(41)半分こ【消ゴム】
同じ会社。部署は違う。身長差あり。
大学一年で顔を合わせたものの、特に進展なしの二人が会社で再会。
地方出身で、人見知りがちの男性社員(隠れイケメン)と。すぐに顔を真っ赤にして照れてしまう、優しい女性社員。
*長文です。お時間のある時にどうぞ。男性視点はやたらと書きやすいので、つい、つい、長くなってしまうのです……。
とある大学の前期試験最終日。
試験開始を前にして、やたらと落ち着かない様子の男子学生がいた。
顔立ちが悪いわけでもないし、背が低いわけでもない。ただ、髪型、服装、持ち物を見ると、どことなく都会に慣れていない印象を受ける。
そんな全体的にモッサリとした彼は、どうやら、消しゴムを忘れてきたらしい。
何度もペンケースとバッグの中を覗いているが、やはり、消しゴムは見つからない。
友人に助けを求めるべく、慌てて周囲に視線を巡らせた。が、すぐさま愕然となる。
残念なことに、彼の友人は誰一人としてこの講義を受講していなかったことに思い至ったのだ。
次いで、左手首に巻かれた時計に目を落とした。開始まで五分あるが、購買までの距離を往復するには明らかに足りない。
「消しゴムがない。どうしよう……」
彼の口から、悲嘆にくれた呟きが漏れた。
担当教授は細かくて厳しいことで有名。間違った解答を二重線で消し、新たに回答を書き込んだとしても、それが有効であるかどうか分からない。
大学に入って三ヶ月ほど経過したというのに、とある地方出身の彼は、ごく親しい者としか付き合いがなかった。克服しようと努力しているものの、人見知りはそう簡単には治らない。
なので、見ず知らずの生徒に、「消しゴムを二つ持っていたら、貸してもらえない?」、あるいは「消しゴムを半分にして、僕にくれない?」という他愛のない頼み事すら出来ないのだ。
「どうしよう……」
もう一度、呟きが漏れる。
そんな彼の視界の端に、手の平が差し出された。不格好にちぎられた消しゴムが乗っている、小さな手の平だった。
ハッとなって手を差し出している人物を見上げたら、小柄な女子学生が立っている。彼女はこの講義の際に見かける程度で、なんとなく顔は知っていても話したことがなかった。
戸惑いがちに見上げている男子生徒に、女子学生がモゴモゴと話しかけてくる。
「あ、あ、あの……。よ、よかったら、これ……」
おそらく、彼女も人見知りをするタイプなのだろう。丸みを帯びた頬が真っ赤に染まっている。
それでも、困り果てている男子生徒を見捨てられなかったのか、勇気を出して声をかけたようだ。
「い、いいの?」
男子生徒の問いに、コクリと頷き返す女子生徒。
「困ったときは、お互い様って言うし……。どうぞ」
そう言って、彼女は真っ赤な顔で小さく笑う。
男子生徒はオズオズと手を伸ばし、消しゴムを握り締める。大事な宝物であるかのように。
「ありがとう!本当にありがとう!今度、君が困っていたら、必ず助けるから!」
「うん」
彼女ははにかみながら頷き返すと、自分の席へと戻っていった。
その背中を見送りながら、男子学生は失態を犯したことに気が付く。
――名前、訊き忘れた!
