第九幕
今日最後の講義は、地理だった。
「ユウ、さっき授業でやってた西区って、前ユウが住んでた地方か?」
授業後、鞄に荷物をしまう僕に、コウが話しかけてきた。教室の電気に照らされて、エメラルドグリーンの瞳がキラキラ光る。
ん、そうだね、と返した。コウは気軽にこちらへと駆け寄ってきてくれる。転校してきてすぐに《転生者》の事件が起こってしまい、クラスメイトとの距離感を掴むタイミングを微妙に逃してしまった者としては、とてもありがたい。
「たおべの説明がなかったからなー、ちょっと不服」
「なんで地理の授業で菓子を教わると思ったんだ」
やいやい言い始めた僕らに、クラスメイト達が集まってくる。
「そーそー、おお、キインってどっかで聞いたことある、そうだ! ユウだ! たおべだ! もちもちだ! って思ってたのに」
「いや、キイン=たおべ=もちもち、ではないんだけど。講義でもやってたじゃん、かのキャイン・カウが怪物マルヒネを倒した丘のあるところなんだよ?」
「いやでもあれでしょ、今は静かな街なんでしょ? たおべと工芸品が有名だって」
「あー、言ってたね、ガラス細工だっけ?」
「……うん、ネックレスとか、イヤリングとか。女子は好きだと思う、よ?」
「何それ、ちょっと行ってみたいかも」
「私も―」
「え、やめといた方がいいんじゃね? ジャウン・ラウの近くじゃん」
「ん? 何だっけそこ?」
「さっきの講義寝てたの? 夜の王アルン・マウが天界より降臨した土地じゃない。これにより世界に夜が存在するようになった……んだっけ?」
「ただのおとぎ話だろうに」
「んにゃ、神話じゃなくってさ、現実的な話。あそこ、確か治安悪かったでしょ? ほら、噂では《転生者》が隠れ住んでる街とかいうじゃない」
「うっわこわー」
もはや誰が話しているのかわからない状態でガヤるクラスメイト達に交じり、まあ噂話だけどねー、とだけ加わる。ただでさえ廃れてきてるのに、これ以上キインから人がいなくなっちゃあ敵わない。
クラスメイト達はそのうち、たおべの種類で論争を始めた。抹茶だ、いやここはチョコレート一択、うん、イチゴだよねやっぱり。
にぎやかな教室の中で笑顔を浮かべながら、僕はちらり、と隣を見た。
机の上には固定式のノートパソコンが閉じられた状態で置かれている。その主は、今はいない。隣だけが――ひどく、静かだ。たった一日居ないだけで、こんなにも変わるものなのか、なんて思う。
アリスだって馬鹿ではないのだから、いつまでもこのままじゃないはずなのだけど――なのだけど。
「……こんなはずじゃなかったのに、なあ……」
僕はぼそり、と盛り上がるクラスメイト達に気づかれないよう呟く。
次の日、アリスが学校に来た。
何だよアリス、風邪か何かか? 休むなんて珍しいねー。クラスメイトからそんな声をかけられながら、席に着く。
「ん、ごめんね、ちょっと体調悪くってさ」
何事もなかったかのように、アリスは皆に笑いかける。瞳はいつもより黒々としていて、確かに元気が無いようにも見えた。しかし、それでも口調はいつもの彼女であったし、他に変化も見られなかった。
――僕が、存在しないかのように扱われていること以外は。
隣にいるのに、全く話しかけてこない。どころか、目すら合わない。友達と二言三言話した彼女は、チャイムが鳴ると同時にPCへと向かった。授業が終わると、他の女子たちと一緒に教室を出ていく。どうやら廊下でおしゃべりに興じているようだった。それも、ひどく自然な動作に見えた。明らかに避けられているのに――その行動自体は、何の違和感もなかった。
「……アリス」
ぼそり、と呟く。これでは、昨日と全く変わらないじゃないか。隣は変わらず、空っぽのままだ。空調は何でもないかのように、黙って空気を吐き出し続けた。
「ちょっと急ぎ過ぎたのかなあ……そうだよなあ、そりゃ、変にも思われるよなあ……警戒もするよなあ……にしったってやりすぎじゃない? ……どうするかなあ、とりあえず信じてもらわないと救えないんだよなあ……うん……別に……いや、違う、彼女は救わなくちゃならない、僕が、僕が、僕が」
文章になってもいない、単語の羅列が口の端から漏れ出ていく。幸いなことに、クラスメイトは次の時間に控えている小テストの勉強にかかりきりだった。多分、アリスも他のクラスに何かを聞きに行こう、とでも提案したんだろう。
頭いいよなあ、とか思う。
「……あー、どうしよ。もう一回、チャンスあるかなあ……?」
チャイムが鳴ると同時に、アリスが戻ってくる。やはり、こちらの方は見ない。黙ってPCの電源を押している。教室の中が徐々に静かになっていく中、僕はぼんやりとアリスの横顔を見ていた。表情は読み取れない。
怒ってる?
呆れてる?
怪しんでる?
……分からなかった。
諦めてPCを開き、電源を入れる。立ち上がるまでの間に、机の後ろ側にかかっているヘッドフォンを用意する。打ち慣れた申し訳程度のパスワードを打ち込めば、いつも見ているデスクトップ画面が現れた。各授業やメモ帳などのアイコンが並んでいる。背景自体は生徒が自由に変えることができ、僕の目の前では赤い花――アイン・ロウが咲き誇っていた。
右下には小さなカレンダーと時計が映っている。今日の日付をぼうっと見ていたら、もう週末だということに気が付く。
明日から三連休。
「……母様に、逢いに行くか」
呟いた声は、誰にも届くことなく消えた。




