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(56)滲んだ退職届【水性マジック(黒)】

同じ会社、同じ部署。年の差は二歳。仕事ができる爽やか先輩男性社員と。家の事情で、急きょ仕事を辞めることになった後輩女性社員。




 母親が交通事故に遭ったという寝耳に水のニュースが飛び込んできたのは、今か二週間前のことだった。

 手術は無事成功し、命に別状はなかった。

 ところが負傷した場所が悪く、この先ずっと、母は車いすでの生活を余儀なくされた。

 娘の私としては命だけでも助かってよかったと思ったのだが、当の母は少々事情が違う。歩くことはおろか、自力で立つことも難しいという話を聞いて、母は愕然となった。

「立てないって……。だったら、あのお店はどうしたらいいの……」

 ポツリと零したセリフとともに、大粒の涙が母の目からポロリと零れる。

 両親は小さな喫茶店を経営しており、その場所が二人の思い出の場所であり、第二の人生でもあった。

 しかし、足の不自由な母では、とてもではないが喫茶店で働くことはできない。店は、父と母の二人三脚で成り立っているのだから。




 その喫茶店は、両親が初めて出会った場所だという。

 当時、二人とも社会人一年生。

 諸々のプレッシャーに押し潰されそうになっていた時に、たまたま通りかかったのがこの喫茶店。

 レトロな店構えがどこか懐かしく、ほぼ、タイミングを同じくして、二人は店内に足を踏み入れた。

 小さな店ではあるものの地元住民から愛されている店は、夕方になっても客足は途絶えることがなかった。

 おかげで、カウンターに並ぶ二席しか空いていなかったそうだ。

 まったくの他人同士だが、とても素敵な雰囲気を漂わせている店を出ていくのはあまりにもったいないと感じ、お互いにはにかんだ笑みを交わしながら、カウンター席に着いたという。

 なにやら波長が合ったらしく、二人はその場でたくさんの話をし、コーヒーを飲み終える頃には、連絡先を交換する仲になっていた。

 それから時々、仕事終わりにこの喫茶店で近況報告をするようになり、いつしか、デートを重ねるようになる。

 そして二人が出会ってから五年が経ち、めでたく結婚となったという。

 結婚してからも、数年後に私が生まれてからも、両親は喫茶店に足を運んでいた。

 それから三十年近い時が経ち、喫茶店のマスターが高齢を理由に閉店すると言ったそうだ。

 二人が出会うきっかけとなった店がなくなってしまう事があまりに残念で、父は間もなく迎える退職後に喫茶店を引き継ぎたいと、母に申し出た。

 これまで事務職としての仕事しか経験のない自分の申し出に、母が反対するだろうと、父は考えていたそうだ。

 ところが。

「あなたが言いださなかったら、私が切り出していたわ」

 と、母はニッコリと笑ったのだ。

 こうして両親はマスターに教えを請い、提供メニューや喫茶店経営について学んでいったのだった。


 父にとっても母にとっても、大事な大事な喫茶店。そこで働けないとなれば、母は生き甲斐を失うことになる。

 また、そういったことになれば父一人で経営していくことは難しく、閉店せざるを得ない。人を雇えるほどの儲けは、残念ながら期待できないのだ。

 働けないどころか、店がなくなってしまう。そうなれば、母にさらなる追い打ちをかけることになる。

 それは嫌だった。

 一人娘だからという義務感だけではない。

 憧れの夫婦像が、自分の両親なのだ。二人には、いつでも笑顔でいてほしかったのだ。

 そのためにできることがあれば、なんでもしたかった。

 

