氷の都市
自分の心音が落ち着いて、背後の少年のことを思い出すまでに時間はかからなかった。
「ああ、いけない……ダジトを起こさなきゃ……」
私は静かに息を吐き、左手を下ろしてリタを放す。見れば少女はまだ頬が赤い。私は思わず微笑んで、そんな彼女の頭をなでて立ち上がると、少し離れた所に倒れている金髪の少年のもとに駆け寄った。救助が早かったおかげで彼に怪我はない。少々魔力を吸い取られて、一時的に気を失っているようだ。
「ダジト、ダジト……大丈夫か?」
私の呼びかけに、少年はうめき声を薄く上げながらまぶたを開ける。倒れた体の上体を起き上がらせるのを手伝うと、少年は頭を押さえながら大きくため息を吐く。
「ああ……悪夢から目覚めた気分だぜ……」
「魔物に飲み込まれそうだったからね、無理もない。でも無事でよかった」
ダジトの様子を確認し、私はようやく安堵のため息を漏らす。ダジトは大きく息を吸い、瞳を大きく開くとゆっくりと立ち上がった。寝起きの癖なのだろうか、腕や肩を動かしながらぴょんぴょんと跳んで体の調子を整えている。その隣にリタもようやく近づいてきた。見ればいつの間に施していたのか、リタが作ったライトの魔法珠が浮いている。
「ダジトさん、大丈夫? 怪我はない?」
「ああ、ご覧のとおり、ピンピンしてるぜ」
少女の呼びかけに、ダジトはイシシ、と笑って応える。それを見て、リタの表情もほっと和らぐ。
「それにしても……一体何の魔物だったんでしょう……」
リタの言葉にダジトの表情が曇る。
「……オレ……飲み込まれそうになって感じたんだけど……なんか、寂しそうな感じだったぜ、あの魔物……。オレに……そばにいてほしいって……そう思っているような感じがした……」
その言葉に、私はさらに奥の道を見つめる。この先の道も恐らく、光も射さない、真っ暗で寒い孤独な洞窟だ。
「……ダジト、この先にちょっと行ってもいいかい?」
「え、クーフさん、大丈夫ですか? こんな魔物が出てきた場所なのに……」
私の言葉に、リタは不安げに問うが、ダジトは真剣な表情で、私を見、何か感じ取るものがあったのだろう。静かに頷いた。
「ああ、いいぜ……。なんか、オレもその先が気になってたんだ……」
彼の同意を得て、私は頷いた。そしてまだ不安げなリタに微笑む。
「大丈夫、もうあんな魔物は出ないと思うから」
私たちはさらに奥へと歩みを進めた。リタのライトが冷たい通路を明るく照らす。ダジトのそれと違い、暖かさはないものの明るさは先ほどより強い。もう魔物の気配もなくなり、しんとした通路に三人の足音だけが響いた。
行き止まりに到達するのはすぐだった。通路の奥を指差してダジトが口を開いた。
「ほら、ここが行き止まり……」
私は道の奥を見た。奥の行き止まりには木の柵があり、その柵の奥は底が暗くなっていた。その底の暗闇から、冷たい冷気が浸透してくる。おそらくダジトの言っていた下の階層に繋がっているという穴なのだろう。
「……あれ……なにか……引っかかってる……?」
行き止まりを見て、リタがそこを指さした。行き止まりの手前にある木の柵だ。見れば木の柵には、ぼろぼろになった布きれが引っかかっていた。
「あんな布……あったかな……?『この先注意』ってたて看板ならあった気がするけど……あ、クーフさん?」
ダジトが首をかしげている傍らで、私はその布から音を聞いて歩み寄った。響かせる音は切なげで寂しげだ。
「あ、クーフさん、あんまり近づくと危ないって! そこ崩れやすいから……」
忠告するダジトの言葉を聴きながら、私は柵のぎりぎりまで近づいた。その柵の奥にある穴もわずかに見える。真っ暗で何も見えないが、音の感じから思ったよりも深いことが分かる。
私はそっとその布切れに触れてみた。布に残っている音が私に訴えかけてくる。
「――ダジト……。あの魔物の原因はこの子だよ……」
私は後ろに振り向きながら呟いた。
「ここで亡くなった女性なんだろう……。かわいそうに……誰にも見つけてもらえず、ずっとここに一人で居たんだね……」
