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清く、貧しく、美しく  作者: 早瀬 薫
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十一章

 冬休みになり、私はまたしても何の変哲も無い日常を繰り返していた。日曜の昼過ぎ、ベランダへ出て日向ぼっこしていると、またもや公園で翔太が懸垂している姿が見えたので、私は急いで外へ出た。

「いっつも頑張るね」

 翔太にそう声を掛けると、翔太は懸垂している手を止め、びっくりして振り返ったが、声の主が私だと分かると、そのまま懸垂を続けながら、「おっす」と言った。

「今日は引越のアルバイト、無いん?」

「あー、あれねー。また、やってしもた」

「ええっ、何やったん?」

 私は恐る恐る訊いた。

「いや、お客さんの箪笥、階段から落っことしてしもて、即、クビ」

「もしかして、バラバラにしたとか?」

「うん」

「それで、また弁償?」

「うん」

「あんた、ええかげんにしんさい! 馬鹿と違う? つくづくドジな男じゃね。それで、怪我はせんかったん?」

「ちょっとはしたと思うけど、もう治った。ワシ、意外と丈夫なんじゃ」

「それは私もよう知っとる。でも、ほんとはただどんくさいんじゃのうて、また何かあったんじゃろ?」

「いやな、そこのうちの男の子が『お兄ちゃん、僕の宝物見せたげる』って言うもんじゃけ、ちょっとの間、その宝物のミニカーで一緒に遊んどったんよ。その後、全部、ダンボールにしもうたと思ったのに、一個だけ残っとったというわけ」

「それが、階段にあったわけよ」

「うん。で、ワシが踏んでしもて、足が滑ったんじゃ。……あ、でも心配せんでもええよ。もう、次のバイト、決まったけん」

「なんの?」

「レストランのウェイター」

「……ねぇ、それって翔太に向いてないと思うけど」

 私は、ビールを客にぶっ掛けた晴美の顔を思い浮かべていた。

「失礼なヤツじゃのお。店長はワシの顔見て、にこにこしながらすぐ採用してくれたのに」

 確かに、翔太の見かけは、素朴で真面目そうには見える。

「まかないとか出るん?」

「うん、ご飯、食べさせてくれるんじゃって」

「ほいじゃあ、食費が浮くし良かったね」

「まあな」

 そう言いながら、それまで鉄棒に掴まって懸垂していた翔太は、身体を大きく前後に振ったかと思うと大車輪を三回繰り返し、「えいっ」と言って地面に着地した。着地した後、体操の選手よろしく両手を大きく斜め上に広げてポーズした。私がその様子を無言で眺めていたら、翔太は「あれ、拍手は?」と言ったので、私は「えー、もっと何かやったら?」と言いながらも、大車輪が出来るなんてやっぱり凄いと密かに思っている自分がいて、彼の催促どおりパチパチと拍手した。

「レストランのバイト、いつから?」

「明日から」

「じゃ、今日の夜、暇?」

「暇といえば暇」

「じゃあ、私の車に乗せたげようか」

「えー、運転さしてくれるん?」

「うん」

「やった!」

「いっつもすれ違いばっかりで、乗せてあげられんかったもんね」

「そうじゃね。桜子は夜、バイトで忙しいけん」

「でも、翔太もウェイターするんやったら、夜、忙しくなるんじゃろ?」

「うん」

「じゃ、今日ぐらいじゃね、時間が取れるんは。じゃ、汗を拭いて、着替えてきたら? 五時にこの公園に集合じゃけんね」

「おう、分かった」


 午後五時に公園に着くと、すでに翔太が先に来ていて、私が彼にあげた黒のポロシャツとジャケットとジーンズという姿だったので、その恰好を見て吹き出してしまった。彼にしてみたらこの恰好が、精一杯のめかし込んだ恰好なのだろう。「おまたせ」と言って翔太に近付くと、シャワーを浴びたのかほんのり石鹸の香りがした。公園を見渡すと、例の青いテントに高田先生がいたので、昨日、実家から宅配便で送られてきた米や乾麺を渡すと、高田先生は喜び、「デート、頑張りんさいよ」とニコニコしながら言ったので、私は顔が赤くなった。振り返って翔太の顔を見ると、翔太も恥ずかしいのか、口笛を吹きながら私の視線から目を逸らした。

