(6)恋のフラグが立ちました【色鉛筆】
幼馴染み。同じ年齢。二十三、四歳といったところ。
父親の洋食店で働く面倒見のいいコックの男性と、近所に住むマイペースな会社員女性。
小さな洋食屋『キッチン おのでら』は、この町で長く愛されている。
先々代から受け継がれているデミグラスソースが絶品で、そのソースを使ったビーフシチューは毎日売り切れるほどの人気ぶり。
そして、シチューに並んで密かに人気を得ているのが、子供も大人もお年寄りも大好きなオムライスだ。
ちょっぴり甘いチキンライスがフワフワの卵に包まれ、その上からこの店自慢のデミグラスソースをたっぷりかける。
熱々の湯気が立ち上るオムライスを一口食べれば、たちまち至福のひと時が訪れるのだ。
そんなオムライスに誰よりも惚れ込んでいるのが、この洋食屋の向かいに住む羽柴真美子だった。
◆◇◆
「おじゃましまーす」
とある日曜日、昼下がりからだいぶ経った頃。
ドア上部に取り付けられているベルをカラコロと鳴らし、私は近所にある洋食屋の店内に足を踏み入れた。
店の外に『準備中』のプレートが掛かっていたけれど、そんなものは気にしない。
私はカウンターの一席に腰をかけ、奥にあるキッチンに向かって呼びかける。
「ねぇ、いるんでしょー?」
「なんで店に入って来てんだ?準備中ってプレート、ドアにぶら下がってただろうが」
コックコートに身を包んだ若い男性が少々不機嫌そうな顔で出てきた。
彼は私の幼馴染で、このお店の跡取り息子である小野寺尊だ。
今はまだ店長である父親のサポートが主だけど、努力家の彼が店のキッチンを預かる日はそう遠くないと思っている。
おまけに、コックコートをビシッと着こなす長身、ほんのり目じりが下がった甘い顔立ち。尊を目当てに通っている女性客が既にいて、時間帯によっては満席で座れないこともあるのだ。
そういう意味でも、この店の将来は安泰だ。幼馴染みとして、この店のファンとして、実に嬉しい限りである。
彼と長年の付き合いがある私は、不機嫌オーラをものともせずに置いてあるグラスへ勝手に水を注いだ。
「えー。でも、電話したでしょ。今から行くって」
ニッコリ笑いかけると、
「電話したって言っても、こっちの都合も聞かずに切りやがったくせに」
ヤレヤレと言った口調でぼやいた尊が軽く首を振る。
「で?どうしたんだ?」
何だかんだ言っても、尊は優しい。こうして私を追い出すことなどしない。
水を一口飲んだ私は、この店に訪れた用件を告げる。
「お昼ご飯、まだ食べてないの。オムライスが食べたいなぁ」
とびっきりの笑顔でお願いすると、尊は甘い目元を細めて苦笑した。
「ったく、仕方ねぇな。腹を空かせた真美子が可哀想だから、作ってやるか」
口は悪いけど、纏う空気が丸くて穏やか。ほらね、優しいでしょ。
料理の腕はいいし、顔もいいし、背は高いし、おまけに人間が出来ている。それなのに、彼女がいないんだって。おっかしいよねぇ。
だから散々女の子を紹介するって言ってるんだけど、いつも「必要ない」の一言で終わらせるの。
人の親切をズバッと切り捨てる所はちょっと酷いなあって思うけれど、今は料理の事で頭がいっぱいなのかもね。そんなストイックなところも、尊の長所だ。
「ちょっと待ってろよ」
「あっ、尊」
キッチンに向かう彼を呼び止めた。
「ちゃんと旗を立ててね」
この店では子供に料理を提供する際、世界の国旗が描かれた紙製の旗を立てている。私は子供って年じゃないけど、旗が立っているだけで何か嬉しくなるんだよね。
ところが。
「あー、それがなぁ。発注ミスで在庫がほとんどないんだよ。明日の朝イチで業者が持ってくるけど、今夜の営業分がギリギリ足りるかどうかってところ。だから、真美子の分には出来れば使いたくないんだけどさ」
尊は渋い顔をした。
