(71)憧れの人【スクラップブック】
同じ会社。同じ職場。歳の差は三歳。身長差アリ。知り合いに頼まれてハンドモデルをしている男性上司と。自分の手にコンプレックスを持つ女性部下。
ここはとある広告代理店の営業部。私、輪島美緒は、そこで営業補佐として二年目を迎えていた。
パソコンに向かって頼まれていた資料を纏めていると、頭に軽い感触があり、同時にポコンという間抜けな音がする。
「輪島。この書類、五ヶ所もミスがあるぞ」
丸めた書類で頭を叩いてきたのは、榎戸敦幸チーフ。営業補佐が集まる営業二課の中心人物だ。
彼の歳は私と三つしか離れていないというのに、右肩上がりの業績を誇るこの会社で、この春、チーフに抜擢されたほど仕事ができた。
少し硬めの黒髪に緩くパーマをかけ、やわらかく後ろに撫でつけている。ほんの少し落ちている前髪が切れ長の目にかかり、かっこよくて、色気があって、本当に素敵だ。
奥二重の目とバランスよく配置された鼻と口が近寄りがたい雰囲気を醸し出しているものの、それはそれで彼の魅力でもあると思う。
おまけに背もスラリと高くて、足も長い。成人女子の平均身長にやや届かない私と比べると、優に頭一つ半は高い。
こんなにいいところだらけだというのに、彼はさらに魅力的な物を持っていた。
それは、手だ。
男性にしてはほっそりと、だけど少しもなよなよしていなくて、適度に骨ばった長い指。しかも、爪の形がいいのだ。
私の手は子供みたいで、指が短い上に爪がまん丸。これが、一番のコンプレックスだった。
人は見ていないようで、案外、他人の手を見ているもの。
ネイルアートや付け爪が似合わない私の手は、平凡な私をさらにつまらない女に見せていることだろう。
差し出された書類を持つ彼の手は、今日もうっとりするほど魅力的。思わず見惚れていると、クスッと笑われた。
「相変わらず、俺の手しか見ないな」
そう言って、彼はもう一度書類で私の頭をポコンと叩く。
「えっ?あ、あの、すみません……」
不躾なほど、ジロジロと見てしまった自覚はある。だって、本当に素敵なんだもん。
慌てて頭を下げると、彼は書類を持っていないほうの手で私の頭をくしゃりと掻き混ぜる。
――うわっ、あの素敵な手が私の頭に!
感激するあまり、私は差し出された書類を受け取れずにいる。
すると、またクスリと笑われてしまった。
「その書類、三十分以内に直せよ」
「は、はい!頑張ります!」
失敗の多い私だが、気持ちの切り替えは早い。それに、榎戸チーフの神の手に頭を撫でてもらったのだ。やる気はフル充填されている。
気合の入った返事と共に、私は書類を受け取った。
そんな私の様子に彼はなにか言いたそうだったが、「頼んだぞ」と言うだけで去っていく。
左手を上げてヒラリと振る様子に、私は「あの手首も素敵だなぁ」と、密かに見惚れていたのだった。
その後は失敗することなく、無事に仕事を終えて帰宅した。
「ただいまぁ」
いまだに実家暮らしの私が帰ってくると、台所から母が出てくる。
「おかえりなさい。今夜はすき焼きだから、さっさと着替えてらっしゃい」
「ごちそうだね、なんかあった?」
上がり框に並べられているスリッパに足を通しながら尋ねると、母がにっこりと笑った。
