自責の音
白い空間に佇む、その黒い人影は酷く際立って見えた。辺り一面は真っ白で強すぎる光の気配、この空間はまさに聖なるもの以外の生き物の存在を許さないように思えた。そう、ここは……生き物が存在してはいけない――そんな聖なる場所であるかのように。
そんな圧倒的な威圧感を感じる空間でただ一人、その人物だけはその光の力に消されることなく、しっかりとそこに存在していたのだ。真っ白な空間に、まるでただ一人残された孤高な――しかし、孤独な存在のように。
そんな黒い点のような存在に気がついたのは、つい先程だった。震える奇妙な音を頼りに、何処までも続く白い通路を、私と黒髪の少女、リタは歩いていた。綺麗な鈴がなるような高音域の光の音は、決してうるさくはなかったが嫌に空間を支配していた。その音の裏に静かに鳴り響く奇妙な音は、波打つ水に似て規則的で、そしてどこか不安定だった。その音が徐々に大きくなった時、急に目の前が開けた。球状に中をえぐられたような空間は、どこかの祭壇かと一瞬見間違えた。しかし、そこは足元が細かな砂で、人工的に作られたものには思えなかった。白い建物の中であるにもかかわらず、だ。
「……誰か……いませんか?」
隣の少女が囁くように言う声に、私の視線は空間の中心に注がれた。そしてそこに黒い点のような人影を見つけたのだ。
遠いうえ、空間を漂う霧のような光の魔力が邪魔をして、その存在の明確な姿は見えなかった。背丈から見て少年だろうか。この距離でもビリビリと肌をさす魔力に私は思わず顔をしかめた。発している魔力は彼の強大な存在能力を伝えていた。しかしその強さとは裏腹に、酷く心音は弱々しく悲しげに揺らめいて聞こえた。その存在を揺るがしそうなほどに不安定に揺らめく音――
その音は私の中に、黒い記憶を手繰り寄せた。脳裏に浮かんだのはあの黒い森だ。ナナリーを失ったあの絶望の森――
何かを考えるよりも先に、黒い少年の心音はすぐに私にあの時の感覚を呼び起こしていた。思わず私は唇を噛んだ。
「……あの人……誰でしょう……?」
私の隣で黒髪の少女が怪訝そうに呟いた。行くべきかどうか、一瞬迷いも生じたが、それよりも放っておきたくない心情のほうが勝っていた。私は無言で彼女の手を取ると、静かにその白い空間に足を踏み入れた。
「あ、ク、クーフさん……?」
戸惑いがちな少女の声を聞きながら、私は静かに白い空間を歩き出していた。足の裏に伝わる感触は砕けて砂化した細かな石の残骸。まるで初めから砂場であったかのような、小さな石のつぶを踏みしめながら陥没した白い空間を進む。
漂う光の霧はそれだけで強すぎる光の魔力だということはすぐにわかった。普通の人間が触れたなら、きっと身体を壊してしまうほどの、清らかすぎる力だ。それに構わず、私はリタの手を引きながら静かに黒い影に近づいていった。
白い霧は近づくにつれて少しずつ薄れて、その黒い影の姿が明確に見えてきた。地面にしゃがみ込みうなだれるその影はやはり少年だった。年の頃は十歳前後といったところだろうか、黒い髪を逆立てて、光沢のある黒い服に身を包んだ少年は、痛々しい心音を震わせて、ただ一人、この空間にうずくまっていた。
「――クーフさん、この人は……」
リタが小声で問いかける言葉に、私は無言で頷いてそのまま彼女の手を離す。リタの心音が、私を案じているのはすぐにわかった。黒い少年――光の神パネスが言っていたあの少年が思い出されたのだろう。それはリタだけでなく、私もそうだった。きっとこの少年が、アニマやアニムスと繋がりのあるあの少年……「シャドウ」なのだろう。普通なら、当然警戒すべきはずだ。しかし――
とても今のこの少年が攻撃をしてくるとは思えなかった。
「リタ、大丈夫。……ここで待っていて」
私はそう声をかけ、更に少年に静かに歩み寄った。
「…………」
少年が私達に気付くには十分すぎる距離だった。すぐ隣に立っているにも関わらず、黒い少年は身動き一つせずにただただそこにうずくまっていた。その姿が――痛々しいほど追い込まれている――音だけではなく、私にはそう見えた。