 私の赤い軽自動車に二人で乗り込むと、国道二号線を東に走った。車好きなのに経済的な理由で車を持てない翔太は、嬉々として運転している。こんなに喜んでくれるのなら、もっと早く運転させてあげればよかったと少し後悔した。二号線を十五分ほど走って、道沿いにあるイタリアンレストランに入った。私はメニューを見ながら、ペペロンティーノスパゲティとラザニアと魚介のピッツアを頼んだ。翔太は和風きのこスパゲティを頼んだ。

「ねぇ、頼みすぎじゃん。そんだけ食べれるんか?」

「ふだん、我慢しとるのに、今日ぐらいは豪勢にしたっていいじゃん」

「いや、そういう問題じゃのうて、量的な問題なわけよ」

「私の胃袋の大きさを知らんのじゃね」

 そう言って、私は運ばれてきた料理を翔太に分けながら次々平らげたが、最後のペペロンティーノでつまずいてしまった。それを見た翔太は、私が残した皿を自分の前に置くと、食べ残しだろうが何だろうが構わず全部平らげた。私はそれを見て、なんだかちょっとばかり感動してしまった。彼とは友達以上彼氏未満だと思っていたが、幾らもったいないとはいえ、スパゲティみたいなグチャグチャした他人の食べ残しを、躊躇無く食べられるなんて大したヤツである。これではまるで家族、いや恋人みたいではないか。

「うわー、翔太ってすごー」

「なんでぇ?」

「よくそんな人の食べ残しを食べれるもんじゃね」

「もったいないじゃんか」

「まぁ、そうじゃけど。ミートソースとかでも食べれる?」

「食べる、食べる」

「なんか汚いなぁ」

「自分の食べ残しじゃろ。汚いも何もないじゃん」

「……何か彼氏みたい」

「みたいって、えー、ほんまか。なんか、ショック……。ワシ、桜子と付きおうとると思とった」

「……」

 翔太からそんな言葉がすんなり出てくるなんて思ってもみなかったので、少なからず驚いた。言葉が出ず、まごまごしていると「こら、何か言うてみんさい」と翔太が言った。

「……翔太、私に交際、申し込んだこと、無いじゃんか」

「……そうじゃった」

「じゃけ、実は、私は一体翔太の何なんってずっと思とった」

「ワシもな、実はな、はっきりさせるんが恐かったんよ」

「なんで?」

「だってワシみたいな貧乏人が、付き合うてくれなんて、女の人に言うていいんかなって思うとったんじゃ。桜子にとったら迷惑かなって……」

「そんなこと、ないよ!」

 そう言った途端、会話が止まってしまった。結構大きな声で言ってしまったので、周りのテーブルの人たちがこっちをじろじろ見てくるし、こっちも次に何を喋ったらいいのか分からないし、翔太はびっくりした顔で唖然としているし、仕方が無いので、その後、さっさと勘定を済ませ、そそくさと二人で店を出た。結局、結論は出さないままだったけれど、翔太の顔を見ると、彼はにこにこしていて、私は彼のそんな様子が凄く嬉しかった。


 その後、広島市内の東南に位置する標高二百二十メートルほどの黄金山に車で登り、市内の街明かりを二人で眺めた。

「綺麗じゃねぇ」

「そうじゃね」

「でも、ここね、夜景だけじゃなくて桜も綺麗なんよ」

「へぇ、そうなんじゃ」

「子供の頃は、桜なんて別に関心無かったけど、なんか私も大人になったんかなぁ。桜が咲くと一日でも長く咲いてますようにって思うとったりするんよね」

「なんかそういう気持ちを詠んだ歌があったような気がする」

「古今和歌集、在原業平、『世の中に 絶えて 桜のなかりせば 春の心は のどけからまし』。この世に桜がまったくなかったら、のどかに春を過ごせるだろうに、っていう実は桜好きの人が詠んだ歌なんよね」

「よう知っとるね」

「なんかね、この歌、素直じゃないっていうか、それがすごく印象に残っとるんよ。小学生じゃったからかなぁ。先生が教えてくれたんじゃけどね。桜が無かったらいいのにという逆の表現で、実は本当は凄く桜が好きなんだって表現してるところが、なんか子供ながらに、粋だなぁって思うたんよ」

