ナナリー
*****
「クーフさん……っ!」
部屋に案内されるなり、私はベッドに駆け寄った。クーフさんはベッドに横たわったままだった。まだ動けないようだけど、いつものあの優しい笑顔を浮かべて目を合わせてくれる彼に、思わず気持ちが熱くなる。よかった――生きていてくれて……。
彼の枕元にしゃがみ込むようにして顔を寄せると、クーフさんが唇を動かした。
「リタ――無事でよかった」
その言葉にまた胸が熱くなる。そんな、私の事なんかより、クーフさん自身のほうが大変だったのに……。思わず瞳も熱くなる。
「クーフさん、よかったです、目が覚めて――。もう起きないんじゃないかと……」
思わず声が湿っぽくなる私に、クーフさんはまたあの笑顔を見せてくれる。優しく微笑む表情に嬉しさと――やっぱり彼が好き、という気持ちが入り混じって鼓動が速くなる。
そんな気持ちで胸いっぱいになっていたのに、唐突にミズミが背後から声をかける。
「だから殺しはしないし、死にはしないから安心しろと言ったろう」
「できませんっ! ここまで傷つけるなんて……あんまりです!」
私は勢いよく振り返って、背後の闇族王をキッと睨む。私と目が合うと、ミズミはあからさまに呆れたような素振りをして肩を落とす。
「やれやれ、怪我は明日には治っているって言っているのに」
「そういう問題じゃないです!」
ミズミの言葉に私はカチンときて言い返す。またため息をつく王を見て、クーフさんが小さく笑っていた。その様子に私はホッとする。
「クーフさん、まだ痛いところはないですか? 私、治癒魔法使いますから……」
そっと彼の頬に触れながら言うと、クーフさんはあの深い青色の瞳で私を見つめて微笑む。とっても優しい表情――ああ、相変わらず私はこの顔に弱い。
「ありがとう、リタ。大丈夫だよ」
「オレも一応怪我人なんだがな。オレには気遣いナシか?」
ミズミが笑いを含んだ声で呟くのを聞いて、私は頬を膨らます。
「ミズミの傷はたいしたことないもん! クーフさんはあんなに血を流して――ホントに死ぬところだったんだから! もう、絶対ミズミはクーフさんと戦っちゃダメ!」
背後のミズミを睨みながら言うと、クーフさんが声をかける。
「知らぬ間にリタ、ミズミと仲良くなっていたんだね」
「なっ――仲良くなんかないです!」
慌てて振り返ると、クーフさんがにこにこと微笑んでいた。
「この城に着てから散々オレに手間かけさせといて――つれないな、リタ」
ミズミまでも、からかい気味にそんなことを言う。
「食事も着替えも、オレが手伝ってやったじゃないか。昨日なんか寝る時でさえ――」
「なっ、なっ、ち、違います! ミズミのばかっ!」
慌てて私はミズミの口を塞ごうと腕を伸ばす。それを上半身だけでひらりひらりとかわしながら、彼はまだ言葉を続けようとする。
「昨日のことまで、他人に言っていいのかねぇ――」
「ダメっ! クーフさんの前で何言ってるんですか!」
別に食事の時も寝る時も、なんとか脱走できないかと苦戦していただけで、別に何かあったわけではもちろんない。ただ、それを毎回ミズミに阻止されて、部屋まで担がれて戻らされるという、そんな逃走劇をここに来てから繰り返していたわけなのだ。
でも――そんな言い方されたら、クーフさんに余計な誤解を招いちゃうじゃない!
