マスターが言った。
「ごめん、ごめん、マスター。この間、深夜放送のラジオを聞いとったら、DJが『いい女はドライ・マティーニを注文する』とかなんとか言うとったもんじゃけ、私も真似してみようと思うたんよ。でも、これってカクテルじゃのに、全然甘くない」
「当たり前じゃないの、ドライなんだから。それにしても、お友達のは、おいしいはずなのにおかしいわね」
「これって、ジュースじゃないんですか?」
郁美がコップを上に持ち上げ、コップの中身を眺めながら言った。
「まぁ、呆れた。オレンジは確かに入っているけど、れっきとしたお酒よ!」
「あの、私ら、焼酎のカルピス割りとかなら、けっこういける口なんですけど?」
「お生憎様。そんなものはうちでは扱っておりません。もう、あんた達は、いつものミックスジュースでも飲んでなさい!」
そう言ってマスターは冷蔵庫から林檎やバナナやオレンジや牛乳や蜂蜜を取り出し、ミキサーにぶち込むと、ごうごう回し始めた。おかげで、BGMのジャズがかき消され、気分が台無しになった。店内には私達のほかに客が数人いたが、見回すとみんな迷惑そうな顔をしていた。ミックスジュースが出来上がり、私が「やっぱりこれが一番おいしい」と呟くと、郁美もジュースを飲みながら、無言でうん、うんと頷いた。
そのとき、入り口が開き新しい客が入って来た。入り口の方を見ると、そこには、元彼の良幸と彼の新しい彼女と思われる女性が立っていた。マスターは慌てていた。マスターは慌てていたけれど、私は不思議なくらい落ち着いていた。私は良幸に向かって会釈し、「お久しぶり」と笑顔で言った。良幸はしばらく呆然とした顔をしていたが、やがて笑顔になると「元気だった?」と言った。私は「うん」と答えると、マスターに「じゃ、もう、遅いから帰るね。ご馳走さま」と言い、支払いをして、もう一度笑顔で良幸と彼女に会釈すると、郁美と二人で店を後にした。
郁美と別れてから、足は自然と翔太の下宿に向かっていた。腕時計を見ると午前二時で、翔太にはこんな時間に押しかけて申し訳ないと思ったが、どうしても彼の顔が見たくなり、気付けばいつの間にか彼の部屋のブザーを押していた。しばらくして、パジャマ姿の翔太が眠そうな顔をして部屋の中から出てきた。翔太が出てきた途端、私は思わず彼に抱きついた。
「ど、どしたん!? 何かあったん!?」
翔太は驚いて目が覚めたようだった。
「何もない。ただ、翔太の顔が見たかっただけ」
「ま、まあ、中に入りんさい」
彼に言われるまま、部屋の中に入った。彼は「お茶でも飲む?」と言ったが、私は「さっき、ジュースをようけ飲んだけん、いい」と言った。そして、私は外套を脱ぐと、服のまま彼の布団の中にもぐり込んだ。その様子を見た翔太はびっくりして「やっぱり、何かあったんじゃろ?」と言って、もう一組押入れから布団を出そうとしたが、私は「ここに、一緒に寝て」と言った。
その晩、私は翔太の布団の中で彼に抱きついたまま、初めて彼の部屋で朝まで過ごした。
三月の郁美と雅紀の結婚式は本当に素晴らしかった。郁美が十五年前に通っていたカトリック系の幼稚園の敷地内にある教会で式は執り行われた。教え子である郁美の結婚を神父とシスター達は涙で祝福した。私は、初めて門をくぐった古い教会の荘厳で粛然とした雰囲気に圧倒され、祭壇や十字架に磔にされた金色のイエスや大理石の聖母マリア像やステンドグラスにいちいち目を瞠ったが、一番驚いたのは、なんといっても郁美の母親、その人だった。厳つくていかにも強面の父親に対し、母親は、すれ違う者がたとえ女性であっても、振り返ってマジマジとその容姿を上から下までじっと眺めてしまうほどの美人であった。しかも、郁美に聞いて驚いたが、年齢は四十一歳で、実年齢よりも十歳は若く見えた。彼女は、実は女優なのだと嘘を吐いたところで、誰もがその嘘を鵜呑みにするだろうと思われるほどの美貌の持ち主だった。郁美も決して醜女の部類ではないが、どうやら彼女は父親のほうの遺伝子を多く受け継いだらしい。郁美の母親は父親に優しくエスコートされていて、その様子は、彼女と彼女の娘が、広島で仁義無き戦いを繰り広げて来た屈強な男に、いかに大切にされてきたかが分かるような光景だった。
それにしても何かにつけ、驚かされた結婚式だった。新郎側と新婦側の参列者の衣装の違いからしてもそうだった(男性はそう違いがなかったが、新郎側の女性は主に留袖で豪華ではあるが見るからに地味、新婦側の女性は色とりどりのドレスで見ていると目がちかちかした)。とは言うものの、郁美だけでなく雅紀も彼の両親も親戚や友人達も満面の笑みだったし、郁美の父親も母親も涙でボロボロだったし、私も翔太も、出席して本当に良かったと思うような温かい結婚式だった。