「商店街の福引きで、お父さんが特等を当てたのよ。その景品が、すき焼き用高級黒毛和牛だったの」
「へぇ、お父さんってクジ運がいいんだね」
そういえば、父は福引きをしても、なにかに応募しても、大抵景品をゲットしている。宝くじで大金を当てたことはないが、福引きでポケットティッシュしか当てたことがない私からしたら、十分うらやましい。
すると、母がニンマリと笑う。
「私と結婚できたんだから、運がいいに決まっているじゃない。言っておくけど、お父さん以外にも私にプロポーズしてきた人は何人もいたんですからね」
「はいはい、分かりましたよぉ」
母のお決まりのセリフだ。
とはいえ、実は母のほうが父にベタ惚れだったという話を、母の友人たちからこっそり聞かされていたのは内緒である。
確かに、娘の私から見ても母は綺麗でスタイルがいい。随分とモテたことは、想像に難しくない。
だが、娘の私にはその遺伝子がほとんど伝わっていないのが、至極残念だ。顔やスタイルはともかく、そのほっそりと長い指と綺麗な形の爪だけでも遺伝したらよかったのに。
そんなことを思いながら、自分の部屋でスーツを脱ぐ。
ラフな服に着替えた私は、ローテーブルの上に置かれているスクラップブックを手に取った。
これは私の癒しと憧れを詰め込んだもので、雑誌で見かけた素敵な手の写真を切り抜き、集めたものだった。
腕時計をつけた手首の写真、ブレスレットをつけた手首写真、服の裾を摘まむ手の写真など、これはと思った写真が並んでいる。
パラリとページをめくると、思わず頬が緩む。
「やっぱり、YUKIさんは素敵だなぁ」
以前は女性の写真が圧倒的に多かったけれど、今はある男性の手に魅了されていた。
パーツモデルは雑誌に名前が載らないことが多いので、その手が誰のものか分からない場合もある。
ただ、たまたま男性用腕時計の特集ページで、『モデル:YUKI』という名前を見かけ、それ以来、彼の手のファンになった。
どうしたことか、ここ最近は彼の写真にお目にかかれなくて寂しいが、過去の写真でも十分見惚れる。
「ホント、素敵だよねぇ。榎戸チーフもYUKIさんと同じくらい素敵な手だし、もう最高の職場だね」
ニヤニヤしながらスクラップブックを眺めていると、「美緒、なにしてるの?すき焼き、食べちゃうわよ!」と母に声を掛けられてしまう。
「待って、すぐ行くから食べないで!」
私は丁寧にスクラップブックをローテーブルに乗せ、慌てて部屋を出ていった。
週が変わって月曜日、私は例のスクラップブックを通勤バッグに入れて出勤した。
今週は特に忙しくなると上司からも言われているので、癒しグッズで乗り切るのだ。
そして、始業時間を迎えた。
「おい、イメージ用の資料素材、まだ揃わないのか!」
「あと五分、お待ちください!」
「ここのカラー指定、間違ってるんじゃないの!?」
「それで合ってんだよ!」
上司も先輩も同僚も、仕事が始まった途端に殺気立っている。
能天気な私でもさすがに空気を読み、ミスがないように普段の何倍も慎重になって仕事を進めていた。
昼休みを迎える頃になると、精神的にボロボロである。
だが、私には強い味方がいた。
お弁当よりも先にスクラップブックを取り出し、まずは写真で癒されるとしよう。
――はぁ、やっぱりYUKIさんの手、最高です!