この講義は一年生の必修科目なので、同学年だということは間違いない。分かっているのはそれだけだ。
名前くらい知っておかないと、恩返しするにも不便かもしれない。
――試験が終ったら、訊きに行こう。
しかし、試験が終わった直後に彼女の友人が迎えに来て、女子学生を連れて行ってしまったのだ。
男子学生には、声をかけて引き留める勇気がなかった。
そして、彼女が困った場面に遭遇することは一度もなく、二人は大学を卒業した。
ところが、偶然とは面白いもので。
もう二度と会えないであろうと考えていた彼女に、思わぬところで再会した。まさか、同じ会社に就職していたとは。
◆◇◆
大学を卒業しても地元に帰ることなく、僕は都内の会社に就職した。
四月上旬の昼休み。社員食堂で食事を終えると、長居することなく席を立つ。
その時、何となく見覚えのある小柄な女性が、食堂に入ってきた。
記憶に残る面影より、幾分大人びた表情。ショートカットだった髪は、背中の半分ほどまで伸びている。
だが、間違いなく、消しゴムをくれた彼女だ。
いつか絶対に恩返ししようと、彼女の顔は脳裏に焼き付けていたのだ。人違いのはずはない。
唖然として見つめていると、彼女がパッとこちらを見てきた。そして、「あっ」と小さく声を上げる。
その表情が驚きからはにかんだ笑みに変わったところを見ると、どうやら僕のことを覚えていてくれたらしい。
ドキドキしながら、ゆっくりと歩み寄った。
「ええと……、その……、久し振り」
大学で四年間過ごすうちに、人見知りは徐々に改善されたものの、思わぬ再会によって、かつてのようにしどろもどろになっている。
「う、うん。ひ、久し振り、だね」
彼女もしどろもどろで返してくる。見た目は少し変わってしまったけれど、頬が真っ赤になるところは少しも変わっていなかった。
そんな彼女の様子に、どこかホッとする。
まるっきり初対面でなければ、そこまで緊張することはない。次のセリフは、割とすんなり口を衝く。
「まさか、会社で会うとは思わなかった。ここ数年で、一番驚いたよ」
苦笑する僕に、彼女はコクコクと頷いた。
「私も、すごくビックリした。同じ大学の人がいるとは思わなかったから」
それは彼女も同じだったようで、先ほどよりは随分と滑らかな言葉が返ってくる。
「でも、試験の時に消しゴムを忘れた時のほうが、驚きが大きいかもな。まぁ、あれは驚きというより、衝撃というか。とにかく、焦った」
そう呟く僕に、彼女がクスッと笑った。
「坂本教授って、本当に容赦なかったもんね」
「あの時は、君のおかげで助かったよ」
改めてお礼を述べると、彼女はフルフルと首を横に振った。綺麗なストレートの黒髪がサラリと揺れる。
「別に、大したことをした訳じゃないよ。気にしないで」
「だけど、恩返しするって言ったのに、結局何もできなかったから。それがずっと気になっていて」
後々(あとあと)になって考えてみれば、なにも彼女のピンチを待っていなくてもよかったのだ。『この前のお礼』と言って、女の子が好きそうなお菓子でも渡せばよかったのだ。
だが、当時はそういうことにまったく気が回らなかった。どことなく田舎くささが抜けない自分は、見た目も中身もどこか足りなかった。
「本当に気にしないで。じゃ、私、そろそろ行くね」
シュンとしている僕に優しく声をかけた彼女は、手の平をヒラリと降って立ち去ろうとした。しかし、再びその背中を大人しく見送る訳にはいかない。
「あ、あのっ」
小さな背中に声をかけると、彼女は不思議そうに振り返る。
「よかったら、名前を……」
今度こそ聞きそびれないようにと、勇気を出した。今度こそ、今度こそ、恩返しをしたかった。
彼女はパチパチっと瞬きをすると、クルリと僕に向き直る。
「山方久美です。総務部に配属されました」
178センチの僕よりも20センチほど低い位置にある頭が、ペコリと下がった。
「僕は嵯峨則之です。営業部に配属されました」
