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清く、貧しく、美しく  作者: 早瀬 薫
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十二章

「なあ、桜子、こんなんでええんかな?」

 「ニッタ」に会社訪問するために、似合いもしないスーツに身を包んでいる翔太が、姿見の中の自分を見ながら言った。濃紺のスーツだし、ワイシャツは水色でネクタイは紺と白と黄色のストライプ。何の変哲も無いありきたりな普通のサラリーマンの彼のコーディネートを見て、私は「いいんじゃない?」と言った。その言葉を聞いて、翔太は安心したようだった。

「マジでワシみたいなんが、あんなに大きい会社を訪問してもええんかな?」

「だって、ちゃんと会社に連絡して、社長とのアポイントメントを取ったんじゃろ?」

「うん」

「じゃ、いいに決まっとるじゃん。てか行かんかったら、そっちのほうがいけんじゃろ」

「うん」

「社長さんじゃけ忙しいのに、わざわざ会うてくれる機会を作ってくれたんじゃん」

「うん」

「大丈夫じゃて」

「そうかのぉ」

「立派にサラリーマンみたいに見えるよ」

「そうか?」

 そう言って翔太は鏡の中の自分を見て、モデルのようにポーズを取り始めた。

「こら、図に乗るな」

 私がそう言うと翔太はニヤッとした。その後、彼は紙屋町のバスセンター行きのバスに乗り、「ニッタ」の広島支社に赴いた。


 翔太は紙屋町に燦然と聳えるニッタの自社ビルの中に入ると、受付嬢に「東山翔太と申しますが……」と言った。たった一言、そう言っただけなのに、受付嬢は顔色一つ変えず、「お話は社長から聞いております。そこの直通の第三エレベーターで二十五階の社長室へお上がりください」と言った。社長と重役専用と思われるエレベーターの前の警備員に丁寧にお辞儀され、翔太はまるでVIPにでもなったような気がしたが、慣れないビルの中のエレベーターのボタン操作に戸惑い、おろおろしてしまった。

 チンと音がして、エレベーターは二十五階に止まり、ドアが開いた。開いた途端、眼前に巨大な空間が広がった。三百平米はあろうかと思われる最上階のフロアは南面が全面ガラス張りで、広島市の中区、南区の街並みと、宇品港、似島、江田島、そしてその先の瀬戸内海までが一望に見渡せた。自分が住んでいる広島に、こんな別世界のような空間があるなんて、翔太は今まで一度も想像したことがなく、本当に度肝を抜かれた。二十五階全部のフロアがどうやら社長専用の部屋らしかった。部屋には巨大なソファーセットが三つとバーカウンターがあり、パーティーをするには、もってこいの部屋だと思われた。広すぎる部屋を見回してみても人影が眼中に入ってこないので、誰もいないのかと思っていたら、ふと、窓際に置かれた大きな机と椅子のセットが目に留まった。すると窓に向いていた座り心地の良さそうな大きな椅子がくるりと回り、見覚えのある初老の紳士の笑顔が現れた。彼は椅子から立ち上がり「やあ、来たね」と、翔太と握手をしようと手を伸ばしながら、こちらの方角に歩いて来た。

「本当に押しかけてしまって、申し訳ありません。この度は、貴重なお時間を割いていただき感謝しております」

「まぁまぁ、そんな堅苦しい挨拶は抜きにして、そこのソファーに掛けなさい。えっと、コーヒーでいいかな?」

「はい」

 社長はカウンターに歩み寄ると、自らコーヒーを点てはじめた。そして二客のコーヒーカップにコーヒーを注ぐと、一客を翔太に渡した。


「この部屋の眺めはどうだい?」

「はい、素晴らしいです。本当にびっくりしました」

「ここに来たみんながみんな、そう言うんだよね。昼間だけじゃなくて、夜も結構綺麗なんだよ。だけどね、気晴らしにはいいけれど、仕事するには落ち着かなくてね。結局、仕事をするときは、一つ下の階の陰気な小部屋でやってるんだよ。まったく、もったいない話だよね」