「ワシも和歌なんかよう分からんって思とったけど、短い言葉にいっぱい色んな意味が込められとって、結構感動するもんじゃね」

「うん。でも、私が桜が本当に綺麗だなぁって実感したんは、大人になってからなんじゃけどね」

「そんなもんじゃろ。色んなこと経験せんと分からんことはある」

「桜が咲いたら、また連れて来たげる」

「あ、ありがとう」

「今度は近いうちに、岩国の錦帯橋、行こ」

「もしかして、夜中じゅうやってる巨大おにぎりが食える『山賊』って店に行こうとしとるじゃろ?」

「あ、分かった?」

「桜子はほんまに花より団子っちゅうか、色気より食い気じゃね」

「悪かったね」

 その後の帰りの車の中で「あんたはほんとに変わっとる」とか「こんな女の子、初めてじゃ」とか「食いすぎじゃろ」とか「でもそこがよかったりするけどな」とか散々くさされたり褒められたりして、怒っていいのか笑っていいのか、とにかく翔太にとって私はなんか面白い存在であることは間違いないらしい。今まで、彼氏だった男性にはどこか本当の自分を隠して付き合ってきて勝手に疲れたりしていたので、本当の自分を見せたほうが本当の付き合いが出来るのじゃないかと思う自分がいて、まあ、本当のところを言えば、翔太は単に私にとって気の置けない存在だったというだけの話なのかもしれないが。でも、それって案外一番大切なことなんじゃないだろうか? それから、お互い少ないお金を遣り繰りして箪笥預金し、二週間に一度、彼と映画鑑賞やドライブをして、その後食事に出掛けたが、その度に、私は、自分もカップルなのに他のカップルの様子を観察するようになった。

 私達は大体において、大量の品をテーブルの上に載せ(たまに、二人がけの小さなテーブルに載り切らずに、隣りのテーブルに置いたりして、そのまた隣りのテーブルの人に呆れられたりして、そういうときは、翔太が一言、「恥ずかしい」と小さな声で言ったりした)結構冗談ばっかり言ってわぁわぁ喋りながら楽しく過ごす。それが終わると、食べることに集中しているふりをして、聞き耳を立てる。あるカップルはというと、私達とは違ってかなりやばいんじゃないの、という感じの会話をしていたことがあった。そういうときは嫌でも耳が自然とダンボになる。あるカップルは、料理を一口も食べずにビールばかり飲んでいる彼氏に彼女が「ご飯も食べないと身体に悪いよ」と再三注意していたのに、彼氏のほうはというと、聞いているのかいないのかその言葉を無視し続け「大丈夫」と言い張り、ビールばかりを注文して飲み続けていたのだが、ついに彼女はその彼氏の態度にぶち切れ、いきなり席を立ったかと思うと、一言も残さず一人でぷいっと店を出て行ってしまった。その彼女の様子に隣のテーブルの私達は唖然としていたのだが、その後、何が起こったかというと、ずっと亭主関白面して不遜な態度だった彼氏が豹変し、急いで彼女の後をそそくさと追いかけて行ったのだった。私は「追いかけて行くくらいなら、最初から彼女の言うことを聞いときゃいいのに」と言ったら、翔太も「ほんまじゃ」と言った。また、あるときは、一言も会話せずに黙々と食べているカップルを見て、私は「なんかお葬式みたいってか、別れる間際かね」と口走ってしまい、翔太は慌てて「しっ」と私の口を塞いだ。デートなんだろうに、なんだかみんなおとなしい。私と翔太はいつもわぁわぁ言いながら、食べているのに。これってもしかして、私達二人は気が合うってことなのかもしれない、といろんなカップルを見ていて気付いた。


 翔太と話していると本当に彼のことをいいヤツなんだなぁと思う瞬間がある。それはある映画の感想を、二人であれやこれや話しこんでいたときのことである。その映画は主人公が超能力者であるが故に、いろいろな弊害が起き、他人に誤解や差別を受けながらもそれでも健気に人のために尽くし続けるという内容のものだった。

「この間見た映画、凄く気に入ったけん、あれから主人公の俳優さんのインタビューとかを雑誌で読んだんじゃ」

「ああ、あれ結構良かったよね」

「うん、そいでな、インタビューを読んどったらな、俳優さんにインタビューの人が『ご自分の性格はどうですか? 主人公に似ている部分はありますか?』って訊いとったんよ」

「うん、それで?」

「そしたら『いや、自分はここまで無償で人に尽くすことなんて出来ませんね』って言うとったんじゃ」

「なんじゃー、つまらん。ちっとも、ええ話じゃないじゃんか」

「じゃけどな、でも、この俳優さんがこの映画に出たいと思うた気持ちと、こんな映画を作りたいと思うた監督さんの気持ちって凄いあったかいもんがあるじゃんか。それを思うたらなんかジーンと来たんじゃ」

