迷いと優しさ
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その日の夜はとても星空が綺麗だった。村長の屋敷の最上階で一人静かに天を仰ぎ、はるか遠くに見える白い石の建物を見つめていた。そこから森全体に響く風の精霊の音は、まるで音楽の演奏のようで、じっと聞き惚れるほどだ。
美しい風景と音を感じながらも、心の中には黒い影を落としていた。
――心の奥底にある恐怖心、トラウマ、自分自身の弱さ、自分の醜さ――
それらに今まで気がつかなかったわけではないけれど、ここに来て改めてそこから逃げてはいけないのだと――そう感じていた。
急に背後に気配を感じて、私は視線だけを背後に送った。
「――あ、やっぱりここにいたんですね」
木の扉を静かに押し開けて屋上に来たのは、黒髪の少女だった。私と目が合うとにこりと微笑んで歩みよってきた。
「お邪魔してもいいですか?」
「どうぞ」
微笑み返すと嬉しそうにまた笑い、リタは私の隣に腰掛けた。
「星――見てたんですか?」
「ああ……。あと、森の音を聞いていたよ」
「森の音――?」
私の返しに少女は首をかしげる。しかしすぐに思い出したように目を開いて言葉を続けた。
「もしかして、エンリン術で森の音が聞こえるんですか?」
「――そう。風の精霊の歌う音とでもいうのかな――。綺麗な演奏のように聞こえて……耳を奪われるんだ」
視線を森の奥に向けて囁くように説明する。それを聞いてリタが私を見上げていた。
「――そうなんですね……私には聞こえないから――ちょっと残念だなぁ……」
言いながら森に視線を送る少女に小さく微笑み返す。そうやってしばらく二人で沈黙していたが、唐突にリタの心音が変わる。わずかに寂しげな音色を感じて、私は少女に向き直った。それに気がつくとリタは私を見上げて、言いにくそうに一度だけ唇を噛んで言った。
「――クーフさん……。音が聞こえて――辛いことって――ないんですか……?」
思いがけない問いに私は言葉を失う。急にどうしてそんなことを――リタは問うのだろう――。
なんと返そうか迷ったのも束の間、リタは私から目線を外して小さく呟いた。
「――なんだか――さっきもそうですけど……時々、クーフさんが寂しそうに見えて……。実は、私の知らないところで……辛い思いをしてるんじゃないかなって……それを私は――理解できないんだろうなって思うと……なんだか、寂しいなって――思ったんです……」
その言葉は私の心に酷く響いた。自分でも気付かないうちに冷えきっていた手を、急に暖かく握られたような――そんな感覚だった。
「――そんなことないよ……。確かに――聞きたくない音を聞くこともあるけれど――」
そこまで言って、私は少女の手を左手でそっと握った。急なことで少女の指先が震える。
「――今みたいに――リタが気遣ってくれる優しい音を聞くこともできる。それだけで、私は――ありがたく思っているんだよ」
素直にリタの心遣いに感謝の意を述べると、リタはその藍色の瞳を大きくして私を見つめていた。少々照れたその表情は愛らしかった。その表情に微笑み返すと、恥ずかしそうに少女はうつむいた。口元は微笑んでいたけれど。
こうして二人でいられるだけで、心が安らぐ気がしていた。そう思わせるのは、きっと――彼女の心音故――いや、それ以上の気持ちが、私の中にあるからだろうか。
しかし――
それを望んでいいのかと、私の気持ちは揺らいでいた。触れる少女の手が暖かくて、もっと強く触れていいのか、私は躊躇っていた。そんな曖昧な私の手に、彼女は反抗することもなく、ただただ――受け止めてくれているのだ。
心の奥に、いつだったかガトンナフさんが言っていた言葉が思い出された。
(――自分の気持ちに正直であれ、クーフ。どこかで許せない気持ちがあるのはよく分かる。だが、その許せないお前ごと、好いてくれる人もいることを忘れるな――)
「リタ――」
呼びかければ、少女は惜しみない笑顔を浮かべて私を見つめてくる。
「――ありがとう」
こうやって、受け止めてくれる少女の暖かさに――私は救われているのだ。
