(40)職場では心穏やかに過ごしたいという私の願いは、神様に届くのでしょうか?【カッター】
同じ会社の同じ部署。年の差は一歳。身長差あり。結婚を間近に控えた男性上司を、思いつめた目で見遣る女性社員と。そんな女性社員を好きな先輩男性社員。
注)三角関係にはなりません。不倫にもなりません。
とある会社の、経理部。そこでは、毎朝恒例の朝礼が行われていた。
いつもであれば、業務に関する連絡事項を部長や課長、主任から伝えられて終わりという流れだが、今日は違った。
業務伝達を終えた後、部長が自分の左に立つ経理部一課の篠山主任を笑顔で見遣った。
「実はな、篠山君が結婚することになった。お相手は、大学時代に知り合った同級生だそうだ」
その報告に、部内が『おめでとうございます!』という歓声と、大きな拍手に包まれる。
それに対して、主任は少し照れたように笑い、軽く頭を下げた。
「式はいつですか?」
「奥さんはどんな人ですか?」
などなど、口々に質問が飛び交う中、
「前祝いの席を設けるから、その時に目いっぱい問い詰めろ。さぁ、みんな。仕事だ」
という部長に促され、各自がデスクへと向かう。
「篠山主任は優しくて責任感があるから、奥さんになる人が羨ましいよね」
「確かに。きっと、素敵な家庭になるんだろうなぁ」
「朝からおめでたい話が聞けて良かったね」
「うん。嬉しい話を聞くと、仕事を頑張ろうって気になるよ」
同僚たちは、主任の結婚を心の底から喜び、笑顔で言葉を交わしている。
そんな中、私、松井清美は、複雑な表情で足を進めていた。
話題の篠山主任は、二十三になったばかりの私より、五歳上。
面倒見が良くて、物腰が優しい。そして、「これは」という部分では、きちんと筋を押し通す、理想的な上司だった。
自分のデスクでテキパキと書類をさばいている篠山主任をこっそり覗き見て、私はやりきれないため息を零す。
――とうとう結婚しちゃうのかぁ。
複雑な感情が胸の奥で渦巻き、パソコンのキーボードを打つ手が何度も止まってしまう。
気持ちを仕事モードに切り替えなくてはと言い聞かせても、主任の姿が視界に入ると、途端にモヤモヤとしたものが湧き上がってきた。
――これから先、毎日、こんな思いを抱えなくちゃいけないのか……。困ったなぁ……。
私はまたため息を零した。
昼休みに大好きなお店でお気に入りのランチメニューを食べても、私の気分は鬱々としたままだった。
食事を終えて戻ってきた主任が自席でコーヒーを飲んでいる姿を眺め、私は決心する。
――いつまでもこんな気分でいるのは嫌だ。やっぱり、自分の気持ちはきちんと言っておかないと。
もしかしから、これは私の身勝手な告白かもしれない。
だけど、このままズルズルと引きずる日々を考えると、ここでけじめをつけるべきだ。
私は大きく息を吸い込むと、スクッと席を立つ。
「篠山主任。今、よろしいでしょうか?」
どこか強張った表情の私を、主任が不思議そうに見上げてきた。
「どうした?」
「お話がありますので、お時間を頂けたらと」
「分かった」
私の真剣な様子に、主任は穏やかな笑みを浮かべて席を立つ。そして、私を伴い、経理部を後にした。
主任はスラリとした体躯だが、そこはやはり男性だ。背中が広く逞しい。そんな背中を見つめながら、私は無言で足を進めた。
やがて周囲に人がいない廊下の突き当りまでくると、主任は足を止めて振り返る。
「話って、なにかな?」
「実は……」
私が切り出した話を聞き終えた主任は、困った様に笑っていた。
それから数時間後。
私は定時を過ぎても、仕事をしていた。
気持ちが揺れ動き、ろくに作業を進められなかったせいで、残業になってしまったのだ。
プライベートな理由で業務に支障をきたすなど、社会人としては恥ずかしい。
だが、こういう日があっても仕方がないではないか。私はロボットじゃない。完璧に感情をコントロールできるほど、出来た大人でもない。
やりきれない想いを抱えながらも、それでもどうにか仕事を終えることが出来た。
「やれやれ、帰りますかねぇ」
ポツリと呟いた私は、なんとはなしに、デスクの上にあったカッターを手に取った。
チキチキと小さな音を立て、カッターの刃を出す。
それをぼんやりと眺めていた時、右手首をグイッと掴まれ、強引にカッターを奪われた。
「え?」
突然のことに驚いてギョッと見上げると、そこに立っていたのは一つ年上の久慈大祐先輩。
先に帰ったはずの先輩は、鬼気迫る顔で私を睨んでいた。
「ったく、心配になって、戻ってきてよかった!松井、そんなに思い詰めるな!」
私と先輩しかいない部屋に、大きな怒鳴り声が響く。
突然怒鳴られたことに驚いて、そして、先輩が言ったセリフの内容が理解できなくて、ポカンとなる私。
すると久慈先輩はカッターを床に投げ捨て、私をギュッと抱きしめてきた。
いっそう訳が分からない展開だ。なぜ、先輩にカッターを奪われ、あげくに抱きしめられているのだろうか。
「あ、あの、先輩?」
オズオズと声をかけると、さらに強く抱きしめられた。
私よりも頭一つ半ほど背が高い先輩は、長い腕でしっかりと私を包み込む。
「失恋を忘れるには、新しい恋をするべきだ。俺なら、松井を大事にするから!」
痛いほど抱きしめられながらも、私は湧き上がる疑問を投げかける。
「失恋とは、なんでしょうか?」
