過ぎた過ち
「アニマ……!」
気がついたリタが思わず立ち上がると、ほぼ同時にアニマがその両手を光らせていた。
「やめたほうがいい。いくら貴女の術でもそこで放てば彼を傷つける」
敵が攻撃体制であることは分かったが、落ち着き払って私は答えた。私の言葉に更に憎悪を膨らませ、妖艶な女は表情を歪ませて叫んでいた。
「さっさとシャドウ様から離れて! 傷つけたら容赦しないわ!」
「その心配はありませんよ」
しかしそう応える私の声など、女の耳には入っていないようだった。両手に発動した魔法の光が零れ落ちそうなほどで、すぐにでも発射できる状態であることは明白だった。仕方なく片手に壁の術を準備しながら、私は隣で構えを取るリタに視線を向けた。
「リタ、私の後ろに居て」
小さく呟く指示に少女が動いたのを確認した後、私は黒い少年の肩にそっと手を乗せた。
途端、息を飲むような悲鳴の音とともに、ヒステリックな金切り声が響いた。
「ひっ……や、やめて! シャドウ様に手を出さないで!」
怒りと不安で取り乱す女性を他所に、私は隣の少年の肩を優しく撫でた。
「君には、君を心配してくれる人が他にもいる。私たちには攻撃的だが、彼女は君を大切に思っていることは間違いない。君が大切にしたかった人と同じように、アニマも君を大切にしているんじゃないのかい?」
優しく囁くように声をかければ、一瞬心を熱く震わせる音が少年から響いた。
「……アニマ……アニムス……」
私達にとっては憎むべき敵ではあるが、今のこの少年にとっては大事な存在になるのだろうと思った。今ここでこのアニマを仕留めた方がいいのは分かっている。だがシャドウと呼ばれるこの少年のことを思えば、それは厳しい選択だった。
一瞬迷う間に、黒い少年はポツリと呟いた。
「……二人は……僕の大事な仲間だ……。レンファと……同じように……」
その回答で十分だった。私は少年の肩を今度は力を込めて背中を押すように撫でた。
「間違ったことを、次はしちゃダメだ。正しい道で大切な人を守るんだ」
私の言葉が、幼い少年にどう響いたのかはわからない。だが私の言葉を静かに心に沈めていく音はよく響いた。彼はまだ幼すぎる。この重すぎる失敗を次はしないように――そう願わずにはいられなかった。
私はヒステリックに声を上げる女を見た。怒りに目を見開く表情のアニマは、正直放っておきたい相手ではない。だが、今は少年のことを優先してやりたかった。
「アニマ」
呼びかければ、あの青い瞳が憎悪に黒くそまり、異様に爛々として私を睨みつける。
「光の石を持っているだろう。もしくは、その場所を知っている、そうだろう?」
私の呼びかけに、女は歯ぎしりするように口を開き、怒りに全身を震わせる。女は勢いよく指を私に向けて突きつけた。
「光の石をシャドウ様の交換条件に使おうって言うのね……! たかが精霊族の分際でこのワタクシに指図するなど……!」
怒り狂う女に、静かにだが声を張って私は答えた。
「光の石がどれだけ危険なものか、それはあなた達のほうがよく知っている。それが今目の前にあるこの大惨事を招いた。光の石は、守るべき者が守って初めて安定する。間違った使い方をしてはいけない。石を光の巫女に返すんだ」
「黙れ! 石は……あの秘石はシャドウ様のものよ!!」
「アニマ」
怒り狂う女の声を、不思議と少年の声はあっさりと打ち消した。幼い声色の中に鋭い響きを持って制止するその声には、威厳があった。
たちまち、怒り狂っていた女が息を飲み沈黙した。水を打ったように辺りはしんとした。そんな耳が痛くなるような沈黙の中、再び少年の声が響いた。
「光の石を……元の持ち主に返すんだ」
その言葉に、衝撃を受けたのはもちろんアニマだ。
「な、何をおっしゃいます、シャドウ様……! 光の石はシャドウ様のために重要な――」
「いいから戻すんだ!」
鋭い声に射すくめられ、アニマはへなへなとその場に崩れ落ちた。呆然としたその表情からは、自分の主人が何を言っているのか理解できない、そんな様子が見て取れた。
それに構わず、私は少年の肩を優しく叩いて顔を覗き込んだ。
「ありがとう、私達の言うことをわかってくれて」
私の言葉に、少年は泣きはらした大きな瞳でこちらを見た。まだ弱々しさが残ってはいたが、響かせる音は変わらずどっしりとした力強さがあった。
「……これでいいんだろう……? 僕のしたことが間違っていたんだ……。だから……レンファは……」
また肩を震わせる少年に、私は力強くその肩を抱きしめた。
「強大な力は取り返しの付かない事態を招く。力の使い方を間違ってはいけない」