同じような口調で、同じように頭を下げれば、彼女が「営業部かぁ」としみじみ呟く。
その様子に、大学時代の友人に配属先を伝えた時のことが蘇る。皆、一様に苦笑いをしていたのだ。『おっとりしたお前に、営業が務まるのか?』と。
「僕みたいな冴えない男が営業部なんて、やっぱりおかしいよね?」
自分を変えたくて、あえてこの部署を希望したのだが……。
周囲の同期は、お洒落なスーツをサラリと着こなしている。髪型もお洒落だ。
そんな中、僕はどこか浮いていた。人見知りは多少改善されても、お洒落センスは大学一年の頃とそう変わらない。
自嘲気味な呟きに対して、彼女は慌てて首を横に振ってきた。
「そういう意味で言ったんじゃないよ!だって、何年前もことをちゃんと覚えている嵯峨君は、すごく誠実な人だなって思って!だから、きっと、いい営業マンになるんだろうなって!」
小さな手をキュッと握り締めて力説する山方さんは、また、顔を真っ赤にしている。
そんな彼女の様子が、すごく、すごく、可愛いと思った。
以来、山方さんとは顔を合わせれば、何気なく世間話をするくらい親しくなった。
実家から職場に通っていること。
お兄さんが一人、妹が一人いること。
お父さんは自動車の整備工場で働いていて、お母さんが専業主婦であること。
七十二歳のおばあちゃんが、最近、フラダンスにハマったということ。
真っ白な猫を飼っていて、名前が『ポチ』だということ。
そのポチは、妹さんが飼っている金魚を密かに狙っているということ。
家族やペットの話をする時の山方さんは、とても嬉しそうだ。それだけ、彼女は家族を大切に想い、また、家族も彼女を大切に想っているのだろう。
幸せな家庭に育つ彼女が幸せそうに微笑む様子に、僕は日を追うごとに目が離せなくなっていった。
ある日の帰宅時のこと。駅前にあるコンビニで、彼女の姿を見かけた。
レジから少し離れたところに立ち、中華まんが並べられているガラス張りの蒸し器をジッと見つめている。
もうじき五月になる今では季節外れのように感じるが、意外と需要があるようだ。彼女の他にも、二、三人が買い求めていた。
一つ、二つと売れてゆく中華まん。それを見つめる山方さん。その表情は、なんだか困っているように思えた。
特に買うものはなかったが、山方さんが気になって店内へ。
「どうしたの?」
あまりに真剣だったために、僕が店内に入ってきたことには気が付いていなかったようで。声をかけると、ビクッと肩を震わせた彼女。
だけど僕を認識した途端、フニャリと笑った。
「あ、あのね、中華まんが美味しそうだなって思ったの。でも、肉まんとあんまんのどっちにしようか、なかなか決められなくって。夕飯前だから、二個は多いし」
「だったら、その中華まんを夕食代わりにすればいいんじゃない?あと、サラダを買い足してさ」
僕の提案に、彼女は苦笑い。
「今夜は親戚から送ってもらった牛肉を使って、すき焼きなんだ。食べそこなったら、後悔するもん。高級牛肉なんて、めったに食べられないからね」
そう言って、彼女は再びガラスケースに目を向けた。
「すき焼きは食べたいけど、今は中華まんがどうしても食べたいんだよねぇ。んー、どっちにしようかなぁ」
「じゃあ、僕と半分こしようよ」
「え?」
「半分こにすれば、肉まんとあんまんの両方が食べられるよ」
小首を傾げている彼女に、そっと微笑みかける。
すると、「いいの?」彼女が遠慮がちに訊いてくるから、大きく頷いてやった。
「小腹が空いていたから、ちょうどいいよ」
僕の返事に、「やったぁ」と小さく呟いた山方さんは、またフニャリと笑う。
その笑顔がめちゃくちゃ可愛くて、いつものように目が離せないのだった。
山方さんに抱く想いは、ほのかに甘酸っぱくて、幸せな気分にさせてくれる。
出来ることなら、彼女と付き合いたい。
だけど、彼女が僕のことをどう思ってくれているのか、尋ねる勇気はなかった。
