(5)失恋+私=新しい恋【HBの鉛筆】
会社員同士。二歳差。
聞き上手なホンワカ後輩男性社員(隠れ強引)と、失恋したばかりの先輩女性社員。
営業事務の仕事をしている私はデスクを離れることが少なく、そのため電話を取り次ぐことが多い。
そんな私のデスクの上にはメモと筆記用具が常に置かれている。
とりわけ、HBの鉛筆は心強い相棒だ。
電話の伝言をメモする際に使う筆記用具は何でもいいのだろうが、ボールペンだと時折インクが掠れて焦るし、水性マジックだと書いた文字が手汗で滲むこともある。
その点、エンピツであればそんな心配はなかった。走り書きしても掠れることはないし、多少濡れても字がぼやけてしまうこともないのだ。
子供の頃から何かにつけて鉛筆を使い続けている私にとって、これが一番手に馴染むし、滑るような書き心地のおかげで疲れない。本当に心強い存在なのである。
週明けの今日は朝から電話が鳴り続け、私も鉛筆もフル稼働。
十二時になると一旦電話は静かになり、ようやく一息つけた。
首を左右に倒してコキコキと鳴らし、固まった首筋を解す。
「やれやれ、やっとお昼だぁ」
この程度の忙しさは月曜日恒例なので慣れてはいるが、今日は何だか調子が出ない。
私は手の中の鉛筆に視線を落とした。
そして、表面に書かれている『HB』の文字が目に止まると、自然とため息が零れる。
実は、失恋したばかりなのだ。
先週の金曜日に、営業部メンバーでの飲み会があった。
そこでお酒の勢いも借りて、店を出た後にずっと片想いしていた男性社員をこっそり呼び止めて告白した。
結果は……、見事玉砕。
そう簡単に彼を忘れることが出来ない今の私には、HBの文字が芯の濃さを表した物ではなく、『ハートブレイク』にしか見えない。
はぁ、ともう一つため息。
そこに後輩がやって来た。
「塩田先輩、元気がないですね。大丈夫ですか?」
いつものように優しい声で話しかけてくるのは、二歳下の須崎君。彼はいつでもホンワカしていて、そばにいてくれるだけで癒される。
おまけにとっても聞き上手。
悩みでも愚痴でもなんでもござれ。須崎君は嫌な顔を一つせず、私の話によく付き合ってくれているのだ。
そんな須崎君に、数か月前、自分が片想いしていることをつい話してしまった。
話を耳にした責任感なのか、もともと世話焼きの性格なのか、ことあるごとに私を気にかけてくれている優しい後輩君。
私も彼には肩肘張らずに、素の自分で接することが出来る。非常に貴重な存在だ。
他の社員は既に昼食に向かったので、周りには誰もいない。
私は、隣にある椅子を引っ張って自分の正面に須崎君を座らせると、
「実はさ、失恋したんだ」
と、こっそり告げた。
それを聞いて、彼はほんの少しだけ息を呑む。
「……もしかして、この前の飲み会で?」
声のトーンを落とした彼に、小さく頷き返した。
「うん。あの人、同じ年の従姉妹と付き合ってるんだって。来年には結婚するとも言ってた」
「そうでしたか」
いつもより少し強張った声で一言漏らして黙ってしまった須崎君に、私は鉛筆をそっと差し出す。
「これ、今の私」
「は?」
いきなり鉛筆を見せられた意味が解らず、須崎君はポカンと私を見遣った。そんな彼にクスリと笑う。
「ここ、見てよ」
そう言って、アルファベットを指差す。
「これが何か?」
「HBって書いてあるでしょ。つまり、ハートブレイクってことよ。私の心臓、木端微塵なの」
あははっとわざとらしく笑ったあと、私は鉛筆をデスクに放り出し、がっくりと俯いて黙りこむ。
今になって、やたらとショックが浮き彫りになってきた。さっきはちょっとだけ塞ぎこんでいた程度だったのに。
きっと、優しい須崎君を見て、必死に抑え込んでいた心が緩んでしまったせいだ。
「あー。なんか、やだなぁ。ウジウジしたくないのになぁ」
私にしては気の弱い発言を零し、顔を伏せたまま盛大にため息を吐く。
すると、須崎君は私の頭を大きな手で撫でてきた。
「落ち込まないでください。塩田先輩には、次の恋が待ってますから」
優しい声と優しい仕草に、思わず目頭が熱くなる。
――あぁ、私は本当に良い後輩を持ったなぁ。
そんな事を心の中で呟いている視線の先に、彼は私が手放した鉛筆を差し出してきた。
「なに?」
須崎君の手の上でコロコロと転がる鉛筆を眺め、首を傾げる私。
「HBはハートブレイクの頭文字ですが、違う意味もあるんですよ」
「どういうこと?」
顔を上げて尋ねると、彼はすぐそばまで顔を寄せてきてニコリと微笑む。
「“惚れてよ、僕に”の頭文字です」
「え?」
彼の言葉が呑み込めずに瞬きを繰り返していると、鉛筆を握らされた。
「そういうことで、今夜は二人きりで食事に行きましょうね」
「は?」
「言っておきますが、先輩の失恋を慰める会ではなく、僕たちの門出を祝う会ですからね」
「ん?」
戸惑う私に構うことなく、彼は私のおでこにチュッとキスをしてきた。そして私のことを見据えると、口角を上げてニヤリと笑う。
「もう、遠慮しませんから」
これまで私は、須崎君の素直で優しい一面しか見たことがない。こんな強引で、しかも“男の顔をした彼”なんて知らない。
私の手から滑り落ちた鉛筆が、カラカラと音を立てて床の上を転がっていった。