私の言葉に、ダジトもリタもそっと近づいてきた。よくよく見ると、ぼろぼろになった布切れはキレイな花がらをしていた。おそたらく女性の服の切れ端だ。柵の壊れ方から見て、柵に寄りかかったか何かしたときに、柵が壊れ、そのまま下に落ちたのだろう。
「……この服……ウレノの町の者かもな……。見覚えがある柄だ……」
私の右隣に来たダジトは、その布切れをなでるように触れて言う。
「そっか……。もしかしたら、オレのことを知っている人だったのかもな……。だからオレに……」
私は穴を見つめていた。この世界にいる魔物は、初めから魔物の類として存在していたものもいるが、そうでないものもいる。魔力が生まれつき強い精霊族や、古くからの生物種から派生したマテリアル族が、陰の気にやられて魔物化する場合もある。そしてこの女性のように、死んだ後に魔物になるものもいる。あれ程の数の魔物を、この女性が生み出していたのだとしたら、それだけ陰の感情に侵されてしまっていたのだろう。
気がつけば、私の左隣でリタが静かに呪文の暗誦を始めていた。
「……リタ?」
私が声をかけると、リタはその両手を目の前であわせ、それを開きながらきれいな光の珠を作り上げたところだった。キラキラと光の粉をこぼしながら輝くその光の珠からは、空間を清浄化する、高音域の音があふれていた。
「――きっと……あれだけの魔物を生み出していたほどだから……とってもとっても……辛かったんだろうなって……。せめて……この光が、まだここにある魂を癒せるなら……と思って……」
そういってリタがうつむきがちに言うと、ダジトもその片手を穴の方向に向けてかざした。見ればその手のひらも光っている。
「オレもやるよ。死者の滅びた肉体を聖なる炎で浄化するのが、炎の光の石を守護する、オレの勤めでもあるからな」
そういって、ダジトは手のひらに光の炎を作り上げた。二人の光の石の守護者は、そっとその光を足元の穴に投げ入れた。暗い暗い穴の底に、吸い込まれるように光が落ちていくと、底の方で水面が揺れるように光が揺れて消えた。それと同時に、空間にうっすらと漂っていたさびしげな音が消えた。そよ風のようにすうっと、何かが離れていく気配を感じて、私は息を吸った。
「……どうやら……いったみたいだね……」
私の言葉に、リタが顔を上げてわずかに微笑む。
「もう……さびしくないといいんですけど……」
「……大丈夫だよ」
私はリタの頭に手を置いて静かに答える。その隣でダジトが静かに、でも力強く答えた。
「ああ、あとでウレノの町のやつらにもオレから言っておくよ。この服がきっと手がかりになると思う」
そういって、ダジトは柵に引っかかっていたボロボロの布をそっと手に取った。
「それにしたって、よくあの魔物の数で、クーフさん、オレのこと助けてくれたよな!」
道を引き返し、ようやく本来行くべきだったウレノの町への道へ進む途中、思い出したようにダジトが言う。
寄り道にはなったものの、時間は予定通りといったところだった。ダジトが言うには、この地下トンネルを抜けるのも間もなく、夕方になる前には町につけるだろうとのことだった。このトンネルの魔物の気配もずっと少なくなっている。恐らく出口が近いのだ。
「ちょっと数多すぎて、オレも油断したよ。まさかあんな取り込まれるほどだと思ってなくてさ。なのにクーフさん、あれ倒しちゃったんだろ?……オレ、ちょっと尊敬するぜ」
そんなダジトの言葉に私が微笑んで返すと、金髪の少年は唐突に立ち止まって私に向き直って真面目に言う。
「お礼も言ってなかったよな。オレ、クーフさんに二度も命を救われてるからさ。マジありがとう」
彼の言葉に私が微笑んでいると、突然リタも私に向き直る。
「そういえば……私も……。あ、あの時助けてくれて、ありがとうございます……」
そういいながらリタの頬が若干赤くなったのを見て、唐突に私は思い出した。
そういえば――魔物の攻撃からリタを助けようとしたとき、私はとっさになんて行動をとったのだろう……。引き寄せて助けるだけならまだいい。しかしその後、私は安堵感から少女の頭を抱きしめていたのだ。そんな自分がした行動のことや、あの瞬間の気持ちなどを思い出して、少々気まずい気持ちになって頬をかいた。