とはいえ、諦めるつもるなど一切なかった僕は、まず、仕事に打ち込むことにした。結果を出せば、きっと、自分の中で何かが変わるはずだ。
自分に自信を持つことが出来れば、この想いを彼女に伝える勇気も生まれるはずだ。
話術に長けているとは思っていないので、とにかく、誠実な態度で得意先回りをこなす。
そこで、奇跡が起きた。
入社して一年しか経っていない僕に回ってきた仕事は、難攻不落とされるA社との契約をもぎ取ってくること。
何人もの先輩が訪ねていったのだが、話を聞いてくれるものの、契約には至らず。
そこでしびれを切らした部長が指名したのが、僕だったのだ。
若輩者の僕が訪ねていったところで、先方が怒ったりしないだろうか。『こんな若造を送り込んで、我が社を舐めているのか!』なんて、言われたりしないだろうか。
しかし、部長命令には逆らうことが出来ずに、おっかなびっくり出向くしかなかった。
途中で、粋な着物姿のご老人が困り顔で歩道に立ち尽くしているのを目にする。下駄の鼻緒が切れたらしい。
周囲に人はいるけれど、そのご老人に手を貸そうとする人はいなかった。
「あ、あの……」
思い切って歩み寄り、声をかけた。
「よかったら、鼻緒を直しましょうか?」
見事な白髪を後ろに軽く撫でつけた、お洒落なご老人は一瞬ポカンとなる。そんな彼に、笑みを浮かべる。
「僕の祖父が、趣味で下駄や草履を作る人だったんです。子供の頃にずっと見ていましたので、直せると思います」
すると、ご老人はホッと安堵の息を漏らす。
「それは非常に助かる。お願いしてもいいだろうか」
年齢に相応しく、ややしわがれた声ではあるが、芯のある力強さが感じられた。若い頃は、相当やり手のサラリーマンだったのだろうか。僕も、こういう年齢の重ね方をしたいものだ。
「では、下駄を貸してください」
鼻緒がプラリとぶら下がる下駄を受け取ると、ご老人を手近なガードレールに寄りかからせた。
僕はその場にしゃがみ込み、上着のポケットに入れてあるハンカチを取り出し、歯で切り裂いた。細く裂いた生地を縒り、鼻緒を直してゆく。
祖父のようにうまく出来なかったが、応急処置としてはまずまずだろう。僕は下駄をご老人に差し出す。
「多少歩く分には大丈夫でしょうが、やはり、専門のところで修理してもらった方がいいですよ」
嬉しそうに下駄を受け取ったご老人は、下駄に足を通して満足そうだ。喜んでもらえて何よりである。
「いや、人を呼ぼうにも、携帯電話を家に忘れてしまってな。ありがとう。君のおかげで助かった」
「役に立ててよかったです。では、僕はこれで……」
そこで、そのご老人とは別れたのだが。
尋ねた先のA社で再びその姿を目にした時は、心底驚いた。しかも、会長と聞いて、魂が抜けるほど驚いた。
さらに、僕の人柄を見込んでくれて、契約の話を取り成してくれた。
A社の営業担当さんは、『見る目が厳しい会長がそう仰るのでしたら、是非とも、一緒に仕事をさせてください』と、逆に頭を下げられ、魂が本当に抜けたかと思った。
信じられない。こんな簡単にいくものだろうか。絶対、夢に違いない。
しかし、夢ではなかった。
正式な契約書を取り交わすのは後日になるが、確かに、A社はウチの会社と取り引きをすると言ってくれたのだ。
驚き過ぎて、喜びを通り越してしまった。
呆然とした足取りでA社を後にしていたのだが、しばらく歩いたところでハッと我に返る。
「そ、そうだ!とりあえず、部長に電話を!」
これから社に戻るのだから、話はそれからでもいいかもしれないが、良い知らせは少しでも早い方がいいだろう。
すぐさま電話をすれば、話を聞いた部長が電話の向こうで歓喜の雄たけびを上げた。
『よくやった!嵯峨、お前は本当によくやった!』
感極まった部長に涙声で褒められるが、自分は下駄の鼻緒を直したことと、いつものように誠意を篭めて話をしただけに過ぎない。
逆に気恥ずかしさを感じていれば、『疲れただろう?今日は、直帰していいぞ!』と提案される。
