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(38)甘やかな教育的指導【油性マジック(黒)】

同じ会社、同じ部署。年の差は、四、五歳くらい。身長差、体格差。社内で人気の高い爽やか系イケメン先輩男性社員と。おっちょこちょいで、自分に向けられる好意にはとことん鈍い後輩女子社員。


 午後の仕事が一段落したところで、私は黒の油性マジックを取り出す。

「さて、やりますか」

 そう呟いてから、デスクの上にずらりと並べた備品たちにマジックを走らせた。


 共同スペースに置かれている備品は、部内の誰が使ってもいいことになっていた。

 しかし、行方不明になることが多く、ずっと気になっていたのだ。自分の所持品ではないということで、片付けるという意識が低いのかもしれない。

 おかげで、他部署の社員が『これ、会議室に置きっぱなしになっていたんだけど。もしかして、総務の備品?』という具合で持って来てくれることもある。

 総務部の社員は明るくて大らか。それは、私にとって働きやすい職場であるけれど、大らかは時として「大ざっぱ」とも言える。

 私だって、そんな細かいことをいちいち気にしていたくはない。けれど、備品管理を任されている身としては、少しばかり神経質にもなったりするのだ。

 一つ一つ丁寧に『総務部庶務課』と油性マジックで書いてゆく。こうすれば、いくらかでも皆が意識するだろうか。……いや、してくれないと困る。

 黙々と作業を続けること一時間。

 やっと、最後の備品に記入を終えた。

「んー、肩が凝ったぁ」

 マジックを持ったまま、グンと背伸び。ところが、大きく腕を伸ばしすぎたために重心が後ろに寄り、座っている椅子がぐらついた。

「うわぁっ!」

 多少不格好でも必死にバランスを取ったおかげで、なんとか倒れずに済んだ。

 が、ここで事件発生。

 たまたま通りすがった男性社員のシャツに、マジックのインクが付いてしまったのだ。

「ごめんなさい!ああ、どうしよう」

 マジックを握りしめたまま、くっきりと黒い線が走るカラーシャツを前にして狼狽える。

 そんな私に、被害に遭った男性である連城れんじょう先輩が小さく苦笑した。

「気にしなくていいよ。汚れたのは袖だから、上着を着れば分からないし」

 優しくて爽やかで、顔もいいけりゃ、仕事も出来る、そんな向かう所敵なしの先輩がサラリとそう言った。

 さすが、女性社員から絶大な支持を受ける人だ。寛大なお方である。

 しかし、気にしない訳にはいかない。マジックのインクはかなり目立つし、きっとクリーニングしてもダメだ。

 私は慌ててバッグから財布を取り出し、一万円札を先輩へと差し出す。昼休みに銀行に行って正解だった。

「あ、あの、これで新しいシャツを買ってください!」

「これはもらいすぎだよ。安物だから、わざわざ弁償してもらうほどのことでもないし」

 そんなわけあるか!我が部署随一、いや、社内随一爽やか系イケメン連城先輩は、いつだっておしゃれなものを身に着けている。特売品のシャツであるはずがないのだ。

 言葉柔らかに辞退する先輩に、お札をグイグイと押し付ける。

「お願いします!受取ってください!」

 彼の言葉通りにお金を引込めたら、ファンクラブの人に「連城さんに迷惑をかけておいてお詫びもしないなんて、あなた、何様!?」とやっつけられるだろう。

 それは嫌だ。絶対に嫌だ。居心地がいいこの職場で、出来る限り長く働きたいのだ。

 必死になってお金を押し付けていれば、

「じゃあさ」

 と、先輩が口を開く。

「今日、仕事が終わったら時間はあるか?」

 特に予定もなく彼氏もいない私は、仕事が終われば家に帰るだけだ。時間ならばたっぷりある。