男らしさの中に繊細さもあり、爪の形も指の長さも関節の感じも手首の太さも、文句なしのパーフェクトだ。
頬が緩むのもかまわずに写真を眺めていると、スクラップブックがヒョイと奪われる。
「なにを見ているのかと思ったら、ずいぶんとマニアックなものを」
仲良しの先輩が上品なネイルを纏った指で、パラリパラリとページをめくっていた。
「いいじゃないですか、個人的に楽しむだけですし」
サッと奪い返し、スクラップブックを胸に抱き締める。
「そうなんだけど、手の写真ばっかりだなんて、ちょっとどころじゃなく変わっているわよ。まぁ、すごく素敵な手だから、分からなくもないけど」
「はい、本当に素敵なんです!いつか、このモデルさんに会ってみたいなぁ」
YUKIさんに握手をしてもらうことが、今の私の夢なのだ。
うっとりと呟く私に、先輩がクスクスと笑いながら衝撃的なことを教えてくれた。
「ほぼ毎日会ってるじゃない」
「へ?まぁ、写真は毎日欠かすことなく見ていますけど」
「そうじゃなくて。……ああ、あなたは知らないのね」
「なにがですか?」
「そのモデルをしているYUKIって人、榎戸チーフなのよ」
「…………は?」
私は目をひん剥いて驚いた。
まさか、憧れのYUKIさんがこんな間近にいたなんて。
唖然とする私に苦笑しながら、先輩は話を続けた。
「なんでも、五年くらい前に知り合いが時計のブランドを立ち上げたとかで、モデルを頼まれたらしいのよね。ほら、チーフの手って、なんかいい感じじゃない。手伝いということで、たまにその時計の撮影時に駆り出されているっていう話よ」
「本当に、榎戸チーフが?」
「ええ。でも、社員の兼業は禁止だからあくまでも手伝いってことで、お金はもらってないみたいだけどね。さてと、私もお昼ご飯を食べようかしら」
そう言って、先輩は自分の席に戻っていった。
私は衝撃から立ち直れず、結局、お弁当に手を付けることができなかった。
――YUKIさんが、榎戸チーフだったなんて……。
終業時間を迎えても、私の頭は混乱したまま。この状態で、よくミスしないで仕事できたものだと、我ながら感心する。
榎戸チーフの名前は「あつゆき」で、下の二文字をモデル時の名前としてもおかしくない。
それに、あんなに魅力的な手が、この世に二つとあるはずもない。
今までずっと写真の中の人だと思っていたら、あまりにも身近にいたのだ。時間が経っても、驚きが収まらなかった。
ボンヤリと歩いていたせいでエレベーターホールを通り越し、気が付いた時には階段を下り始めていた。
職場は十階建てのビルに入っていて、私たちは六階で働いている。
階段で降りるとなるとかなりの時間と体力を使うが、戻るのはなんとなく面倒だ。
それに今、榎戸チーフに会ったら、どんな顔をしたらいいのか分からない。
写真だからこそ、純粋に憧れることができた。
なのに、現実世界の、しかも自分に近いところに存在する人だと分かったら、喜びよりも困惑が強いのだ。
終業時間を過ぎたので、エレベーターでチーフと鉢合わせする可能性もある。
それなら、多少時間がかかっても、このまま階段を使ったほうがいいだろう。
私はぼんやりしたまま、一段一段ゆっくりと下っていった。
その時、誰かが落としたボールペンに気付かず、それを踏んづけてしまった。
心ここにあらずな状態だった私は、手すりを掴むことができず、思い切りバランスを崩してしまう。
「ひゃぁっ!」
ズルリと足が滑り、体が大きく前に傾いた。
階段を降り始めたばかりだったせいで、このままいくと十段くらいは転げ落ちる羽目になる。
しかし、もう、どうしようもない。
数秒後に襲ってくるであろう痛みを耐えるため、私はギュッと目を閉じた。
ドシンという鈍い音と共に、体がなにかに打ち付けられる。
ところが、まったくと言っていいほど痛みはなかった。
――どういう、こと?