正直、疲れているわけではないのだが、テンションが振り切れている部長に対峙するのは難しいかもしれない。
お言葉に甘えて、そのまま家に帰ることにした。
駅に着く直前で、バッグの中のスマートフォンが小刻みに震え出す。取り出して画面を見ると、五歳離れた兄からの電話で、時間があるなら一緒に食事をしようとのことだった。
美容師を目指していた兄は、僕と同じように地元を離れて都内の専門学校に通い、そのまま東京で暮らしている。
だが、男兄弟など、そうそう顔を合わせることはない。兄は僕を心配して数日おきに電話を掛けてくるが、こうして会うのは半年振りくらいだ。
電車を乗り継ぎ、待ち合わせ場所に向かえば、同じ母親から生まれた兄弟とは思えないほど、かっこいい男性が立っていた。
兄は僕を一目見るなり、盛大に眉をしかめる。
「則之、お前はもう少し垢抜けた方がいい。いくらなんでも、そこまでくると野暮ったいぞ。営業マンなんだから、もっと、身なりに気を付けろよ」
都内の美容院で働く兄は、髪も、服装も、靴も、すごくお洒落だ。おまけに、背が高くて顔立ちも整っているのだから、周りにいる女性たちがチラチラと兄のことを窺っている。それは、僕が地元にいた時から変わらない反応だった。
そんな兄のことは自慢であるが、同じようになろうと考えたことはない。僕には無理な話である。
「清潔にしてるよ」
苦笑いしながら言葉を返すと、やれやれと肩を竦める兄。
「そうじゃなくてさ」
「兄さんはかっこいいから何を着ても似合うけど、僕は無理だよ」
「無理はもんか。お前だって、その野暮ったいスーツとモッサリした髪型を変えれば、かなりかっこよくなるぞ。則之は分かってないが、お前の顔だって整ってるんだぞ」
「えー、そうかなぁ?」
生まれてこの方、そんなことを思ったことがない。
首を捻っていると、兄が僕の左手首をガッと掴んだ。
「な、なに?」
「飯の前に、お前をどうにかしてやる」
「は?」
「俺の職場はここから近いからな」
そう言って、ズンズン歩き始める兄。
「ちょ、ちょっと、待ってよ!別に、今の自分で困っていることはないし!」
「馬鹿言え!好きな女が出来た時、少しでもかっこいいって思われた方がいいだろうが!」
「そ、それは……」
兄の言葉に、山方さんの顔が浮かんだ。
彼女は身なりで人を判断することはしない。兄が言うモッサリ野暮ったい僕でも、笑顔で接してくれている。
だけど……。
――かっこいいって思ってくれたらいいな。
変わった僕を見て、山方さんはどんな風に笑ってくれるだろうか。
やっぱり、顔を真っ赤にするのだろうか。
兄に連れてこられた美容院で、髪を切られ、少しだけ明るい茶色に染められ、次いでとばかりに、スーツまで買いに行くことに。
「則之はスラッとしてんだから、もうちょっと細めのスーツが似合うんだよ。なんだって、親父みたいなダボッとしたスーツを着てんだ?」
何着ものスーツを僕に宛がいながら、「この色は違うなぁ。こっちはどうだ?」と、ぶつくさ言っている。
こうなった兄は止めることが出来ないので、僕は大人しくされるがままに。
そして、「よし、これだな」と頷いた兄が、スーツを押し付けてくる。
「試着して来い」
「え?これを?」
僕は大いに戸惑った。いわゆる「もてスリム」と言われるスーツなど、似合うはずがないのだ。
スーツを手に立ち尽くしていると、「さっさと行け」とばかりに兄が睨んでくる。
仕方なく試着室に向かった。
中にある鏡に背を向け、もそもそと着替える。鏡を見る勇気なんて、これっぽちもない。
着替えを済ませて試着室を出ると、すぐそばにいた兄がニンマリと笑った。
「さすが、俺。いい仕事するなぁ。則之、似合ってるぞ」
僕の姿をしげしげと眺め、満足そうに顎を擦る。その表情に嘘は感じられなかった。
恐る恐る背後の鏡を覗きこめば、目の前の兄をもう少し細くして、やわらかい印象にしたような男性が立っていた。