そう思って私は慌ててミズミの発言を止めようとした。でもあんなに強いミズミに私が敵うはずもなく、止めようとする腕はすべてかわされて空を切る。
「はははっ――」
思いがけずクーフさんが笑った。私とミズミの様子を見て、珍しく声を上げて笑っていた。その様子に、ちょっと私は新鮮な気分だった。ああ、クーフさんも、こんなふうに無邪気に笑うこともあるんだ――。笑われたのは恥ずかしいけど。
「それより、大事な話があるだろう」
ミズミは急に真面目な口調でそう呟いた。まだ表情は穏やかだったけれど、その底に真剣な色を見て、私は口を閉じる。
「リタもクーフも……ナナリーのことを聞きたいんじゃなかったのか」
その言葉に私は思わずはっとして動きが止まる。背後のクーフさんが気になるけど、なんだか急にその顔が見れなくなる。
――そうだ、どうして――クーフさんがその名を知っているんだろう――。
私が沈黙していると、クーフさんも沈黙したまま口を開かなかった。そんな中、ミズミだけが動いて静かに扉に歩み寄り、そのままドアノブに手をかける。
「あ、ミズミ――」
私が慌てて声をかけると、彼はちらと目線だけを私に送って静かに微笑した。
「大事な話は当人たちだけでするものだ。邪魔者は去るぜ。じゃあな」
そう言って部屋の扉は静かに閉められた。
――とは言われても――
私はどこから話を切り出そうか困っていた。
そんな私の背後で、優しいため息が聞こえた。
「リタ」
振り向けば、予想通りあの優しい瞳が私を見つめていた。
「――聞かせてくれないか? リタが……一体ナナリーとどういう関係なのか――」
深い青色の瞳が、どこか切なげに見えた。クーフさんがどうして――その名前を知っているのか気になるけれど――私は深く息を吸い、彼の質問に答えた。
「ナナリーというのは…………」
深く沈む気持ちを、私はなんとかこらえて言葉を続けた――。
薄暗い灰色の部屋の中、私は闇族王と無言のまま向き合っていた。彼に頬を両手で囚われたまま、キスでもしそうなその至近距離で、私は彼の瞳をじっと見つめていた。緑色に輝くその瞳はどこか憂いだ感じがあって、心なしかその声の響きにも沈んだ空気を感じ取る。
でも――
その王の表情と声色は、私に沈んでいた暗い感情を引き起こした。どうして――この人まで悲しげな雰囲気でいるのだろう――。しゃべろうとして唇が震えた。
「……どうして……どうして貴方が……母の名前を知っているんですか……?」
かろうじて唇から漏れた言葉は、自分でも驚くほど震えていた。
「もしかして……母を殺したのは……貴方なんですか……?」
言いながら、瞳が熱くなっているのがわかる。耐え切れなくなって瞳からこぼれ落ちた涙は、私の頬を押さえる王の手のひらに伝わった。視界がぼやけて表情がかすむが、その先で彼も悲しげな表情をしている気がした。
そっと、涙をぬぐう指が頬をなでた。その仕草があまりに優しくて、私は二つ目の涙をこぼしていた。
「――そうか……お前、アイツの娘なのか――」
優しい声で囁く王は、また私の頬を優しく撫でながらゆっくりとその手を離した。私はうつむいて、涙を自分の手で拭う。
脳裏に浮かぶのは優しい母の姿だった。ずっとずっと小さい時だったけれど、いつも幸せで、私と一緒に笑ってくれた母。その笑顔しか思い出せないくらい、私が本当に小さい時に――母は亡くなってしまったのだ。あの頃は幼くてよくわからなかったけれど、母が亡くなって、家が急に寂しくなったことは鮮明に覚えている。明るかった姉が、急に違う国にまで出向いて勉強すると言いだしたのも、私のためだったと後で知った。母も父もいない私たちが、生きていけるようにと――
「お前、ナナリーは闇族に殺されたことを知っているのか」
彼の言葉に私は思わず顔を上げた。まだ視界は霞んでいたけれど、王は私の方は見ずに目線を窓の外に投げていた。
「おばあちゃんが――術で――母の身のことを知りました――でも、誰が……母を殺したのかまでは……」
私は言葉が震えてうまくしゃべれない。溢れてくる涙を抑えるだけでいっぱいだった。沈黙をわずかに挟んで、王のため息が聞こえた。
「――安心しろ、ナナリーを殺したのはオレじゃない。ただ――彼女が死んだのは、オレに責任がないわけじゃないから――」
どこが自責の念を感じさせる口調だった。私は心にずっと秘めていた疑問を、初めて赤の他人に投げかけた。
「母は――この大陸でどうして――亡くなったんですか?」
ずっとずっと謎だったのだ。どうしてこの大陸で、急に母が亡くなったのか――
そして、ずっと不安だったのだ。母が――この地でどれだけの仕打ちを受けて亡くなったのか――。闇族のことを知れば知るほど、母がどんな最後を迎えたのか、不安で仕方なかった。闇族がどんな種族なのかを聞いて、静かな最期だった訳がないだろうとすぐに思った。
どんな死に方をしたんだろう――亡骸はどうなったのだろう――そして――どうしてそんな危険な大陸に、足を踏み入れてしまったのだろう――。
そんな疑問が、ずっとずっと、私たち家族の心の深い部分に影を落としていたのだ。
王は私の方を見ずに、静かに口を開いた。
「――オレも詳しいことまではわからない……だが――この大陸でさまよっているところを、強族に襲われて命を落としたことだけは、確かだ」
その言葉に私はまた涙がはらはらと落ちる。
「――だ……れなんですか――母を……殺したのは――」
震える声は本当にか細くて、ちゃんと彼に届いているかも怪しい大きさだった。鼻をすする音だけが部屋に響いて、沈黙が流れていた。
息を吐く音がして、低い声が返って来た。
「――もうこの世にはいない。ナナリーを殺した強族はみんな死んだ」
思いがけない言葉に、私は瞳を開いた。王は続けた。
「誰かが――彼女が闇族の手に渡らないように、助けていたのだ。――残念ながら……助けきれなかったようだがな……。だが、亡骸はきちんと埋葬されている」
その言葉に私が彼の方を向くと、王はその綺麗な瞳を細めて優しい表情をしていた。
「ナナリーの亡骸は――日の国にある」
「日の国……? ――お父さんの――国に――?」
私は耳を疑った。
母が――父と同じ国に――眠っている――?