 私は翔太のその言葉を聞いて「ふふ」と笑った。でも、よくよく考えると、なんかこんな風に考えられる翔太って凄い、翔太こそあったかい人だよ、と本当は言いたかったのだが、照れくさくて言えなかった。照れくさくて言えなかったが、私は翔太の話が尽きるまで、ずっと黙って彼の話を聞いていた。


 大学の講義は相変わらず面白くもなんともなかったが、来年度の卒論ゼミの担当教授が決まった。そういう日常の小さな変化が、「ああ、もうすぐ四年なんだ、気楽な学生生活もあと一年しかないんだな」と実感せざるを得なかった。大きな変化といえば、いつも大学で一緒に過ごしていた志穂が、突然大学を辞めてしまったことだった。これには本当に驚かされた。志穂と一緒に行った去年の合コン以来、あの前原という一つ年上の男子学生と付き合っていたことは私も知っていたが、彼女から「妊娠したから、大学辞めて前原君と結婚する」と聞かされたときは、本当に腰が抜けるくらいびっくりした。大学でいつも一緒にいる私達のグループ、つまり合コンに参加したメンバーの中で、志穂はどうみたって晩熟というか、私達の中で一番最後に結婚するタイプなんだろうなと思っていたからである。その前原という彼も一見地味な感じだった。けれども、あの合コンの後の二人は、どう見ても熟練カップルのように見えたというか、普通、初対面の人間同士が何時間もアニメのことを夢中になって話しこんだりするだろうか? しかも真夜中に他人の部屋で遠慮もせずに。まったく、あのときの私といえば、彼らにとって邪魔なだけの存在だった。少しでも彼らは離れがたかったから、私をアッシーにしてでも、遠く離れた東広島までの道のりをこれまたランデブーにして、わざわざ彼の下宿に送って行かせたのだろうと思う。あの夜のときのことを思い出すと腹立たしいばかりだったが、こういう目出度い結果になったのだから、彼らのために少しでも私が役に立ったのなら、それはそれで喜ばなくちゃなと思うのだった。


 翔太はといえば、相変わらずの生活らしかった。けれども、意外にもウェイターの仕事が性に合っているらしく、朝早い新聞配達と両立するのが難しいので、新聞配達のほうをやめると言っていた。車両整備士の免許を取るために勉強のほうも頑張っていたが、毎日の長時間労働がたたって、下宿に帰るとすぐ眠りこけてしまい勉強がうまくはかどらないらしい。それにしても、翔太の話を聞いていると彼のドジぶりは今も健在らしく、ウェイターなのでやらなくてもいい皿洗いを手伝っていて、厨房でずっこけて皿を十枚割ったとか、障害物も何も無い平らな床のホールで足を絡ませて転んで客に笑われたとか、お釣りを間違えてそれに気付いたのが十五分も後だったので、客を捜すのが大変だったとか、山のように失敗談を聞かされた。

 そのお釣りを間違えて渡してしまったお客さんだが、実はこの話には続きがある。翔太は、しまった、お釣りを間違えた、と思った瞬間、客に金を返すために店をそのまま飛び出した。街の中を一時間近くも捜し歩き(後で店長にこっぴどく叱られたらしい)、百貨店の中でショッピングをしていた客をやっとのことで見つけ出した。お釣りを間違えられていたことにも気付かず、ショッピングを楽しんでいたその客は、ウェイターの恰好のまま百貨店の中に入り「すみませんでした!」と言って、顔も良く覚えていない青年からいきなりお金を差し出されたときには、さぞかしびっくりしたことだろう。しかしその客は、翔太のその行動に驚いたと同時に、えらく感心したらしいのである。客であったその初老の紳士は、翔太の行動を褒め称え、「君、良かったら、うちの会社を是非一度、訪問して欲しい」と言って、翔太に名刺を渡したのだという。名刺を見てびっくり、なんとその紳士は、大手自動車販売会社「ニッタ」の広島支社長だった。

「えー!? うそーっ!? マジでー!?」

「嘘じゃないって、マジマジ。ほれ、これ見てみんさい」

 そう言って翔太は私に貰った名刺を見せた。私は名刺を太陽に翳し、表にしたり裏にしたりして逐一調べた。その様子を見て翔太は笑った。

「そんなことしても、何も変わらんじゃろ」

「支社長 和気正孝 だって」

「うん」

 なんだか、どこかで聞いたような話だと思ったが、私と違って翔太は、是が非でもこのチャンスは生かすべきだと、私はそのとき、直感したのだった。


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