「は、はい」

 コクコクと頷く私に、先輩はニコッと笑った。

「だったら、新しいシャツを買いに一緒に行こう」

「は?」

「じゃ、そういうことで。終業後、一緒に駅前のデパートに行くぞ」

 爽やか全開スマイルを向けられ、私は

「は、はぁ……」

 と、まぬけな一言を返したのだった。




 連城先輩はあんなことを言ったものの、女性が引きもきらずに押し寄せるもてもてイケメンの彼のことだ。

 金曜の夜に、たかがシャツを一枚買うために後輩の私なんかと出かける時間なんて、これっぽっちもあるはずがないのだ。

 デートと称して、彼女さんと買い物に行けばいいと思うよ。そこで、彼女さんに選んでもらえばいいと思うよ。

『おっちょこちょいな後輩が油性マジック振り回したおかげで、シャツが一枚ダメになったよ』

 とか、私のことをネタにしていいからさ。


 なんて思っていたのに。


 どうして私は先輩に引きずられてデパートに向かっているのでしょうか。

「せ、先輩!放してください!」

「人に金を押し付けて、さっさと逃げようとしたくせに。俺はちゃんと言ったよな?終業後、一緒にデパートに行こうって」

 左手で私の手首をガッチリ掴み、右手で自分と私のバッグを持った先輩が、嬉々とした表情で街中を進んでゆく。

 帰宅途中の人たちが呆気にとられたように見遣ってくるが、先輩はどこ吹く風だ。私は恥ずかしくてたまらないのに。なに、これ、罰ゲーム?

「で、でも、別に一緒に行かなくてもいいじゃないですか!お金は渡すって言ってるんですから!」

 手首を取り戻そうとグイグイ引いてみるが、背が高くて細マッチョな先輩にはまったく通用しなかった。

 歩みを止めることなく、顔だけで振り返る。

「まぁ、まぁ」

 なにが『まぁ、まぁ』なのか、さっぱり意味が分からない。

 そうこうしているうちに、デパートの紳士服売り場へと到着。

 ここでようやく手首が開放され、ホッと一息。そんな私の背中を、先輩の大きな手がポンと叩いた。

「さ、選んで」

「は?」

 ポカンと見上げれば、先輩が小首を傾げる。

「俺に似合いそうなシャツを選んでって言ったんだよ」

 私も首を傾げた。

「何でですか?先輩がご自分で好きなものを選んでください。お金はもちろん、私が出しますから」

「俺は、名取なとりに選んでもらいたいんだけど」

「どうしてでしょうか?」

「まぁ、まぁ。いいから、早く選んでよ」

 また出た、『まぁ、まぁ』が。

 言い返しても絶対に話が進まない予感満載なので、私は戸惑いながらもシャツ売り場に目を向けた。

 横に立つ先輩をチラッと見上げる。

 今、彼が着ているのは、襟が白くて全体は薄いブルーのシャツ。先輩はたいていブルー系のシャツを着ているから、それに合わせたほうがいいのだろうか。

 所狭しと陳列されているシャツたちを手に取り、丁寧に見比べてゆく。そこで一枚のシャツに目が留まった。

 そのシャツは全体が淡い若草色で、グリーンの細いストライプが入っている。先輩に似合いそうだと思った。

「あ、あの、ちょっといいですか?」

 私はそのシャツを先輩の体に当ててみる。

 普段着ないグリーン系ではあるが、爽やかさが一段アップしているように感じた。

 シャツを当ててジッと観察している私に、先輩が小さく笑う。

「この色は持ってないなぁ。これを俺に?」

「は、はい。いかがでしょうか?」

 ドキドキしながら答えを待つと、連城先輩は笑みを深めた。

「名取が選んでくれたんだから、喜んで着るよ」

 先輩の物言いに首を捻る。

 私が選んだからって、どういうことでしょうか。いっぱいいっぱいになっている後輩が、それでも必死に選んだから着てやるよってところですかね?

