第四幕
「ねえ、良かったら施設の中を案内してくれないかな」
昼休み、サンドイッチ二つと牛乳を食べ終えた僕は、隣の席で静かに本を読んでいた彼女に話しかけた。
アリスさんはこちらをちらりと見て、眉をひそめる。
「……随分と小食なのね。それで足りるの?」
「逆に聞くけれど、その細い体のどこにそんなに大量の食料が入るんだい?」
アリスさんの机の上にはきれいに風呂敷で包まれた重箱が乗っかっている。中はもちろん、空だった。
鳥を軽く揚げて甘辛く煮つけたもの、大量のホットサンド、タコとキュウリを酢でしめたもの、ウインナーや玉ねぎをケチャップでいためたもの――ジャンルも素材もしっちゃかめっちゃか。
それが次々に彼女の口の中へ放り込まれていくのは、うん、なんだか複雑な気持ちだった。
教室の中はほとんどのクラスメイトが残っていて、それぞれの席で黙々と昼食をとっていた。時折食べ終わった者たちの小さく話声がするものの、笑い声は聞こえない。食事中は喋らない、というのが国のルールだからだ。
同じような制服を着た者たちが、定められた席に座り、定められた通りのことをこなしている。まるで兵隊のようだ、なんて言ったら言い過ぎだけれども。
……あまり人同士を結託させたくないのだろうな、と思う。国民が持つ最終兵器は、例えば絆なんてものができたら手に負えなくなってくる。人は仲間を前にするとかっこつけたがる生き物だ。
そうでなくても、「ここにはお前がいないから」なんて理由で、平気で世界を滅ぼそうとする。だから建前上は「夫婦」であっても実際はただの「男女一組」であるし、友人は「よく会う他人」だ。「そういうもの」として教えられてはきたけれど、そう考えてみるとなんとなく、ぞっとした気分になる。
ならば、この施設案内を頼んだ少女は。
僕の何になるのだろうか。
アリスさんが立ち上がる。
人差し指と中指をたて、薄いピンクに色づいた唇にそっと当てる。
「私がいっぱい食べる理由? 秘密。――施設案内だったね、いいよ。まずは体育館から、かな」
「ところで、なんで私に施設案内頼んだの?」
職員室に挨拶をしたところで、アリスさんが尋ねた。ひと昔の病院か、と思われるくらい真っ白な廊下を僕らは歩く。教師の仕事は基本授業用音声の録音とHR、たまにやってくる生徒への対応だけであるため、とても静かだ。
「そりゃ、隣の席だから」
「隣の席だからって普通女子に頼まないでしょう。仲良くなれそうな男子とかに頼みなよ。コウとか。メイン・コウ」
「うーん、なんとなく、としか言えないかな。コウは良い奴そうだけど」
「なんとなく、で私を選ばないでほしい」
「髪がきれいだったから、ならいい?」
「なっ……」
冗談めかしたように言った瞬間、アリスさんの顔がほんの少し赤くなった。さっと下を向く。……あれ、なんか怒らせてしまっただろうか。
「ご、ごめん、いやでもアリスさんの髪がきれいだなって思ったのは本当で、歩くたびに魅惑さが増すと言うか」
何言ってるんだろう、と思いつつもフォローっぽいものを入れる。アリスは下を向いたせいで小さな耳が蒼に近い黒の髪の毛の間からこぼれていた。真っ赤だった。
「……アリス」
うつむいたまま、呟くような声が聞こえた。小さな鈴がころころと鳴るような、そんな声。
「え?」
「アリス、って呼んで。さん付け気持ち悪い」
「……わかった。えっと、アリス」
「OK」
顔をあげるアリス。普段真っ白な頬はまだ朱色に染まっていた。照れと可笑しさが混じった、そんな表情をしている。
「ひょっとして、いやひょっとしなくてもユウ君、あ、もういいやユウ、はまだあんまりこっちに慣れてなかったりするのかな」
混乱したような、ちゃんとした台詞になっていない言葉。
頷く僕。ああなるほど、とアリスも頷く。とても納得したご様子だ。
「あのね、ユウ、この辺ではあんまり他人に対して髪を褒めないほうが、いいかも。後々ユウが困ったことになりかねないうちに、言っておく」
どうして、と聞く前に、彼女は答えを言う。
少し恥ずかしそうに、髪をかき上げながら。
「髪がきれいだね、って、プロポーズに使う言葉だから」
一瞬、世界が固まった。
あと、えと、あ、その、と単語にすらならない言葉たちが口から漏れ出る。
しまった、えっと、その。顔が徐々に熱を帯びていくのを感じる。
「……まじですか」
「まじなのです」
「なんていうか、その、すみません」
「うん、いきなり言われたからびっくりしたけれど。大丈夫だよ」
まだ顔は赤いながらも涼しげな声で言われ、口にできるようなセリフがなくなる。いたたまれなくなって、目をそらした。廊下は初夏だということを忘れそうなくらいひんやりとしていて、軽く僕をあしらっていた。
「……あれ」
体育館の方から誰かが歩いてくる。あたりをきょろきょろと見まわして、何かを探しているようだった。アリスも気が付いたようで、うん? と首をかしげる。ほんの少しだけ、目つきが厳しくなったような気がした。
「レウ?」