心の底にあった母の境遇を悲しむ気持ちが――救われた気がした。
でも、そんなことって――本当だろうか――
思わずそんな疑問が浮かぶ私の気持ちが、まるでわかったかのように王は言葉を続けた。
「後で日の国に確認に行くといい。あの国なら闇族王の客だといえば、安全に案内してもらえるはずだ」
そう言って、彼は静かに私に背を向けた。それに気がついて私は慌てて声をかける。
「――待って! もっと……母のことを聞かせてください――! どうして……貴方はそんなに母のことに詳しいんですか? 一体母は貴方とどういう関係が――」
闇族王は扉の前で立ち止まって、静かに息を吸った。
「いずれ話す時が来る。それに――」
と、王はそこで私の方を振り向いた。
「あの――エンリン術師……。――アイツ、ナナリーに関連しているはずだ」
私は思考が止まった。
クーフさんが――母に――関連している――?
そんなまさか――
困惑し、動けない私に王は優しく囁いた。
「今はおとなしくここで待っていろ。いずれお前の連れがこの城に来る」
言い残し、彼はそのまま扉をしめて出ていった。
***
私たちの説明を受けて、光の神は闇の神と同じようにその心を沈めていた。
「そうか……自然に生まれ出たのは彼らだけ……。――それで……こんなことを……したのだな……」
責めるでも呟くでもない、誰に向かっての言葉なのかも曖昧なほど、自然と漏れたその言葉に闇の神は静かに頷いていた。
「大地に沈んだ邪悪な力が解放されれば、アイツも解放される――。そう思ったら、こいつらの提案に思わずのってしまったのだ……」
若干の自責の念を感じさせつつ、闇の神が呟く。
「――どういうことなのですか……? やはり――私たちの提案は……間違っていたのですか……」
思わず不安になって言葉をかける私に、光の神が優しく微笑んだ。
「君たちの、アイツ……いや、母を思う気持ちは間違っていない。ただ――」
と、光の神は一瞬だったが闇の神の音を聞く。おそらく視線を向けたのだ。
「……それを――神が手助けしてしまった……それが問題なだけだ」
その言葉に思わず私たちは闇の神に耳を向ける。そんな私たちに背を向けるようにして、闇の神は音すら沈黙して何も答えない。
「――どうして問題なのですか? 闇の神とて、母を助けようと、ただそれだけを願って行動したまでのこと――」
カジャが彼をかばうように発言すると、思いがけず光の神は優しい音を奏でた。
「ああ、彼は悪くはない……「神」としての力がなければ……な」
どことなく寂しい響きを聞いて、私もカジャも沈黙した。
その言葉の裏にどれだけの重みがあるのだろう。神という強大な存在――誰もそこに到達できない程の、それはまるでその力そのものであるかのような存在だ。闇の神は、それこそ闇そのもののような存在であるし、光の神はまるで太陽のような存在だ。しかし、その力ゆえに、きっと闇の神は――いや、光の神も苦しんでいる――。
それが私たちには伝わっていた。
「――で、パネス……。お前は一体どうするべきだと――思っているんだ」
闇の神がその重たい口を開いた。その言葉にひどく心がざわついた。私とカジャは思わず静かに音を抑える。そんな私たちに気を使ったのか、光の神は静かな声で、しかしはっきりと言った。
「――あの闇の一族を、封印すべきだと思う」
「封印――だと?」
闇の神が声を荒げた。
「封印とは――また大地の奥底に沈めるというのか……!? ――ふざけるな!」
思わずその音に私は身をこわばらせる。闇の神が怒るその様は、大きな闇が口を開くようで恐怖感を覚えた。しかしその空っぽな闇の力とは反対に、彼自身の音は激しく燃えるように鳴り響いていた。
「お前、本気で言っているのか!? そんなことをしたらまた――!」
「落ち着けよ、誰も元のさやに収めようとは言っていない」
なだめるように静かに、冷静な声が響いた。光の神の言葉に怒りはそのままに闇の神は沈黙する。光の神は続けた。
「あの闇の一族がこの世界全体に広がるのを防ぐだけだ。この大陸から出られないように、あの者たちに制限をかける。それだけだ。もちろん、この大陸以上に外に出られない分、大地に沈んだあの力が解放される速度は落ちるかもしれない。でも、そうでもしなければこの世界すべてがこの闇の一族で埋められてしまう――」
その言葉は私に響いた。そしてそれに共鳴するように、私の中の闇の力が揺らいだ。
――ああ、母の思いが響いているのだ。
(――母は――そうなることを望んでいない――世界にこの力が広がることを――避けたいと願っている――)
思わず感じ取った思いをそのまま音に乗せると、それはカジャにも、そして闇の神にも光の神にも響いた。
***