「……え?」
自分の姿が信じられずに鏡を凝視していると、ポンと肩を叩かれる。
「そのスーツは、俺からのプレゼントだ。同じタイプで、落ち着いたブルーのスーツも買ってあるぞ」
「で、でも、美容院もお金払ってないし」
「ちょっと遅いが、就職祝いだ。遠慮なく、受け取れ」
ポンポンと大きな手が、僕の肩を叩いてくる。
「ありがとう」
強引なところがある兄だが、やっぱり優しくて頼もしくて自慢の兄だ。
それから近くのレストランで、互いの近況を報告しながら食事をした。
店を出て、それぞれの帰途に着く前に、僕は改めて頭を下げる。
「今日はありがとう」
「いいって、いいって。たまには、兄ちゃんらしいことさせろよ。じゃあな」
「うん、おやすみ」
「おやすみ~」
ほろ酔いの兄は、ヒラヒラと手を振りながらタクシーに乗り込んでいった。
翌日。兄から貰ったスーツを纏い、教わった通りに髪型をセットする。
長かった前髪がバッサリ切られ、目元が丸見えで何となく恥ずかしかった。見慣れないせいで違和感はあるものの、自分としても悪くないと思う。
「山方さんは、こういう髪型が好きかなぁ」
難しいとされていたA社と契約することが出来て、そして、兄のおかげでこれまでよりかっこいい自分になれた。
彼女に想いを告げるには、いいタイミングかもしれない。
「……よし」
鏡の中の自分をグッと見据える。
「告白しよう」
そう力強く宣言する顔は、自信を漂わせているものだった。
営業部に入ると部長が僕のところに飛んできて、昨日の勢いと全く変わらない状態で出迎えてくれた。
喜んでくれるのは非常に嬉しいが、肩を力いっぱい叩かれるのは困る。
痛みで僅かに顔を引き攣らせていると、周りのみんなも「よくやった」、「おめでとう」と口々に言ってくれる。
そして、部長と同じく、僕の肩や背中をバンバン叩いてきた。痛い。割と、本気で痛い。
嬉しい洗礼を受けているうちに始業時間となり、僕はどうにか解放される。
こんなに騒がれるのも、二、三日のことだろう。やれやれと肩を擦りながら、自分の席に向かった。
しかし、この先に待っていたのは、予想だにしなかった展開だった。
兄から贈られたスーツとお洒落な髪形のおかげか、この日を境に、僕は女子社員からやたらと声をかけられるようになった。
自分の部署だけではなく、面識のない他部署の女子社員から親し気に話しかけられ、時には食事や映画に誘われるように。
ありがたいことではあるが、僕は山方さんが好きなのだ。今は例え片想いでも、告白をするまで、山方さんには誠実に接したい。
次々に訪れる女子社員たちには角が立たないように真面目な態度で断りを入れるけれど、どういうわけか後を絶たないのだ。
同僚が言うには『嵯峨はかっこよくて、仕事が出来て、誠実な人なんだと。それで、恋人にしたいランキング急上昇中らしいぞ』とのこと。
なんだ、それは?僕はそんなに立派な男じゃないぞ?
それから、これは誰にも言えないことだけど、見た目が変わったり、大口の契約を取ってきたからといって、僕に近付こうとする人たちは信用できなかった。
かっこいいと思ってもらえることも、仕事ができると思ってくれることも、嬉しいには嬉しい。
だが、僕の中身は基本的には変わっていない。少しは自信がついてきたけれど、僕はやっぱり僕のままだから。
それと、予想だにしなかった展開のパート2。
なんと、山方さんが素っ気なくなってしまったのだ。
いつものように話しかけてみても、彼女はチラチラと周囲を伺い、どういうわけか申し訳ないといった表情に。
二日経ち、三日経つうちに、山方さんは明らかに僕を避けるようになった。告白しようにも、タイミングが掴めない。
せっかく彼女にかっこいいと思ってほしかったのに、この変身は失敗だったのだろうか。山方さんは、こういう格好をした男性が苦手だったのだろうか。
とにかく、彼女を捕まえて話をしないと!