「そうなんですか? でも、なんだか分かる気がします」

「それはそうと、あのときはわざわざ追いかけくれてありがとう。でも、本当にびっくりしたよ」

「お釣りの件ですか?」

「うん」

「いえ、当然のことをしたまでです。僕のミスでご迷惑をおかけしてしまって、本当に申し訳ありませんでした」

「君はその行為を当然だと思っているんだろう?」

「はい……」

「はははは。やっぱり僕の見込んだとおりの人物だね、君は」

「……あ、ありがとうございます」

「でもね、なかなか君みたいな人物には、お目にかかれないものなんだよ。僕はこんな会社の支社長をしていて部下も沢山いるが、一歩会社の外に出れば、ただの人だよ。有名人でもなんでもないし、大抵の若者にとってはとるに足らない老人だ」

「そ、そんな」

「いや、そうなんだよ。だからこそ、君みたいな若者に出逢えたりするんだよ。そういうときは、本当にラッキーだと思うね。だからね、もし、この会社に興味があるなら、是非、我社で働いてほしい。でも、選択権は当然君にあるから、もし良かったらの話なんだけどね」

「あの、先に送りました履歴書に書きましたが、私は大学を中退しております。それでも宜しいんでしょうか?」

「ああ、ちゃんと拝見したよ。家庭の事情で、とあったね」

「はい、父が入院して働けなくなったものですから」

「そうか、それはお気の毒に……。でもそれなら何も問題ないよ。君が働けないってわけじゃないんだから。ところで、君は車に興味があるのかな?」

「はい、それが、実は私、偶然にも以前から車に大変興味がありまして、修理工場でアルバイトをしております。車両整備士の免許を取ろうと思っていたものですから、今回、このお話を頂きまして、びっくりした次第です」

「そうかね! やっぱり、君とは縁があるのかなぁ。ああ、でも、車と言っても、うちの会社は開発の方じゃなくて、販売のほうだからね。修理もしているが、君には主に販売のほうをやって貰いたいんだよ。それでもいいのかね?」

「はい。貴社の販売されている車は、私にとって憧れの存在でしたから。もし、採用していただけるならこんな幸せはございません」

 社長は、真面目で堅苦しい翔太の喋り方を聞いて、自分が見込んだとおりの実直で堅実な性格を翔太に感じられたのか、終始にこやかだった。それから、社長と趣味の話や家族の話をして三十分ほど歓談した後、最後に社長は「いいかい、企業は人で成り立っているんだよ。君みたいな真っ直ぐな人間こそ顧客や企業が必要としているんだよ。この先、君の人生にもいろいろなことが起こるだろう。しかしそのときに、君のその性格や頑張りが必ずや君自身や周囲の人間を助けることになるだろうことを覚えていて欲しい」とそう言った。その後、社長は秘書に電話し、「人事課に連絡を取って、東山君の入社に関する手続きの案内をしたまえ」と言った。


 何もかも夢のような話だった。翔太は、私のバイトが終わるのを待っていたのか、真夜中にスーツ姿のまま、私のマンションを訪れた。翔太は来るなり「今から、ドライブに連れてってくれん?」と言ったので、私は翔太の紅潮した頬を見ながら、笑顔で「翔太が運転してくれるんならいいよ」と言った。

「それにしても当たり前のことをしただけじゃのに、なんであんなに感謝されたんやろう? そいでもって、大会社に就職じゃで! ほんまに信じられん!」

「でも、たぶん、そういう翔太の行為って当たり前じゃないんかもよ。翔太は特にいいヤツじゃもん」

「ほんとに大人はこんなことで、感激してくれるもんなんじゃね」

「そういえば、死んだばあちゃんが、私に『陰日なた無く真面目にやるんよ。誰が見とるか分からんからね』とよく言うとったわ。言われたときは全然意味が分からんかったけど、ばあちゃんが言いたかったことは、きっとこのことなんじゃね」

 私がそう言うと、翔太は「そうなんじゃなぁ」と呟いた。

 それから山口県の岩国の和風レストラン「山賊」に着くまで、翔太は社長と豪華な社長室の話を延々喋り続けていた。そして、「ワシが社長になったら、社長室に桜子を連れてっちゃるわ」と翔太が言ったので、私は「はい、はい、是非そうして下さい」と言った。