 特に深い意味などないのだろう。先輩はそんな嫌味な人ではない。

「そうですか。じゃ、会計してきます」

 勝手に結論付けた私は、先輩に背を向けて歩き出す。

「これ、ください」

 レジに持っていくと、美人の女性店員さんがにっこりと微笑んできた。

「あちらの彼氏さんへのプレゼントですか?ラッピングいたしますよ」

 その言葉に、ギョッとなる。

「い、いえ、違います!私は彼女じゃないです!ただの後輩です!」

 手をワタワタと振って、慌てて否定する。

 すると店員さんは、「あらっ?」という感じで、離れたところにいる先輩に視線を向けた。

「それは失礼いたしました。とても仲がよろしかったから、てっきり」

「ええと、それは、同じ職場ですから、それなりに……」

 しどろもどろになっている私に柔らかい微笑みを浮かべ、店員さんは手際よくレジを打ち、シャツを手提げ袋に入れてくれる。

 それにしても、店員さんの発言には焦った。この私が、あの爽やかイケメン先輩の彼女であるはずがないでしょうが!そんな勘違いは、先輩の彼女に申し訳ないですよ!

「ありがとうございました。また、お越しください」

「ど、どうも」

 差し出された手提げ袋を持ち、小走りで先輩に駆け寄る。

「お待たせしました。こちらをどうぞ」

 受け取った先輩は、不思議そうに私を見遣ってくる。

「なぁ、さっき店員さんになんて言われてたんだ?すごく焦ってたみたいだけど」

「……なんでもないです」

 俯いたまま、私はフルフルと首を横に振った。

 すると、ちょっとだけ不機嫌そうな声が頭上に降ってくる。

「なんて言われたんだ?」

「…………なんでもないです」

 床を見つめたまま、再度首を振った。

 しかし、今日の先輩はやたらしつこい。

「な・ん・て・言・わ・れ・た・ん・だ?」

 こうなってしまった先輩を口先で誤魔化すことなど不可能で、私はためらいがちにポツリ、ポツリと話し始めた。

「じ、実は……、私が先輩の彼女に間違われまして……」

「へぇ」

 素直に答えた私に、先輩は短く返してきただけだった。てっきり大笑いするかと思ったのに。

 いや、予想をはるかに飛び越えた言葉を聞かされ、他に言葉が出てこなかったのだろう。

「で、でも、ご安心ください!きっぱり否定しましたから!」

 私が言葉を続けると、また

「へぇ」

 と、返ってきた。

 しかし、今度は声の様子が全然違う。明らかに不機嫌なのだ。


――せ、先輩!なんで笑顔を作りながら、眉間にくっきり皺を刻んでいるんですか!