数日に亘る鬼ごっこの末、僕は帰宅途中の彼女を捕まえることが出来た。
「あ、あの……、放してくれる?」
彼女の手首をしっかり掴んで足を進める僕に、山方さんは泣きそうな声でそう言ってくる。もちろん、放すわけがない。
いや、放してあげるけれど、それは今ではない。
無言で歩き、小さな公園までやってきた。
外灯が辺りをぼんやりと照らす園内には、僕たち以外は誰もいない。そこでようやく足を止めた。
手を離さないまま振り返り、ジッと山方さんを見つめる。
「ねぇ。どうして、僕を避けるの?」
彼女は力なく俯き、黙り込んでいた。
「もしかして、僕の恰好が変だから、近寄りたくない?」
問いかけると、フルフルと首を横に振る山方さん。
「気が付かないうちに、僕が山方さんに失礼なことをしたとか?」
この質問にも、彼女は首を横に振って答える。
「だったら、どうして僕を避けるの?」
掴んだ手首を軽く揺すり、答えを促した。
しばらく沈黙が流れたあと、彼女の口から「……どうして?」と、微かに声が零れる。その声は震えていた。
「山方さん?」
彼女を呼ぶが、それきり黙ってしまった。
こういった場面には全く慣れていない僕は、彼女にかける言葉が見つからない。結果として、僕も黙り込んでしまう。ただ、ただ、彼女のつむじを見つめるばかりだ。
どうしたらいいのだろうかと途方に暮れていると、彼女の足元に水玉が出来始めた。ポツン、ポツンと増えてゆく水玉は、山方さんの涙だ。
たまらなくなって、思わず彼女を抱き締めた。小柄な彼女が、スッポリと腕の中に収まる。
そのことが切ないほど幸せで、もっと味わおうとしてギュッと抱きしめた。
すると、山方さんは大きく身をよじって、逃げようとする。
「放して!お願い、放して!」
さっきとは打って変わって、大きな声で彼女が叫ぶ。
だけど、放すわけにはいかない。
ますます腕の拘束を強めれば、山方さんが拳で胸を叩いてくる。
「どうして、私に構うの!?嵯峨君の周りには、たくさん人がいるでしょう!?」
一段と声を張り上げる彼女に、僕も大きな声で言い返した。
「そんなの関係ない!山方さん以外の人は、関係ないんだ!」
その声に驚いたのか、彼女の拳がピタリと動きを止める。
「……嵯峨君?」
こちらを見上げてくる目は、涙に濡れている。
困惑に揺れる瞳から目を逸らさずに、僕はゆっくりと口を開いた。
「僕、決めてたんだ。仕事で結果を出せたら、山方さんに告白しようって。会社のためでもあるけど、自分のために頑張って仕事をしてきた。意気地なしだから、なにかきっかけが欲しくてさ」
それを聞いて、彼女の瞳がますます大きく揺れる。
「そんな、でも……。嵯峨君は難しいって言われていたA社と契約しちゃうし、急にかっこよくなっちゃって。それに、嵯峨君の周りにいる人って、みんな可愛いとか綺麗な人ばっかりだし……。私なんかじゃ……」
語尾が弱まるにつれ、彼女の手がだらりと下がる。小さな頭も、シュンと項垂れる。
華奢な肩がとにかく愛おしくて、このままずっと、時間が止まってしまえばいいとさえ思ってしまった。
いや、その前に、自分の想いを伝えなくては。
大きく息を吸い込み、無駄な力を抜いた。
「山方さん以外の人は関係ないって言ったでしょ。僕が好きなのは、山方さんだよ。……僕と付き合ってください。お願いします」
生まれて初めての告白。自信のなさからか、最後が敬語になってしまったのが僕らしくて、何だか笑える。
彼女は何も答えず、ただ、ただ、ジッとしている。
そんな彼女の耳元に唇を寄せ、静かな告白を続けた。
「消しゴムを半分こしてくれたあの日から、ずっと気になっていたんだ。そして、会社で再会して、ますます好きになっていった。これからは色々なことを半分こしようよ。楽しいことも、悲しいことも、二人でさ」
最後に「山方さんが好きなんだ」と、精一杯優しい声で告げれば、顔を伏せたまま『私でいいの?』と呟く山方さん。
「何回だって言うよ。山方さん以外の人は関係ない。山方さんだから好きなんだ。僕と付き合ってくれる?」
艶やかな黒髪に頬ずりすると、その頭がコクンと頷く。
「わ、私も……、嵯峨君が、好き……」
震える涙声の告白は、僕の心臓をズバッと貫いた。
「うっわ!山方さん、可愛い!すごく可愛い!」
ギュウギュウ抱き締めていると、また拳で胸を叩かれる。
「ちょ、ちょっと、力を緩めて!痛いって!」
「あっ、ごめん!嬉しくて、つい」
慌てて少しだけ力を緩めると、最後にポスンと軽く叩かれた。
「……嵯峨君の、バカ」
照れ隠しのように素っ気なく告げられた声が、少しだけ笑っていて。
黒髪からチラリと見える耳が、薄闇でも分かるくらい尋常じゃないほど赤く染まっていて。
「……でも、好き」
なんて掠れた声で言われたら、もう一度、力いっぱい抱きしめてしまうのも無理はない話だと思う。