 山賊名物の馬鹿でかい山賊むすびと、鶏の足一本を五十センチほどの竹で串刺しにし、甘辛い醤油だれをつけて炭火で焼いた山賊焼きを平らげた。山賊は、道路を挟んで三箇所の建物からなるが、メニューはどこもさほど差が無くほとんど同じだった。庭には小さな滝や鯉のいる池があり、店内装飾も囲炉裏があったり炬燵があったり階段箪笥があったりと、和風で統一されていて、外国人の観光客はここを訪れると喜んだ。そんな店の作りなのに、ふと隣りを見ると、翔太は西洋風の堅苦しいスーツを着て鎮座しているので、なんだかこの場に至極不釣合いだなと思ってしまった。その様子が凄く滑稽に見えたので、一人で翔太を見てゲラゲラ笑っていると、翔太は「どうせ、ワシはスーツなんて似合わんわい!」と怒った。


 玖珂町にある「山賊」で食事をした後、錦帯橋を目指した。ライトアップされた五連のアーチからなる錦帯橋を二人で缶コーヒーをすすりながら眺めた。日本三名橋の一つに数えられる錦帯橋は、見慣れていても訪れる度に、その壮観さに驚かされる。

「私、実はこの橋を初めて渡ったとき勢いつけすぎて、橋のアーチの一番高いところからずり落ちたことがあるんじゃ」

 翔太は私のその言葉に半ば唖然とした後、ひとしきり笑い転げ、「桜子らしいのう」と言った。

「そんなに笑わんでも、ええじゃん!」

「さっきのお返しじゃ。お前、ほんまに変わっとるわ。普通、女の子がそんなこと、自分から言わんじゃろ?」

「え、そうかねぇ?」

「ワシなぁ、実はな、去年、親父が倒れるまで、付き合うとった彼女がおったんじゃ」

「え……」

 そんな話、今まで一度も聞いたことが無かった。初耳だった。

「彼女は桜子と全然違うとった。ワシが大学、辞めるって言うたら、それから全然連絡が取れんなった」

「……」

「今思うたら、なんでああいう子が好きじゃったんか、自分で自分がよう分からん。彼女はおとなしいし、あんまり食べんし、気取った子じゃった……」

「……悪かったね、大食いで、大声で、女らしくなくて!」

「阿呆じゃな。そこが桜子のええとこなんじゃろうが。ワシは、いつも大声で馬鹿話ばかり喋って、笑っとる桜子が好きなんじゃ」

「……翔太の阿呆!」

 そんなつもりなどなかったのに、鼻の奥がツンとなって、溢れてくるものを堪えるのが苦しかった。翔太に好きだと言われたことよりも、つい去年まで翔太に彼女がいたことのほうがショックだった。自分だって良幸と付き合っていたのだから、随分、身勝手だということは分かっている。それでも、ショックだった。自分で言うのもおこがましいが、私は合コンでは結構モテルほうだった。けれども、ある種の男性にとっては、一見楚々として見える外見と中身のギャップが激しいらしく、少しでも気を許して自分の本性を曝け出してしまうと、それに幻滅する男性が多かったのも否めない。良幸から別れを告げられたことも傷を引き摺る一因になっていて、最近の私は恋愛に関してまるきり自信を無くしていた。いや、最近ではなくて、はるか昔、十三歳の初恋のときから、ずっとそうだったのかもしれない。初恋は破れるというのが通説だとしても、その後、恋した三回が三回とも失恋に終わっていた。恋愛が終わる度に、自分の言動や仕草を改善しなければと思ってきたが、相手の男性もみな一様でなく、結局どうすれば恋愛が成就するのか全然見当が付かなかった。だから、これからは無理せず飾らず、ありのままの自分でいようと決めていた。とはいうものの、翔太と恋愛関係になるなんて、最初は予想だにしなかったことなのだが……。でも、やっぱり、大食いで大声で馬鹿話をする女が褒め言葉だとは到底思えないし、しかも、自分とは正反対の女性と翔太が付き合っていたという事実がショックだった。


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