恐る恐る目を開けてみると、私を守るようにしっかりと抱き留めている人のスーツが目に入った。
濃紺のスーツに真っ白いYシャツ、それに藍色のネクタイという組み合わせは、榎戸チーフが纏っていた組み合わせと同じではないだろうか。
ハッとなって顔を上げると、やはり、私を庇ってくれたには予想通りの人だった。
「輪島、怪我はないか?」
「は、はい、大丈夫です」
一番下まで転げ落ちたのにどこも痛くないのは、彼が体を張って助けてくれたおかげだ。
「ありがとうございました!」
お礼を言うと、「それならよかった。さっきの輪島はボンヤリ歩いていたから、心配でついてきたんだよ」と返した彼が、ほんのわずかに顔を歪める。
成人女性の下敷きになったのだから、彼のほうこそ怪我を負ったのではないだろうか。
「チーフ、どこが痛いですか!?」
慌てて彼の上から退き、素早く視線を巡らせる。
すると、左手の甲に結構な擦り傷があることが目に入った。
それを見た瞬間、私の体からヘナヘナと力が抜けていく。
――榎戸チーフに、怪我をさせちゃった。
驚きと焦りと困惑で、私はガタガタと震え始めた。
そんな私を、彼は優しく抱き締めてくる。
「怖かったよな。でも、もう大丈夫だぞ」
大事な手に怪我をしているくせに、彼は私を気遣ってくれる。
その優しさが苦しくて、ボロボロと泣き出してしまった。
「わ、私は、大丈夫、です……。チーフこそ、早く、医務室へ……」
「この程度なら、ザッと水で流す程度で平気だろ」
「それじゃ駄目です……。チーフは、手のパーツモデルなんですよね?一刻も早く、治療してもらわないと……」
自分のセリフに、私は愕然となる。
そうだ。彼はその綺麗な手で紙面を飾る人なのだ。
次の撮影までに、この怪我は治るだろうか。いや、傷痕は残ったりしないだろうか。
もし痕が残ってしまったら、私はどんな償いをしたらいいのだろうか。
自分がボンヤリしていたばかりにとんでもない罪を犯してしまったと怖くなり、私はさらにボロボロと泣き出す。
すると、榎戸チーフは抱き締める力を強めてきた。
「俺のことはいいんだよ、モデルだって……」
彼が最後まで言い切る前に、私は首を大きく横に振る。
「いい訳ないです……。私は、どうしたらいいですか?どうしたら、榎戸チーフに償えますか?」
ここ最近では、傷痕を綺麗に修復する形成外科の技術が上がっているらしく、施術を受けたら、傷痕が消えるかもしれない。
お金がいくらかかるのか分からないけれど、貯金を全部はたいたってかまわない。もし、お金が足りなかったら、ローンを組んでもらって、ちゃんと返済しよう。
あと、チーフの怪我が治るまで、私が彼をしっかりサポートしなくては。私の全身をフル活用したら、彼の左手くらいの役目は果たせるかもしれない。
涙を流しながら彼を見つめたら、なぜかニッコリと微笑み返された。
「へぇ、輪島は俺の言うことに従うつもりなのか?」
私はコクリと頷く。
「はい。それだけ、私はとんでもないことをしでかしました。できることなら、なんでもします」
それを聞いて、彼は形のいい目を楽しそうに細めた。
「だったら、俺の恋人になってもらおうかな」
「……え?」
「恋人になって、たっぷり愛情かけまくったら、そのうち、俺に惚れてくれるかもしれないし」
「…………え?」
――今、なんて言われたの?
驚きすぎて、涙が引っ込んだ。
パチクリと瞬きを繰り返す私の目に、笑みを深めた彼の顔が映る。
「なにかにつけて可愛がっているのに、お前はいつだって俺の手にしか興味がなかったから、どうしてくれようかと思っていたんだよ。なんでもしてくれるって言うなら、俺の恋人になってくれ」
「い、いえ、あの、それは、どういうことでしょうか?」
「まだ、分からないのか?」
「は、はぁ……」
間抜けな顔でコクリと頷くと、彼がコンと額をぶつけてきた。
「お前が好きだって言ってんだよ」
こうして、私は憧れの手の持ち主とお付き合いすることになった。
ちなみに、榎戸チーフは一年ほど前からモデルの仕事はしていないとのこと。
「ハンドモデルって、手を傷付けないための制限が厳しいんだよ。俺は本職じゃないが、撮影が近くなると、それなりには制限に従わないといけなくてな」
制限がストレスでハンドモデルを辞めたのかと思ったら、どうにも事情は違うらしい。
「その制限をいちいち守っていたら、美緒と色んなことができないしな。絶対にお前を恋人にするって決めた時に、モデルはすっぱり辞めたんだよ」
そう告げた彼の顔が楽しそうでありながらもやたらと艶っぽく、私の心臓はバクバクと大暴れしたのだった。