日曜の夜は特に家族客が多く訪れ、子供も大勢やってくるのだ。旗が立っていない料理を見て、がっかりする子供がいるかもしれない。
「ん~、それなら仕方ないね」
私だってそこまでおとな気ないわけじゃないから、無理を押し通すことはしなかった。
しかし、諦めが悪い私。
「じゃあ、作ってよ」
「は?」
私の言葉に、尊が怪訝な顔をする。
「白い紙はあるわよね?それに色鉛筆でチョコチョコッと模様を描けばいいじゃない。爪楊枝は店に常備してあるんだし」
子供の頃から美術の成績が良かった尊は、今でも息抜きとして、スケッチブックに色鉛筆を走らせている。
だから、この店には必ずその二つがあることを知っているのだ。その手描き国旗を爪楊枝に取り付ければ、ほら完成。
「お前、ホントに勝手な奴だな」
呆れたように零す尊に、パチンと手を合わせた。
「ね、お願い。旗がないと、なんだか損した気分になるのよ」
お願い、お願いと繰り返せば、
「……仕方ねぇな」
と言って、尊が目を細める。
我が幼馴染み様は、本当に優しい。だから、もうちょこっとだけ我が侭を言ってみても通るはずだ。
「先に言っておくけど、日本の国旗は嫌だからね」
「あれが一番簡単なのによ。勝手な上に、注文が多い奴だな」
軽く睨んでくる尊に、
「優しい尊君、だぁい好き。だから、お願い」
笑顔付きで言ってやる。
すると諦めがついたのか、彼は苦笑を深めた。
「はいはい、分かりましたよ。真美子様の仰る通りに致します」
そう言って、私の頭をポンポンと大きな手で撫でてからキッチンへと入っていった。
「ほらよ」
私の目の前に、ホカホカと湯気を立て、食欲をそそる香りを漂わせているオムライスを置いてくれた。もちろん、旗付きで。
「うわぁ、ありがとう!いっただきまーす」
私は今日一番の笑顔でお礼を言うと、手にしたスプーンでさっそくオムライスに取り掛かる。
「あぁ、美味しい~。幸せ~」
スプーンを握り締めてジタバタしている私に、
「美味いのは分かったから、落ち着いて食え。喉につっかえるぞ」
と言うと、腕を伸ばしてデコピンしてきた。
ビチッと小気味良い音がして割合痛かったけれど、我が侭を聞いてくれた幼馴染みに盾突くこともなく、大人しくモグモグとオムライスを食べ進める。
半分ほどお腹に収めたところで、立っている旗に改めて目を止める。
「フランスの国旗だ。なんで?」
「お前、いつかフランスに行ってみたいって言ってただろ。だから」
巻いていたロングサロンを外しながら、尊がサラッと告げてきた。
なんか、ずるいなぁ。こういう風に、私が話した何でもない事をちゃんと覚えてくれているなんて。
「そっか」
照れくさくなった私はエヘヘと笑って、フワフワの卵から旗を引き抜いた。そしてクルリと旗を回して……、固まった。
旗の裏にはなんと、
真美子が好きだよ
と書かれてあったのだ。
「え?え?え?」
手にした旗と正面に立っている尊を忙しなく交互に見遣り、それから
「ええっーーーーー!」
と、ひときわ大きく絶叫した。
「な、な、なに、これ⁉え?うそ?好きって私の事を?尊が?」
背の高いスツールに座ったまま慌てふためいている私の所に、カウンター内から出てきた尊がゆっくりと近づいてくる。
彼は片腕を伸ばし、私が座っている椅子の背を掴んだ。
ゆっくりと上体を倒してきた尊が、コツンと軽く頭突きしてくる。
「休憩時間だってのに、追い出しもせずにわざわざお前のために飯を作ったり。他にもあれこれ真美子の我が侭を聞いてやっている俺の気持ちに、いい加減気づけっての」
声も出さずに笑った尊は一層顔を近づけ、こともあろうに私の唇をペロリと舐める。
「ウチのデミソースも真美子の唇も、どっちも美味いな」
整った顔立ちに甘い微笑みを乗せられ、しかも、しかも、唇ペロリなんてされてしまっては、白旗を上げて完全降伏するしかない私だった。