私の言葉に少年はじっと私を見た。視線をそらさずに私は続けた。
「君の力は強大すぎる。君の大切な人は、君に大切なことを教えてくれた。その力を間違った使い方をしてはいけないと。間違った使い方は……こういう結果を招くんだと……。もう君は間違ったやり方はしないはずだ。レンファさんが、命をかけて君に教えてくれたのだから」
またあの大きな瞳から大粒の涙が溢れだした。聞くのも辛いあの音が耳につく。私はうつむいた少年の頭をそっとなでた。
地面に何かが落ちる音がして、我に返った。それはリタも同じだったようで、私達の目線は同じ所を向いていた。視線の先には光り輝くあの奇妙な雫型の石が転がっていた。全体が金に輝く光の石、恐らくこれが光の力を一番強く持つ石、光・光の石なのだろう。
「石よ、返すわ。だからシャドウ様をはやく開放して!」
半ば投げやりになった女の声が響いた。
「あと一つあるはずだ。光の風の石が……」
言いかけた時、少年が私に手を突き出した。見れば少年の小さな掌には黄色に輝く雫型の石があった。光の風の石だ。
「君たちに返せば、持ち主に戻るのか?」
鼻をすする少年に、光・光の石を拾い上げたばかりのリタがすかさず答えた。
「この石は私が守護するもの……。その石はこのクーフさんが……。だから大丈夫、持ち主に戻ったわ」
その言葉に黒い少年は肩を落とすような素振りでホッとしたように見えた。
「もう石はいらない。叔父の指示はもう聞かない。いや……もう……いない……か……」
その言葉に一瞬ぞっとしたのも束の間、少年は静かに立ち上がり、しゃがみ込んだ私と同じ目線で答えた。
「……ありがとう……。僕の声をわかってくれて……」
そう呟くように言うと、少年はそのままくぼんだ地面を登り、アニマの元へと歩いて行った。それに気がついたアニマが泣きすがるように少年に抱きついて、安堵の表情を浮べていた。
「……アニマ……私たちにはあんなに怖い顔するのに、あの子に対してはホントお母さんみたい……」
隣でポツリと呟くリタの言葉に、私は半分同感だった。残り半分は、母親というよりは、立場が逆のように思えた。シャドウが彼女たちにとって、まるで親のような存在にみえたのだ。年端もいかないあの少年に従う奇妙な力を持つ男女、本当に彼らは何者なのだろうか……そして、今先ほど話していたあの少年も−−−−
そんなことを思っていると、再びあの妖艶な女はこちらに鋭い眼光を向けた。
「おのれ、シャドウ様をたぶらかして石を手に入れるとは……! 覚悟なさい!」
と、その手に魔法発動の準備をしようとした直後、黒い少年がその手を掴んでいた。
「彼らに手を出すな」
しかし、そんな言葉で女の怒りの衝動が収まる訳がなかった。懇願するような表情で女は少年を見た。
「シャドウ様……! アイツらはワタクシ達の邪魔をする邪魔者です! しいてはシャドウ様の敵でもありますわ! 即刻処分します!」
「敵じゃない。彼らは……」
少年の言葉はアニマには効果覿面だった。たちまちしゅんとしてうなだれる女はまるで子供のようだった。
「石はもういい……。もう……こんなことはしたくないんだ」
どこか悲痛な様子で呟く少年に、アニマはたちまち表情を変え、優しく微笑んですらいた。
「シャドウ様、とてもお疲れのご様子……。どうか休んでください」
女に連れ添われるように、私達に背を向けて黒い少年は歩き始めた。数歩進んだところだろうか。唐突に振り向き、少年は私とリタを見つめ、声を上げた。
「石を守護する者……。また、会えるか?」
思わず私とリタは目を合わせていた。思いがけない言葉に驚くアニマを他所に、微笑んだのはリタの方だった。
「きっと会えるよ! 会おうと思えば必ず!」
その言葉に、初めて黒い少年は微笑んだ。僅かではあったが口の端を持ち上げて、悲しみの中、かろうじて――。それはまるで絶望の淵に一つだけ残った希望の様に思えた。
完全に二人の姿が見えなくなったところで、私たちは思わず安堵のため息をついた。
「シャドウ……あんな小さな子供だったなんて……」
思わずそこから先の言葉を無くす少女に、私も同感だった。ただの石を奪っているだけの泥棒かと思っていたが、その背景は思った以上に複雑だ。彼の叔父が石を奪わせていた様子だが、その叔父もおそらくここで消えてしまったのだろう。光の石泥棒の真相がはっきりしないままだが、一先ず計画は失敗したのだということだけはわかった。一人の罪も無き少女や、シャドウの叔父ら、たくさんの犠牲を出して――
私は息を吸い、少女の肩を叩いて微笑んでみせた。
「急ごう、ダジトやスランシャのことも心配だ」