(7)180度違うあなたと私【分度器】
舞台はデザイン事務所。歳の差は九歳。身長差。
仕事が出来て面倒見のいいデサイナーの男性と、子供の頃にからかわれたために人付き合いが苦手になってしまった女性。
「お、お、おは、おはよーございますっ!」
まるで道場破りでもするかのような勢いで、私は職場であるデザイン事務所の扉を大きく開けた。
「おはよう、奈々ちゃん」
「今日も元気いっぱいだね」
「声が大きいのはいいことだよ」
そう言って、事務所内にいる先輩たちが優しく声を掛けてきてくれる。
顔を真っ赤にしながらも、ホッと胸を撫で下ろした。
私、星野奈々(なな)は、短大を卒業したばかりの二十歳。社会人になって、ようやく三ヶ月目となった。
二十歳といえば世間では大人の仲間入りということになるが、当の私は、年齢よりも幼いと自覚がある。
それというのも、人とコミュニケーションをとることが極端に苦手だからかもしれない。
子供の頃から自分の気持ちをうまく言葉に出来ず、話そうとするとすぐにどもってしまう癖があった。
小学校に上がって間もなく、同じクラスの人たちにその事でからかわれ、私はたくさんの人の中で生活することが怖くなったのだ。
学年が上がるにつれて同じ女の子が私をからかってくることは減ったけれど、男の子は相変わらずだった。ううん、更にエスカレートしていって、何度となく泣かされたっけ。
そういうことがあったので、共学では安心して学生生活を送れる自信などない。
両親に頼み込んで、中学から短大まで女子だけの学校に進学させてもらったほど、私にとって異性というのは恐怖の対象になっていたのだ。
中学以降は意地悪する男の子が周りにいなかったので、徐々に周囲と打ち解けられるようになり、そのうちに仲の良い友達も出来た。
おかげで同性に対してはそこまで恐怖心を抱くことはなくなったけれど、まったく知らない人と一緒にいるのはやっぱりまだ無理。
そして特に男性を前にすると、よりいっそう言葉に詰まってしまう。
この年になっても、人と接することが怖かった。
そうは言っても、このままではいけないということは自分でも分かっていた。
就職活動もまともにこなせず、気持ちばかりが焦っていた私に、個人でデザイン事務所を経営している伯母が声を掛けてくれた。
「ウチは従業員も多くないし、奈々ちゃんと同じ年代の人ばかりだから話も合うと思うの。リハビリだと思って、働いてみない?」
そう言われても、正直怖かった。
けれど伯母がいてくれるので、まるっきり知らない人たちに囲まれるわけではない。
そのことにちょっとだけ背中を押され、私は伯母のもとで働くことになったのだった。
デザインについて何も勉強してこなかった私は、とりあえずはバイトとして働かせてもらうことに。職場内の細かい雑用をあれこなすことがが私の仕事だ。
はじめは事務所の扉の前で始業寸前まで立ち往生し、ようやく決心して中に入るものの、まるで蚊の鳴くような声でしか挨拶できず。
それでも、先輩たちは馬鹿にすることはなく、気さくに声を掛けてきてくれたのだ。
みんなの笑顔に励まされ、私は少しずつでも変わってゆくことができた。
二ヶ月が過ぎた頃には、自分に気合を入れるように、出勤時の挨拶はとにかく大きな声で言うようにした。
いまだに挨拶一つすんなり言えず、相変わらず不器用で、すぐにパニックになる私だったけれど、みんなは優しく見守ってくれている。
それに、誰一人として、私のどもりを馬鹿にしない。
そのことに安心して、事務所の先輩たちと少しずつ打ち解けていった。
ところが、どうしても慣れない人が一人いる。
安藤優二さんは、この職場においてリーダー的存在の二十九歳。仕事においても人柄においてもみんなから一目置かれていて、伯母からの信頼も厚い。
中学、高校とバスケ部に所属していたという彼は、身長160センチの私が見上げるほどかなり背が高い人だ。