「あ、ああ……」
どうやらリタは、あのときの私の行動を思い出して赤面しているのだろう。心音が響いて、彼女が動揺しているのが伝わってきて、余計に気まずい。
「へ? 何、リタも助けてもらったの? いつ?」
リタの言葉に、ダジトが目を丸くして問う。その言葉にリタはまだうつむいたまま、うん、まあ、と答えるのだが、その反応がいつもと様子がおかしいことに、ダジトが眉を寄せる。
「? ……なんだよ? なんでリタ、照れてんの?」
「てっ、照れてなんかないです!」
「え? て、いうか、リタが助けてもらったような場面なんてあった? ……あ、もしかしてオレがあの魔物に捕まっていた間のこと?」
これ以上質問されると、ボロがでそうだと思ったのだろう。リタは急に頭を上げて、私やダジトを追い抜いてさっさと歩き始める。
「そ、それより早く町に行きましょう! スランシャさんに会わないと!」
そんなリタを見て、ダジトが思わず口の端をゆがめて、笑いながらそれを追う。
「待てって! リタ、どんな間抜けしたんだよ?」
「間抜けじゃないですっ!」
いつまでも楽しそうなやり取りを見ながら、実は私も内心ほっとしていた。ボロが出そうなのは、本当はリタよりも自分だろうと思っていたから。
トンネルを抜けると、外もまた寒さは厳しかった。トンネルの中よりももしかしたら寒いかもしれない。冷たい風が吹き付けるために余計だ。しかしその風景はなかなか壮大だった。切り立った山々は雪で真っ白に染まり、その白い山に囲まれるように、水色の都市が眼下に広がっていたのだ。水色なのは、その都市の建物が氷で出来ているからなのだろうか。間もなく西日になりそうな日差しを受けて、キラキラと町全体が輝いて見えた。
「素敵な町……! あそこがウレノの町?」
町を見てリタが嬉しそうにダジトを見上げて言うと、ダジトは大きく頷いた。
「ああ、あの町だぜ! さ、後もう少しだ!」
ダジトを先頭に、私たちはウレノの町に足を進めた。
町に到着した私たちは、その美しさにさらに圧倒された。まるで水晶で作られたような建物ばかりで、キラキラと光を反射して町全体が宝石箱のようだった。基本は氷のように透明か、水色がかった白色をした石で作られた建物が多く、町の道や壁なども、基本的にその石で作られているようだった。恐らく、この地域で取れる氷の石なのだろう。道や壁の内部に、町の動力となる魔力の通る魔導線が通っており、それすらも装飾のようで美しい。町自体も非常に文化的に発達しているらしく、様々な店が目に入る。
「これはすごい……。こんな山の山頂にこれほど優れた都市があるとは、私も驚いたよ」
思わずそうため息を漏らすと、ダジトは隣でイシシと笑って見せる。
「だろ? オレもここに来るたびにこのきれいさには感心するんだ。町のやつらもいいやつらばっかだぜ」
「すっごい素敵……! 私、あちこち見てみたいなぁ……」
思わず、隣のリタはうっとりと町に見とれている。こういった反応はやはり女の子ならではだ。その反応にダジトが鼻をその手でさすりながら言う。
「よかったら、リタ、町案内してやるよ。でも、まずはオレ、あいつんとこ行って来る」
「スランシャさん……といったかな。この町の光の石の守護役の人だね」
私がそう返すと、ダジトは静かに頷く。先ほどまでの無邪気な表情は消え、真面目な面持ちで口を開く。
「あいつの家、この町の中心にあるんだ。すっごい家でさ、結構な権力あるんだぜ。ここの町ではあの神殿はすごい意味があるから……。あ、ひとっ走り行ってくる。何もないといいが……」
「へぇ……すごいんですね、私もお会いしてみたいな」
リタがいかにも楽しそうにいうと、ダジトは少々困ったような表情で頭をかく。
「いや、すぐには無理だって。アイツ何気にお嬢様だからさ。知らない人がイキナリ会うって出来ないんだよ。だから、先にオレが石の件も合わせて話しつけてくる。二人はちょっと待っててくれよ。あ、ここ宿屋だからさ、ここで待ち合わせな」
そう言うや否や、ダジトは私たちに手を振って、町の中心部へとかけていった。
