(4)赤いのはどっち?【赤のスタンプ用替えインク】
会社員同士。年齢差は一、二歳程度。身長差は二十センチ。
明確な部署の設定はないですが、イメージとしては総務部。
少々慌て者の先輩男性社員と、かなりのんびり屋の後輩女性社員。
午後四時にもなれば、本日分の仕事に目処がつく。
他に急ぎの仕事もない私は、デスク周りの片付けをすることにした。
不要になった書類をシュレッダーにかけたり、いつの間にか色々なところに紛れ込んでいたクリップを集めたり、書けなくなったボールペンを捨てたり。
そんな事は日頃からしておけばいいのだろうが、のんびり屋の私は、こうして時間が出来た時に片付けに入る。
でもね、別にズボラってわけじゃないんだよ。デスクの上はそれなりに綺麗だし、仕事に支障が出るような無くし物をしたこともないしね。
デスクの上の整理を終えると、今度は引き出しの片付けに取り掛かる。先程同様に要らないものを処分しているうち、スタンプ台に目が留まった。
私は電話番を担当することが多く、そのため書き留めたメモには『至急返信』とか『FAX済』などのスタンプを押して、より伝達がスムーズにいくように心がけている。
「そういえば赤のスタンプ台、写りが悪くなってたなぁ」
私は備品を収めている一番下の引き出しを開け、補充用インクのボトルを取り出した。
クルクルと蓋を回し取ったその時、グラリと一瞬だけ建物が揺れる。
「えっ、なに?なに?」
「地震だ!速報は?!」
「収まったかしら?」
「震度三だって」
「余震はないみたいだけど」
「びっくりしたなぁ」
といった具合に周囲が騒然とする中、こんな時でも私は椅子に座ったまま悠然と構えている。ぼんやりしているんじゃないよ、肝が据わっていると言ってほしいね。
だが、実は私も少しは慌てていたようで。
揺れた瞬間に、ソフトビニルで出来たインクボトルをグッと握り締めてしまった。おかげで、注入口から溢れだした真っ赤なインクが右手に滴っている。
「うわぁ、参ったなぁ」
そうは言うものの、特に慌てることはなかった。やってしまったものは仕方がない。慌てたところでどうにもならないのだ。
私は右手の様子を観察する。
ブラウスの袖口に少しだけインクが染みているが、上着を来てしまえば隠れるので帰宅時に問題はない。
とりあえず、デスクに零れたインクと真っ赤な右手をどうにかしなくては。
私が思案していると、仕事で外出していた一人の男性社員が帰ってきた。
先輩社員の北岡さんは上司への報告を終えると、自分のデスクに足を向ける。
ちなみに、彼の席は私の隣。つまり、北岡さんの視線の先には、真っ赤な右手を晒している私が座っていることになる訳で。
「東野⁉」
私の苗字を呼んで、先輩が固まった。……かと思えば、ものすごい勢いで駆け寄ってくる。
「どうしたんだよ、これ!」
くっきり二重を大きくして私の右手を凝視している北岡先輩に、
「え?」
と、一言だけ返す私。
そんな私に、先輩の目がクワッとさらに大きくなった。
「“え?”じゃねえよ!いくらなんでも、こんな時くらい慌てろ!のんびり屋にも程がある!」
――ん?こんな時って?