「……あの、どうしました?具合が悪くなりました?」

 しかめっ面になるほど、頭が痛くなったのだろうか。分からないけれど、これは早々に帰宅してもらった方が良さそうだ。

 無事にワイシャツを買うことが出来たし、これ以上、ここにいる理由はない。

「それでは、失礼します。どうぞ、お大事に」

 頭が痛いのか、歯が痛いのか不明だが、いまだに顔を顰めている先輩にそう声をかけ、私はクルリと背を向けて歩き出した。


 ……のだが。


 後から伸びてきた手に左手首をいきなり掴まれ、おまけに、グイッと強引に引き寄せられた。

 結果、先輩の胸にドンと背中を打ち付けてしまう。

「ご、ごめんなさい!大丈夫ですか?」

 っていうか、先輩が私のことを引っ張ったから、こうなったんだけど。

 見上げた先輩はケロッとしているから、痛くはなさそうだ。それにしても、先輩は何がしたいのだろうか。手首は掴まれたままだし。

「ええと……。もしかして、もう一枚シャツを買えということでしょうか?」

 ダメにしてしまった分の一枚、さらに詫びとして一枚。つまり、計二枚のシャツが必要だということか。

 さっき先輩が渋面になったのは、一枚しか買おうとしない鈍い私に対しての物言わぬ抗議だったのだ。


――そっか、そっか。ぜんぜん気が付かなかった。


 私は改めて売り場に向かおうとした。


 ……ところが。


 またしてもグイッと手首を引っ張られ、同じように先輩の胸に背中をぶつける。


――え~、違うの?……ああ、そうか。シャツじゃなくて、食事を奢れということか。


 時間は既に十九時近い。夕飯時である。確かに、お腹が空いている。

 私は先輩を見上げて、二パッと笑った。

「もう、ご飯を食べる時間でしたね。先輩、何が食べたいですか?」

 そう尋ねる私に、ふいに眉間の皺を解いた先輩は満面の笑みを浮かべる。

「お前」

「……は?」


――おまえ?オマエ?OMAE?それ、どんな食べ物だ?


「すみません。私、郷土料理とか、外国の料理に詳しくないので、先輩が言った物がなんなのか分かりません。それ、どこに行けば食べられますか?」


 分からないものは、素直に尋ねる。知ったかぶり程、後で恥ずかしい思いをするものはないのだ。

 そうやってこれまで過ごしてきた私は、今回も先輩に問いかけた。


 すると、先輩がさっきのように眉間に皺を刻んで笑っている。だから、その顔、怖いんですけど……。

 ビクビクしながら先輩の答えを待っていれば、私の手を掴んだまま先輩が歩き出した。

「色々、言いたいことがあるが……。とりあえず、行くぞ」

「え?どこにですか」

「俺の家?」

「な、なんでですか?」

「お前を食べるから」

「ですから、『おまえ』って」

 ポツリと零した言葉が、私の頭の中を駆け巡る。

 

――おまえ?オマエ?OMAE?……お前!?


「つまり、それは……」

 オズオズと声をかけると、先輩は足を止めて振り返る。

「そうだよ。俺が食べたいのは、『名取なとり瑠佳るか』だよ」

「ええっ!?でも、先輩には彼女が!」

 口を衝いた言葉に、先輩は切れ長の目を細めた。

「今の俺、フリーだけど」

 聞かされたセリフに、私は猛然と反論。

「そんな馬鹿な!めちゃくちゃかっこいい先輩がフリーだなんて、そんなこと、考えられません!絶対にありえません!先輩、嘘を吐くなら、もっと上手に!」

 猫が毛を逆立てるようにフーフーと息巻いて告げれば、先輩が唖然とした表情に。

「……ったく。お前は、どうしてサラッと『かっこいい』とか言うんだよ。照れるだろうが」

 連城先輩はうっすらと頬を赤らめる。

 普段は余裕たっぷりの先輩が照れるなんて、これはなんとも珍しい。写メを撮ることが許されるならば、是非とも一斉メールするのに。

 そんな事を考えていたら、先輩がはぁ、と大きく息を吐いた。

「まぁ、いい。今は一分でも早く、家に帰る方が先だ」

 そう言って、先輩は私の手を引いて再び歩き始める。

「ここまで鈍いとは、予想外過ぎた。言葉じゃ分からないみたいだから、体に教え込んでやる」

 聞き捨てならないセリフに、私はビクッと肩を跳ね上げた。

「先輩、暴力反対です!」

 とっさに反論すれば、

「ああ、もう、お前は黙れ!」

 と、先輩は物陰に私を押し込み、チュッとキスをしてきた。

「……え?」

 ビックリした私は、目を真ん丸に見開いて固まる。言葉なんて、出て来やしない。

「よし、大人しくなったな。さ、行くぞ」

 頭の中が真っ白になった私は、手を引かれるままに足を進め、タクシーに詰め込まれ、先輩の家に連れ込まれ、ベッドへと押し倒された。

「俺が彼女にしたいのは瑠佳だってこと、その体に嫌ってほど教えてやるからな」

「ひえぇ……、んんっ」

 私の上に馬乗りになった連城先輩にキスをされ、私の悲鳴は中途半端な形で寝室に響き渡ったのだった。



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