すると先輩はガバッと身を起こし、私の肩をグッと掴んで視線を合わせてきた。
「篠山主任に失恋したんだろ?結婚の報告を聞いてから、お前の様子は明らかにおかしかった」
先輩の言葉に、首を傾げる。
「いえ、その……、私は、失恋なんてしていませんが」
「……は?」
今度は先輩がポカンとなった。
「違うのか?松井は篠山主任が好きじゃないのか?」
問いかけに、しっかりと首を横に振る私。
「上司としては尊敬していますけど、恋愛感情はありません」
すると、先輩の目がカッと大きく開かれた。
「だったら、どうしてマジマジとカッターを見てたんだよ!?」
その迫力に腰が引けてしまったが、先輩に肩を掴まれているので身動きが取れない。
中途半端に仰け反った姿勢で、私はポツリ、ポツリと話し始めた。
「あの、それはですね。昨夜、テレビでカッターの刃の研究開発ドキュメンタリーを見まして。切れ味が落ちたらすぐに新しい刃に変えるために、ポキッと簡単に折れる仕様にしたんだそうです。その発想の元が、なんと板チョコだそうでして。それを思い出して、いいアイディアだなあって、改めて感心していたんですけど」
説明を進めてゆくと、先輩の表情から緊迫感が抜け落ちる。
「なんだよ、それ……」
深々とため息をついた久慈先輩はガクッと脱力し、私の肩に額を乗せた。
「てっきり、失恋を苦にして、手首を切るんだと思った……」
そして再度大きく息を吐くと、バッと顔を上げる。
「まぁ、いい。飯を食いに行くぞ」
「はい?」
先輩は私のバッグと自分のバッグを片手で纏めて持つと、もう一方の手で私の手首を掴み、スタスタと歩きだしてしまった。
それから、雰囲気の良いイタリアンレストランに連れてこられた。
各席が半個室になっている店には、食欲をそそるいい匂いが漂っている。
注文を済ませた先輩は、正面から私をジッと見遣ってきた。
「それにしても、松井は、なんであんなに考え込んでいたんだ?」
私は話してしまおうかどうか迷い、口を開けたり締めたりを繰り返す。しかし、先輩は鋭い視線で私を促すので、渋々話し出した。
「いずれ、主任から説明があると思いますが。主任の結婚相手は、私の姉なんです」
先輩の片眉が、訝しげに上がる。
「それで、あんなに思い悩むか?」
「上司が身内になるって、複雑じゃないですか?しかも、篠山主任は、直属の上司ですし」
手慰みに水の入ったグラスを弄っていると、先輩はやれやれと言った感じで改めて片眉を上げた。
「その気持ちはわからないこともないが、それにしたって」
ゴクリと水を飲んだ先輩に、私は苦笑を浮かべる。
「それ以上に複雑な事情があるんです。主任は男ばかりの四人兄弟の末っ子だそうでして、ずっと妹が欲しかったそうなんですよ。それで、姉から主任を紹介されて以来、やたらと構ってくるんです。今まではさすがに弁えてくれていましたけど、姉と結婚することで、私とは義理の兄妹という関係が公然となる訳です。そうなると、確実に会社でも構ってくる訳で……」
『兄である俺が、清美ちゃんをしっかり面倒見ないとな!会社でも、遠慮なく俺を頼ってくれ!』
昨晩、私の家族と主任の家族が集まって食事会をした。
その席で、明日、会社に結婚の報告をするという話になった時、主任は声高にさきほどの宣言したのである。
そこにあるのは、兄としての責任感だけ。他意がないことは、私も姉も十分承知だ。
しかし、社内で必要以上に私の構うのはやめてほしい。そのことをお願いするために、今日の昼に話を持ち掛けたのだが。
案の定、主任は首を縦に振ってくれなかった。
『それは聞き入れられないな。清美ちゃんは、俺の妹だからね。悪い虫を追い払うのは、兄として当然だよ』
なんだろうか。この、無駄な使命感は。
おかげで私はやりきれない想いを抱えまくって、仕事に支障をきたしてしまったのである。
説明を聞き終え、先輩がガクリとテーブルに突っ伏す。
「俺の早とちりかよ。カッコわりぃ……」
「ええと、なんか、すみません」
どうしていいか分からず、とりあえず謝ってみれば、先輩はハッとなった様に起き上がった。
「落ち込んでいる場合じゃなかった!これからは、手強い篠山主任を相手にすることになるんだ!」
ブツブツと何ごとかを呟いた先輩は、お絞りを取ろうとしていた私の手をギュッと握り締める。
「ひゃっ!」
咄嗟に手を引こうとするが、先輩は力を緩めなかった。
「松井!俺はお前が好きだ!主任がどんなに妨害しようとも、俺は、絶対にお前を恋人にするからな!」
「ええっ!それは、ちょっと、困ります!」
「困るってなんだよ!?俺は諦めないぞ!」
「先輩、落ち着いてくださいよ!」
思わず二人とも声が大きくなってしまい、半個室である店内には、このドタバタな告白劇が筒抜けである。
そこかしこから、「そこの男性、頑張れよ!」とか、「きゃー!情熱的な告白って、素敵!」とか、そして、指笛までもが聞えて来てしまった。
そういったお客さんを嗜める立場である店員さんも、なぜか全員で拍手喝采だ。
直属の上司が義兄で、同じ部署の先輩が恋人になるだなんて、精神的にいっぱいいっぱいなんですけど!?
篠山主任の件は既にどうにもできないとしても、せめて久慈先輩の件だけは!
しかし、力いっぱい私の手を握り締める先輩からは、どうしたって逃げられそうになかった。