「……ダジトさん、ホントいつも行動早いですよね……」
その様子を見て、リタがあっけにとられたように言う。
「まあ、行動が早いって言うのは、いいことじゃないかな」
「それはそうですけど……落ち着きがないって言うか……」
私の返しにそうブツブツいう少女を横目で見て、つい微笑んでしまう。
しかし私はすぐに気を取り直して、少女の傍らで町に気を広げ、気配を探す。瞳を閉じて音に集中すると、町のさまざまな音が聞こえる。町の人の音、商品の放つ音、魔導線に走る魔力の音……。いろいろ探ってはみるものの、例の人物の気配は今のところ感じない。ただ、町の中心に、気配の侵入を拒む結界がある。恐らく光の石がある神殿なのだろう。
ゆっくり瞳を開けると、斜め下から私を見上げるリタが真剣な表情をしていた。思わず私は瞬きして少女を見つめ返す。
「……どうしたの? リタ」
私の問いに、リタはちょっと微笑んで返す。
「クーフさん、また目を閉じてたから……。心音……聞いてたんですか?」
もうそこまで感じ取れるようになった少女に、内心感心した。心音の話はしていたが、私がいつ術を使っているかなど、教えたこともなかったのだから。私はわずかに微笑んで小声で返す。
「例のアニムスとやらの気配を探してみたんだ。今のところいないようだね……」
「そうですか……よかった」
私の言葉にリタは安心したように微笑んで見せた。私はその笑顔を見て、ついつられて微笑んでしまう。
「リタの笑顔、いつもかわいいよね」
何気なく言ったその発言は、またもリタの心音を大きく動揺させてしまう。たちまち頬を赤らめるリタを見て、またおかしくて笑ってしまった。
「な、なんで笑うんですか、クーフさん……」
「いや、失礼……。それよりリタ、私はちょっと町を散策してくるよ」
少女の余計な追撃をさけるために、私は話題を変えた。すると、リタは急に顔を輝かせて私の袖を掴んできた。
「あ、町を見てくるんですか! 私も行きたい!」
「え」
その反応に、私は一瞬考えてしまう。私が即座に答えられない間を突いて、リタが私を見上げながら首をかしげる。
「あれ? 行かないんですか?」
「あ、いや、行くよ。行くけど……リタも来るのかい?」
私の言葉にリタが戸惑う。
「え、行きたいです……けど……。え、クーフさん、一人で行くつもりだったんですか?」
「まぁ、そのつもりだったんだが……。ほら、ダジトが来た時、誰もここにいなかったら困るだろう?」
リタの問いに私がそう答えると、心底残念そうにリタがうなだれる。
「そうですけど……」
よくよく考えればこの少女が町を見てみたい、と思うのは想像にたやすいことだ。それなのに留守番させたら、この反応は当然のことだろう。私はそこまで気が回らなかった自分自身に反省した。
私はうなだれる少女の頭を軽くなでるように叩いた。リタがそっと目線を上げてくるのを見計らって、私は微笑んで見せた。
「リタ、じゃあちょっと一緒に散策してこようか」
「いいんですか?」
たちまち、リタの表情が明るくなる。
「あ、でもダジトさん……」
リタが一瞬迷うが、私はリタの手を引いて歩き出した。
「すぐ戻れば大丈夫だろう。それに彼の方が町には詳しい。私たちが散策している間に戻ってきたとしたら、きっと見つけてくれるよ」
それに、と私は内心考える。いつ何処であのアニムスとその片割れが現れるとも限らない。顔を知られている以上、リタを一人で置いておくのも危険だろう。
でもそれは言わずに、私とリタは町の中を歩き出した。せっかく少女が楽しげな心音でいるのに、それを邪魔するのは気が引けたのだ。
「いろいろ見て周るのって楽しいですね! 私こんな素敵な町、初めてだから!」
表情も心音も楽しそうな少女に、私もつい微笑んで答える。
「つかの間のデートになりそうだね」
言った後にまた後悔した。少女の心音がまた激しく動揺してしまったのだ。私は表情を悟られまいとうつむく少女に、心音が聞こえていない振りをして、店の中を覗くよう促してその場を取り繕っていた。気がつけば、大分日も傾いて夕暮れが迫っている時間だった。