それだけでも神様から十分贈り物をされていると思うのに、安藤さんは顔まで良いのだ。
きりっとした眉の下にある目は形が良く、鼻筋は品良く通っていて、唇だって絶妙な位置に収まっている。
少女マンガに出てくるヒーローみたいな人を前にしたら、冗談じゃなくて口から心臓が飛び出しそうなのだ。
父親以外の男性とまともに接してこなかった私にとって、安藤さんはまるで別世界の人に思えて、いつまで経っても慣れないでいた。
なのに、無意識のうちに距離を取ってしまう私へ彼は自然と歩み寄ってきて、あれこれと世話を焼いてくれるのだった。
「奈々ちゃん」
背後から急に安藤さんに呼びかけられて、ゴミを捨てに行く途中の私は驚きのあまり盛大にゴミ箱を落っことした。
アルミで出来た円筒形のゴミ箱がガゴンと鈍い音を立てて落下し、中に入っていた丸めた紙ゴミが辺りに散らばってしまう。
「い、いけない!」
私は慌ててゴミを拾おうとしゃがみ込むが、周りが見えていなかったために、すぐそばにあった鉢植えに足をひっかける。
とたんに大きく傾く自分の体。
「ひゃぁ!」
パニックになった私は、どうすることも出来ずにそのまま床に倒れ……なかった。
後ろから伸びている逞しい一本の腕がお腹に回され、がっちりと私を支えている。
良かったと安堵する間もなく、耳元で
「大丈夫?」
と囁かれた。
安藤さんの低くて心地よい声がすぐそばで聞こえたことに、私は再びパニックに陥る。
「あ、あ、あ、あ、あのっ!」
息を吸ったらいいのか吐いたらいいのか、そんなことすら分からなくなるほど取り乱す私に、安藤さんは『落ち着いて』と優しく声を掛けてくる。
「大丈夫だから。吸って、吐いて」
彼の声に合わせて呼吸を繰り返すうちに、少しずつ落ち着きを取り戻せた。
ようやく自分の足で立てるようになると、安藤さんはゆっくりと腕を解く。
「す、すみません。わ、わ、わ、私が、お、大げさに、おど、驚いたりしたからっ」
彼に向き直ってペコペコと頭を下げた。
そんな私に、安藤さんは小さく苦笑を漏らす。
「いや、いきなり声を掛けた俺が悪かった」
「そ、そ、そ、そんなこと、な、ないです。わ、私が、一人で大騒ぎして。ほ、ほ、本当に、すみ、すみません」
ひどく閊えながら謝り続けていると、
「別に俺は迷惑を掛けられていないし、何も被害が出てないから。そんなに謝らないでよ」
「で、でも……。あっ!は、鉢植え!」
私が足をひっかけた鉢植えは、ひょろりと背が高い植物が植わっていた。
鉢が傾いたら、重心が高い位置にあるその鉢植えは簡単に倒れることが予想できる。土がばら撒かれるだけならまだしも、鉢が割れたり、植物が傷ついていたらどうしよう!
私は振り返って鉢植えを見遣れば、ほんの少しだけ位置がずれていただけで何も変わっていない。
「あ、あれ?」
パチクリと瞬きして眺める私。確かにあの鉢植えを蹴飛ばしたのに。
「俺が左手と足で支えたから、鉢は倒れなかったよ」
と、安藤さんが説明してくれる。
「そ、そうでしたか。あ、あ、あ、ありが、とう、ご、ござ、ございました」
「だから、驚かした俺が悪かったんだって。ごめんね」
「い、い、いえ、そ、そんな!あ、あ、謝らないで、く、ください!わ、私の、方こそ、ご、ごめんなさい」
「じゃぁ、奈々ちゃんも謝らないで」
そう言って、彼はデニムのポケットからスティック状に包装されたのど飴を取り出す。
「これをあげようと思って声を掛けたんだ。なんか、奈々ちゃんの声の調子がいつもと違うから」
「え?」
そんな些細な不調、他の誰も気づいていなかったのに。
ポカンとして背の高い彼を見上げれば、クスリと笑った安藤さんが私の左手を取って、のど飴をポンと置いてくれる。
「くれぐれも無理はしないで」
優しく微笑んだ安藤さんは、散らばったゴミを袋に集め、転がったゴミ箱を抱えて歩き出した。