 父を手伝うため、私は会社を辞めることに決めた。




 上司には内々に話をし、退職に必要な手続きを進める。

 おめでたい寿退職ではないので、極々親しい同僚にだけ事情を説明した。あまり大げさにしてほしくなかったし、母親のために犠牲になるのだと思われたくなかった。

 両親にとって大事な場所は、私にとっても大事な場所。この決断に、後悔はない。


 ただ、一つを除いては……。




 終業時間が過ぎ、室内には私一人だった。

 時々厳しいけれど、普段は穏やかで優しい上司。

 いつだって賑やかだけど、バリバリ仕事をこなして頼りになる先輩。

 遠慮のない態度だけど、思いやりを忘れない同僚。

 仕事は大変だったが、大好きな職場だった。

 そして、大好きな人がいた職場でもあった。

 引き出しの奥に忍ばせておいた退職届を取り出し、そっと指先で撫でる。

「こんなことになるなら、告白すればよかったなぁ」

 自分の呟きに、ふと苦笑が浮かぶ。

 私が想いを寄せている二つ年上の先輩は、誰よりも仕事ができた。

 実力を買われ、今は地方の子会社に出向中だ。期間は三ヶ月。彼が帰ってくるまでには、まだ二ヶ月も残っている。

「告白できなかったことだけが、心残りかなぁ……」

 先輩と他愛のない話をするだけで、私は幸せだった。

 その幸せを壊したくないから、想いを告げることに躊躇していた。

 だけど、こうして彼と顔を合わせることがなくなるならば、当たって砕けておけばよかった。それだけが、唯一悔やまれることだ。

「でも、仕方ないよね……」

 彼が戻ってきた時に出向いてくるほどの勇気は、きっと自分にはない。

 会えなくなるという今の心境だからこそ、告白できそうなのだ。

 もう一度、封筒を撫でる。

 その時、ふいに涙がせり上がり、ポタリと封筒に落ちてしまった。

 水性マジックで書いたため、退職届の「退」の字が盛大に滲んでいる。

「いけない、書き直さなくちゃ」

 そう呟いた時、こちらに向かってくるバタバタと忙しない大きな足音が聞えてきた。

 慌てて涙を拭い、誰だろうかと扉に目を遣れば、バタンという豪快な音とともに、扉が開く。

 現れたのは、出向中の彼だった。

「せ、先輩、どうしたんですか?」

 いきなりの登場に、私は椅子に座ったまま固まっている。

 そんな私にズカズカと歩み寄る先輩。

 スラリとした長身で手足の長い彼は、いつだってピシリとスーツを着こなしている。少し硬めの黒髪は額を見せるように後ろへと流し、とても爽やかな印象を与えている。

 しかし、今の彼はスーツも髪も乱れていて、おまけにひどく慌てていた。

 普段にない様子に固まっていると、私が座っている椅子がクルンと半回転。肩で息をしている先輩と向き合うことに。

「あ、あの……?」

 状況が全く呑み込めない私は、曖昧な笑みを浮かべて先輩を見上げた。

 すると、大きな手がガシッと私の肩を掴む。

「仕事、辞めんのか!?」

「えっ?」

 誰から話を聞いたのだろうか。

 キョトンと首を傾げると、さらに強い力で肩を掴まれた。

「本当に辞めるのかって訊いてんだよ!どうなんだ!?」

「はっ、はい、辞めますっ」

 ガクガクと首を縦に振る私に、先輩がズイッと顔を寄せてくる。

「橋本は一人娘だったよな?」

「そ、それが、なにか?」

「よし!俺、婿に入る!」

「はい!?」

「俺は三男だから、家を継ぐ必要もないしな」

 至近距離でニコッと笑う先輩に、私はますます頭が混乱してきた。

「あの……。どうして、そんな話になるんですか?」

 引き攣る喉をどうにか動かして言葉を発すれば、先輩はさらに笑みを深める。

「そうすれば、橋本と一緒にいられるだろ。それで、ゆくゆくはお義父さんの跡を継いで、俺も喫茶店を経営する。橋本にとっての大事な場所を、俺も一緒に守らせてほしいんだ」

「で、ですから、どうして……?」

「ここまで来て、まだ、そんなことを言うのか?ったく、お前は仕事中の気配りは抜群のくせに、なんで俺の気持ちには鈍感なんだよ」

 笑顔を引っ込め、拗ねたようにブツブツと低い声で呟く先輩に、私は大きく首を傾げた。

「先輩の気持ち?」

「そうだよ!橋本のことが好きだっていう、俺の気持ち!」

 それを聞いて、たいして大きくない私の目が真ん丸になった。

「う、う、嘘です!」

「嘘じゃない!この部署で気づいていないのは、当の本人だけって状況だったんだぞ?」

 一瞬の間すら置かない返事とその内容に、ふたたび私の目が真ん丸になる。

「ええっ!?そんな、まさか、ありえないです!」

「そう思ってんのは、お前だけだって」

 先輩は苦笑を浮かべると、ゴツン、と額をぶつけてきた。

「いたっ」

 ギュッと目を閉じれば、痛みが走った場所に柔らかいものが触れてくる。

「…………え?」

 反射的に目を開けると、さっきよりも近い場所に先輩の顔があった。

「それで、返事は?」

「へ、返事!?」

「そうだよ。橋本は俺のこと、どう思ってるんだ?」

 これまでに見せてきた笑顔も拗ねた顔もなく、ものすごく真剣な表情で先輩が私を見ている。

「俺は橋本が好きだ。これから先の人生を一緒に過ごしたいって考えている。お前は?」

 真正面から、しかも至近距離で見つめられ、めちゃくちゃに心臓が痛い。

 私は自分の心臓の音を聞きながら、「……大好きです」と、小さな声で伝えた。

 


 こうして、私は大好きな先輩と大好きな場所を守っていくことになるのだった。


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