彼が言わんとする意味が分からず、首を傾げてぼんやりと目の前の彼を見上げる。
「なんだよ。びっくりしすぎて腰抜けたのか!?でも、大丈夫だ!俺に任せろ!」
叫ぶようにそう言った彼は、スーツのポケットから清潔なハンカチを取り出して私の右手にグルグルと巻きつける。
そして、私をいきなり抱き上げた。親が子供を腕に抱き上げるような形ではなく、いわゆるお姫様抱っこ。
先輩とは頭一つほどの身長差があるので、抱き上げられると視線が一気に高くなる。
ここでもう一度言うが、今の私は北岡先輩に“お姫様抱っこ”されているのだ。
これにはさすがの私も非常に驚いた。
「な、な、なんで⁉」
いつになく焦った声を先輩に投げかけると、彼はバタバタと走り出す。
「医務室に行くんだよ!こんな状態、放っておけるか!」
「え?え?え―――――?!」
この展開が全く飲みこめず、私の絶叫が室内に響き渡った。
成人女性の私を抱えているのに彼の足取りはふらつくこともなく、全速力の勢いで廊下を駆けてゆく。
一体、何がどうして、こうなっているのだろうか。
「あ、あのっ」
「黙ってないと舌を噛むぞ」
そう言われたら黙るしかない。痛いのは嫌だ。いくらぼんやり気味の私でも、痛覚は普通にあるのだ。
あれよあれよという間に医務室に到着。私を抱き上げている先輩の両手は塞がっているので、彼は扉を豪快に蹴り開ける。
「な、なんなの!?」
上品な見た目に反して豪快な気質をしているこの部屋の主・西牧さんが、突然現れた乱暴な訪問者に目を丸くした。
「怪我して、真っ赤で、右手を、コイツが」
私や西牧さんだけではなく、なぜか北岡先輩もパニックになっていて、ぜいぜいと肩で大きく息をしながらメチャクチャな事を言っている。
だけど私の事は落とさないように、しっかりと抱き上げてくれていた。
一瞬呆気にとられていた西牧さんだが、すぐに落ち着きを取り戻し、私たちの所に早足で近づいてくる。
そして、私の手を覆っていたハンカチを取り去ると、何度かまばたきをしたあとにフッと軽く笑った。
「笑ってないで、さっさと治療してくれ!」
そんな彼女に怒鳴ると、先輩は私を抱き上げたままズカズカと医務室に入ってゆく。
興奮状態の彼とは反対に、医師である西牧さんは至って静かに言った。
「治療は出来ないわ」
その言葉に、私の目の前にある先輩の顔が引き攣る。
「ここじゃ治療できないほど酷い怪我なのか?!だったら、とりあえず止血だけでも」
「それも無理ね」
あっさり返された言葉に、先輩のこめかみに青筋が浮かんだ。
「なんだと⁈だったら何のための医務室だ!ふざけんな‼」
この大声に、ビクリと私が肩を跳ね上げる。
怒鳴られた当の西牧さんはニッコリ笑い、
「怪我人や病人のための部屋よ」
と、穏やかな口調で言った。
そんな彼女の様子に、先輩のこめかみがヒクリと動く。
「それなら!」
なおも、ものすごい剣幕で医師に言い寄る北岡先輩。
この事態に黙っていることが出来ず、私はオズオズと口を開いた。
「これ、血じゃないんです」
「……は?」
形の良い先輩の目が驚きに見開かれる。
その顔を見上げながら、
「スタンプ台にインクを補充しようとして、そのインクが零れただけで。怪我をしたわけじゃないんです」
それを聞いた彼は、私を抱き締めたままヘナヘナと座り込んでしまったのだった。
医務室に備え付けられている手洗い場で、出来る限り綺麗にインクを流し終えた。肌にインクが染みて少し赤みが残っているが、ここまで落ちればおかしくないだろう。
「お騒がせしました」
「怪我じゃなくて、よかったわ」
苦笑いを浮かべている西牧さんに頭を下げ、私と北岡先輩は医務室を後にした。
気まずそうにしている先輩にかける言葉が見つからない。横並びになって黙って廊下を歩いていると、隣からポツリと声が降ってきた。
「……笑ってもいいんだぞ」
その言葉に首を捻る。
「なんで先輩の事を私が笑うんですか?」
尋ねると、北岡先輩はバツが悪そうにガシガシと頭を掻いた。
「ただの赤インクを血だと思って、一人で大慌てしてさ。俺、すげぇカッコ悪いよなぁ」
そう言った後、盛大にため息を吐いて肩を落とす北岡先輩。
そんな先輩に歩み寄って、何やら気落ちしている顔を見上げた。
「笑いませんし、カッコ悪くもないですよ。あそこまで心配してくださった理由が分かりませんが、私が大怪我をしたと思ったんですよね?だったら、笑うなんて出来ませんよ」
ニコッと笑顔を向ければ、先輩はおもむろに視線を逸らし、
「……なんで分かねぇんだよ」
と、低い声で呟いた。
「何のことですか?」
パチパチと瞬きすると、先輩はまた大きくため息を吐く。
「お前のことが大切だから、インクと血を見間違えるほど慌てたんだよ。そんな俺の気持ち、いい加減に分かれ」
それでも私には彼が何を言いたいのか、いまいち理解できない。
「北岡先輩?」
呼びかけると、彼は足を止めて私をジッと見つめてくる。
そして。
「お前のことが好きだってことだよ。今度は分かっただろうな?」
と、言ってきた。
ストレートに言われてしまえば、のんびり屋で鈍い私でも即座に理解できる。
「う、う、うわぁ!本当ですか⁉」
絶叫する私の顔が、インクに負けないくらい赤くなった。