私は静かにしゃがみ込んだ。その少年の心の音に耳を澄ませるかのように。
「――……」
声にならないほどの小ささで少年は何かを呟いていた。近づけば近づくほどに分かる。その心音が壊れそうな音で必死に震えて何かを求めている叫びであることが――
思わずその音に自分の心音も共鳴していた。
(失いたくない――どうしてきみが――自分のせいだ――自分が――力がなかったばっかりに――)
思い出したくないあの音が――心の奥から沸き上がっていた。ナナリーを目の前で死なせてしまった時の、あの絶望の音が――
自分を落ち着かせるように深く息を吸うと、私はそのままそっと少年に声をかけた。
「……大切な……人……だった……?」
音が震えた。絶望の淵に真っ暗な闇だけを見つめているあの音が、ふっと優しい音に変わる。この音は――大切な人を思うやわらかな音だ。瞳を閉じ、リタの姿が目に浮かぶ。すぐ後ろで私を見つめているあの黒髪の少女。
――失いたくない。
私の音とよく似た音が少年からも響いた。
背筋がぞくりとした。彼の発したその音はまるで歯車の狂ったオルゴールのように、ギシギシと壊れそうなノイズ混じりの狂った音をはらんでいた。人の発する音なのだが、いろんな音がごちゃ混ぜで、やわらかなはずの音の背後に、歪んだ感情の音が響いていた。そうだ……失いたくなかったのだ。本当なら――
その音が、現実を拒んでいる音であることが、痛いほど私には聞こえていた。受け入れたくない現実が、この幼い少年の双肩にのしかかってしまったのだ。
恐らく、彼の望まない結末が……この空間にあったのだ。そしてその現実を――つい今しがた、目の前に叩きつけられたのだ。嫌というほど残酷な現実が――。
「レンファ……」
かろうじて紡ぎだした言葉と共に、少年の瞳から大粒の粒がこぼれた。こらえきれなかった感情が、心音が、その体からようやくポロポロと溢れだした。壊れそうな歯車が、それに構わず回りだした、そんな音も響いた。
そっと少年の肩に手をおき、私はその小さな身体を引き寄せた。
「……もう……いないのか……レンファ……君は……」
悲痛な言葉に、思わず私の胸も締め付けられる。小さく震えだしたその肩をそっと抱きしめてやると、徐々にその震えが大きくなっていく。
「クーフさん……」
後ろにいたリタが私の隣に歩み寄ってきていた。そっと顔を上げ少女を見上げると、黒髪の少女まで悲しそうな顔でその心音を震わせていた。
「……つらい思いを……したんだ……。私と同じ……いや――私やリタと同じように……大切な人を……ここで……」
それ以上を言うのは辛かった。言葉を続ければ左腕で抱き寄せた少年が、もっとその心音を悲しげに震わせることがわかっていたから――
「そんな……」
言いながら、リタまでも私と同じようにしゃがみ込んでいた。
「こんな……こんなことって……だって……まだ……この子――こんなに小さいのに……」
言いながら、影のような少年を覗きこむリタにも、その悲しみが伝染しているのがわかった。あの時の――大切な人を失ったあの感覚が、私にもリタにも引き寄せられたのだ。
何も言うことなく、リタがその腕を伸ばし、黒髪の少年を抱きしめていた。言葉なく肩を震わせる少年の頬からぽたぽたと雫が垂れて白い砂をわずかに湿らせていく。
悲しみに気持ちが支配されないよう、私は深く息を吸った。目の前の少年は――本来ならば私達と敵対するはずの人物なのだろう。しかし――こんなにも痛々しい姿をした少年を責める気にはなれなかった。
「助けたかったんだ……」
かろうじて紡いだ言葉に、リタが少年の肩を抱きしめたまま頷く。
「治らない……病気だって……長くは生きられない……だから……」
悲しみに心を支配されたまま言葉を紡ぐ少年に、リタも苦しげに頷いていた。しかし――
「だから……力ある石を……レンファに……」
その言葉に思わずリタも私も呼吸が止まる。抱きしめていたその手が静かに離れて、リタは小さな少年のその顔を恐る恐る見つめた。