「な、なんで急にお礼なんて言うんですか……?」
頬を赤らめながら、口の中でごもごもと呟く少女のその表情に、私はただ微笑み返した。
明日には――あの大陸に向けて出発する。
不安がないとえば嘘になるけれど――でも、今度こそ――
そうだ、今度こそ――今度こそ自分の手で、大切な人を守りきろう――
私は自分の決意を込めて、少女の手を少しだけ強く握りしめた。
翌朝、朝一で私たちは村長の屋敷を出ることにした。朝もやの出る早朝は人気も少なく、これから村が目覚めていくであろうことが伺えた。
「今度は闇族の大陸に行かれるのですか……あなたがたも大変ですなぁ」
村長はがさがさの手をさすりながら心配そうに言った。
「ここからしばらく更に南に下れば、船の出ているダヤの村に出ます。そこで船を寄せてもらえば大丈夫でしょう。ダヤの村あたりなら、闇族は外に出るものも少ないですからな」
「貴重な情報、助かりますわ。ありがとうございます」
村長の助言に、スランシャが上品に一礼した。
荷物をまとめ、いざ村を出ようとした時に、リタが村の奥を気にして視線を送っていた。
「――ダジトさん……」
少女の呼びかけに、ダジトは振り向いた。何も言わずとも、少女の表情でわかったのだろう。苦笑気味に軽く首を振る。
「――別れを知ったら、余計悲しむだろ」
「――別れを言われない方が、あたくしだったら悲しいわ」
思いがけず呟いたのはスランシャだった。それはダジトも予想外だったらしく、少々目を丸くして幼馴染を見つめていた。その視線を受けながら、水色の少女はその長いまつげを伏せてうっすらと微笑んで呟いた。
「……お別れを行ってもらえずに、知らないうちに帰られて……。次、いつ会えるのか……ううん、もう会えないのか……そんな不安にかられながら月日を過ごすのは、辛いものよ」
その言葉にダジトはわずかに唇をかんで無言だった。
――しかし、一つ息を吸って金髪の少年はきびすを返した。
「――ちょっと行ってくる」
そう言って村のある家に向かって歩き出す少年の背中に、私は微笑んで答えた。
「ああ、村の入口で待ってるよ」
私の言葉に返事をすることなく、少年は振り向かずに片手を上げて答えると、そのまま歩き出した。その背中を見守っていたリタがほっと小さくため息を付いた。
「ちょっと、ほっとした?」
私が小さく問うと、リタはちらと私を見上げて小さく頷いた。その隣でスランシャが小さく呟くように言った。
「――ルベモさん……。悲しむと思うけど、何も言われないよりはいいと思うの……」
「スランシャさんも……そういう経験があるんですか?」
同じく小声で問うリタに、スランシャは寂しげに微笑んでいた。
「昔ね……ダジトが――いつウレノの街にくるか……分からなくて不安だったから――」
そこまで言って、はっとしたようにスランシャは私の方を向く。リタだけに話しているつもりだったのだろうが、あいにく私もその場にいたものだから、聞かれたくない相手に話を聞かれて気まずかったのだろう。急に頬を赤らめて、村の入口に向かって歩き出した。
「あ、あたくし、先に村の入口で待機してますわ」
そう言ってそそくさと歩いてく少女を見て、私とリタは思わず顔を見合わせて微笑んでいた。
「スランシャさん、時々素直に話してくれるんですけど――ふふっ、やっぱり恥ずかしかったみたいですね」
「――やれやれ、私は邪魔者だったみたいだな」
私の言葉に少女はクスクスと笑っていた。その笑顔に私も思わずつられて笑っていた。
「クーフさん」
急にリタは私を見上げて、少しだけ寂しげな表情で首をかしげてみせた。
「クーフさんは……急に私の前から、いなくなったりしないでくださいね……?」
私は瞬きしていたに違いない。あっけにとられ、しばし口を開けずにいたが――私はなるべく優しく微笑んで見せた。
「――大丈夫だよ」
その言葉に、また黒髪の少女はあの笑顔を私に向けてくれるのだ。
――寧ろ――
突然失う怖さに怯えているのは……私の方なのに――。
そんな不安をかき消したくて、私は少女の頭に軽く手を乗せ撫でていた。