「あ、あ、安藤さん!」
「なに?」
首だけで振り返った彼に
「そ、そ、それ、わた、私が、やらないと!」
と、今更ながら声を掛けた。
「別に、ゴミ捨ては誰がやってもいいんじゃないかな。それより、その飴を食べて、ちょっとゆっくりしなよ」
もう一度クスッと笑った安藤さんは、静かにその場から立ち去って行った。
かっこよくて、仕事も出来て。とっさの判断も完璧な上に、気配りまでばっちりな安藤さん。
何にもできない上に、なかなか人付き合いがうまくならなくて、すぐに取り乱す私とは全然違う。
自分との大きな違いに私はがっくりと肩を落とし、頼もしくて広い背中を見送ったのだった。
午後のお茶の時間になり、私は給湯室でみんなの飲み物を用意する。
こんな私だから落ち込むことばかりだけど、ここは職場だから泣き言なんて言っていられない。せめて自分に出来ることをしなくちゃ。
安藤さんに頼りにしてもらえる人間にはなれなくても、彼に呆れられるような人間にだけはなりたくない。
「よ、よ、よし!」
全員分のカップを乗せたトレイを手に、私は給湯室を出る。
「お、お、お、お茶、お茶が、は、入りました!」
声を掛けて、デスクにいる人に配ってゆく。
「お、おつ、お疲れ、さま、です!」
「あ、熱いので、気、気を付けて、く、ください!」
「お仕事、た、た、大変ですね!」
カップを置きながら、一人ずつに話しかけた。
相変わらずどもりっぱなしだし、気合を入れ過ぎて声が大きくなっているけれど、誰もいっさい笑わない。
「ありがとうね」
「奈々ちゃんもお疲れ様」
「喉が渇いていたから、助かるよ」
カップを差し出す私に、みんなが優しく微笑んでくれる。
その笑顔にちょっと勇気をもらって、最後に安藤さんのデスクへ近づいた。
「お、お、お茶、ど、どうぞ!」
彼の邪魔にならないようにデスクの端にカップを置き、私は一つ息を吸った。
「あ、あの、のど飴、あ、ありがとう、ございました!お、おかげで、喉の痛みも治まりました!」
空になったトレイをギュッと抱きしめ、必死に言葉を紡ぐ。
「それなら良かった」
作業の手を止めて私の方へと椅子をクルリと向けた安藤さんは、切れ長の瞳を細めてフワリ微笑む。
その様子があまりにも素敵で、私の顔は緊張とは違う意味で赤くなる。
「あれ、大丈夫?顔が赤いけど、熱でも出た?」
「ち、ち、ちが、違います!な、な、な、何でもないです!で、では、失礼します!」
ペコッと頭を下げて駆け去る私を、みんながやたら温かい目で見守っていたことは気が付かなかった。
その日は夕方から外回りに出る人が多く、私はしんと静まり返ったフロアを丁寧に掃き清めている。
何だかんだで人の出入りが絶えない職場なので、こういう時でもないとなかなか徹底的に掃除が出来ないのだ。
僅かなゴミも見逃さないぞと意気込む私は、みんなのデスクの下を覗きこんでゴミを掃き集める。
「ん?」
とあるデスク下の奥の方から、プラスチックの分度器が出てきた。そう言えば、チーフが失くしたって言ってたような。
表面に少し傷がついている分度器は特別なものでもなく、0から180までの度数が線引きされているごく一般的なものだ。
私は箒をデスクに立て掛けると、拾い上げたそれをしげしげと眺めた。
「まるで、私と安藤さんみたい」
私とあの人は180度違う。
何もできなくて情けない0の私と、何でもできる180のあの人は、あらゆることが違うのだ。
思わず目頭が熱くなる。
気が付いた時には、涙がポロポロと零れていた。
その時、
「どうして泣いてるの?」
後ろから伸びてきた逞しい腕にギュッと抱きしめられる。
「ふぁっ⁉」
急に声を掛けられたことと抱きしめられたことで、私は今日一番のパニック状態に陥った。
「ひ……、あ、あっ」
さっきよりもひどい呼吸困難に陥り、掠れた吐息が引き攣る喉から零れるだけ。
「ほら、落ち着いて。ゆっくりでいいから、息を吸って」
すぐ近くから聞こえる優しい声に合わせて、私は必死に呼吸を繰り返した。
しばらく呼吸だけに専念していた私は、ようやく今の状況を理解し、……そして、再びパニック。
「えー!?えー!?あ、あ、あ、安藤さん⁉」
仮眠室にいた彼がいつの間にかやってきていて、なぜか知らないがこの状態に。
――ど、ど、ど、どうして、私、抱き締められているの⁉
顔がピキーンを引き攣り、全身がガキーンと固まった。
おまけにまたも呼吸困難。酸欠で目の前がクラクラと歪み始める。
「奈々ちゃん、息してってば」
クスリと笑う安藤さんは、私に回した手でポンポンとリズムを取るように軽く叩いた。
「だ、だ、だい、大丈夫、です!」
私は何とか呼吸を取り戻し、意識も取り戻す。そうなると、この状況が恥ずかしくてたまらない。
「あ、あのっ、あのっ、は、放して、く、ださい!」
「どうして?」
と、意味不明にも訊き返されてしまった。
「だ、だ、だって、ご、誤解……!」
「抱き合っている所を見られたら、誤解されるから?」
私の言葉じりを捉えて、安藤さんが訊いてくる。それに対して、コクコクと忙しない頷きを返した。
ところが。
「俺はかまわないよ」
と、あっさり言われてしまう。
更にパニックになる私。
「な、な、な、なっ……⁉」
「何でかって?だって、俺は君が好きだから。俺たちが付き合っているって周りが勘違いしても、ぜんぜん平気。むしろ、そう思われたいし」
「うっ、う、う……‼」
「嘘じゃないよ。頑張り屋の君が好きなんだ」
「が、が、が、が……⁉」
「奈々ちゃんは、ちゃんと頑張ってるよ。顔を合わせた初日は、聞き取れないくらいに声が小さかったけど、今ではちゃんと聞こえるし。お茶を出すときも、はじめはカップを置いたら逃げるように去って行ったのに、一人一人に声を掛けられるようになっただろ。奈々ちゃんは、あの頃に比べてすごく成長してるよ。そんな頑張り屋の奈々ちゃんを見ていたら、いつの間にか好きになっていたんだ」
穏やかな声で告げてくる安藤さん。だけど、私の心はちっとも穏やかにならない。
「で、で、でも、わ、私……!」
ジタバタともがく私の後頭部に、安藤さんがコツンとおでこを合わせてくる。
「ゆっくりでいいから、君の気持ちを聞かせてほしい」
「わ、わ、わた、私は、ど、どうしようもない、あ、あ、あがり症でっ。ま、ま、まともに話もで、できなくてっ。だ、だから、私と、あ、安藤さんは、ぶ、ぶ、分度器みたいで……」
さっき感じたことを思わず言葉にしてしまった。
「分度器?」
意味が分かるはずもない安藤さんは不思議そうに呟いてから少しの間黙りこみ、「ああ、そうか」と口にする。
「分度器みたいに、180度違うって言いたいの?」
――なんで私が言いたいことを分かるの⁉
さっきから的確に言い当てる安藤さんに驚いて再び硬直すると、腕を解いた安藤さんが私の肩を掴んでクルリと半回転させた。
そして、今度は正面から私を抱き寄せる。
「別に180度違ってもいいと思うよ」
「だ、だ、だけど、か、会話も、まともに、で、でき、出来ない私じゃ……」
安藤さんはちょっとだけ笑った。
「まぁ、さっきからあんまり会話になってないね」
――あんまりどころか、ぜんぜんですけど!
心の中で叫んだと同時に、キュッと強く抱きしめられる。
「でも、問題ないよ」
「ど、ど、どうして?」
「だって、話は通じてるし」
確かに言われてみればそうだ。私の片言を、彼がすべて的確に読み取っている。それも神様が与えた才能だというのか。
アワアワと取り乱すばかりの私に、安藤さんは頬擦りしてくる。
「大丈夫だよ。俺が君の言いたいことを読み取るから、何の問題もないよ。ね?だから、俺と付き合って」
社会人として一人立ちする前に、なんと彼氏が出来てしまったのだった。