(37)優しい彼。強引な彼。【コンパス】
同じ会社、同じ部署(課は違う)。体格差、身長差、腕力の差あり。年の差は三歳。物腰が優雅だけど、時には強引に迫ってくる男性社員と。男性社員にほのかに恋心を抱きつつも、仕事でしか彼と関われない、ちょっと内気な女子社員。
私、手越弥生は、老舗文具メーカーの営業部に所属している。
といっても、得意先回りをしたり、新しい顧客を獲得したりといった業務が主な営業一課ではない。
一課を事務的にサポートする二課だ。
外回りで忙しい彼らのために書類作成を手伝ったり、資料を集めたり、大抵はパソコンに向かって作業している。
それでも、極たまに、外回りに向かう彼らのサポートとして付いていくこともあった。
サポートする人は一応決まっていて、私は入社以来、由良さんと組んで仕事をしている。
彼は私より三歳上で、現在、二十七才。
営業部内でも一、二を争う程に背が高く、185センチを超えていると聞いた。
それと学生時代は弓道部に所属していたとのことで、スラリと細身に見えるが、腕の力はなかなかのもの。たまにコピー用紙を運ぶのを手伝ってもらうのだが、私がやっとで一箱運ぶところを、彼は三箱まとめて運ぶのだから。
そんな頼もしい由良さんは、上下関係の厳しい体育会系の部活に所属していた割に、綺麗な顔立ちに見合う穏やかな物腰をしている。
けれど一課の人たちによると、これで結構、押しの強いところがあるらしい。
私はそういった由良さんの一面をほとんど見ることがなく、一緒に営業先に出向いても、優しい口調で先方と打合せしている彼ばかり見ている。
まぁ、大人しい性格では、営業など務まらないのだろう。ここぞという時には、多少、強引に話を進める逞しさも必要なのだ。
そんな由良さんは、今日は一人で得意先回り。私は彼が帰ってくるまでに、新商品の売り上げデータを纏めておく。
この資料を持って、由良さんが新規獲得のために営業周りをする。なので、これはかなり重要な仕事だ。
私は改めて気合いを入れ、パソコンに向かった。
受付や秘書課の女性陣のように花のない私は、コツコツと地道にサポートすることでしか彼の役に立つことができない。
彼の周りにいるためには、こういうことで存在を示すしかないのだ。
憧れと尊敬、そして、ほんのちょっぴり彼への恋心を込め、私は仕事に集中した。
思ったより手こずってしまったため、資料を作り終えたのは定時を三十分ほど過ぎた頃。営業部の社員たちは、すでに退社している。
今日は金曜日だ。今頃みんなは、一週間の頑張りをお酒や美味しい食事で労っているのだろう。
しかし、由良さんはまだ戻ってきていない。
さっき入った連絡によると、出向いた先で打合せが長引いたことと、帰社途中で事故渋滞に巻き込まれているとの話だった。
先に帰っていいと言われたけれど、それはなんだか気が引ける。
私は最近忙しさのあまりに疎かになっていた机周りの片づけをしながら、彼の帰社を待つことにした。
引き出しを開けて中の物もすべて引っ張り出していると、一番下段の一番奥からコンパスが出てきた。以前、このデスクを使っていた社員の物だろう。
学生時代を終えると、コンパスを使うことはめったにない。私はやたらと懐かしい気分になり、メモ用紙にいくつも円を描き始める。
クルクルと動くコンパスを見ながら、まるで自分と由良さんのようだと思った。
中心の針が彼、鉛筆の部分が私。彼の周りで動き回るのが精一杯で、けして彼と重なることはない。これまでも、これからも。
「どうしたら、私と由良さんは重なるのかな?……なんてね」
誰もいないことに安心して、私はつい、心に秘めていた想いを言葉にしてしまった。
すると、
「だったら、こうしたらいいんじゃないか?」
突然、背後から伸びてきた二本の腕が私をギュッと抱き締めてくる。
「ほら、重なっただろ」
「え?え?」
驚きに顔をこわばらせて振り返れば、優しく微笑んでいる由良さんがそこにいた。
バッチリ目が合うと、彼はフワリと笑みを深めてくる。
見惚れるほど素敵な笑顔であるが、今はそんな呑気なことを言っていられなかった。
「な、な、なんでいるんですか!?帰ったのなら、声をかけてくださればよかったのに!」
――そうしたら、あんなこと絶対に言わなかったのに!
いたたまれない。あまりにいたたまれない。
「由良さん、ひどいです!声をかけないどころか、足音もさせないで!」
パニックに陥った私は、彼に八つ当たりめいたセリフをぶつける。
それでも彼はクスクスと笑うばかり。
私は今すぐこの身を隠すべく立ちあがろうとするが、椅子の背ごと逞しい腕に抱え込まれているため、立ちあがることすらできなかった。
恥ずかしさと困惑で泣きだしそうになっていると、由良さんがさらに私を抱き締めてくる。
「ごめん。熱心にコンパスを使っている君が可愛くて、ずっと見ていたかったから。やっぱり好きだなぁって、しみじみ実感したよ」
「はい?」
耳元で囁かれた言葉が意味不明で、私は逃げ出すことを忘れて、ポカンと彼を見遣った。
きょとんとしていれば、形の良い彼の眉が少しだけ下がる。
「あれ?俺の気持ち、気づいてなかった?」
いつものように穏やかな表情ではあるが、どことなく寂しそうである。
「あ、あの……。由良さんの気持ちって、どういうことでしょうか?」
優しいのに射すくめるような強い眼差しから逃れることが出来ず、私はオズオズと問いかけた。
由良さんは私の目をジッと覗き込み、そして、静かな声で告げてくる。
「君のことが好きだっていう、俺の気持ち」
彼の声はとても静かなのに、私の心臓をこれでもかと言わんばかりに激しく揺さぶった。
「えっ!?そんな、うそ……。だって、そんな素振りは少しも……」
ポツリポツリと呟けば、彼はまた寂しそうに笑う。
「そう言われると悲しいなぁ。けっこう、アプローチ掛けてたんだけど」
「そうだったんですか?」
目を丸くする私に、彼はクスリと苦笑を零す。
「そうだったんだよ。そうじゃなかったら、サポートとして君ばっかりを連れ出したりしないだろ」
「で、ですが、それは、私が由良さんの担当だから」
私の言葉に、今度はちょっとだけ意地悪そうに笑う由良さん。
「それは違う。俺が君を指名していたんだって。他の人は、二課の社員の仕事状況によって、サポートメンバーを変えてるんだよ」
「そんなの、知らなかった……」
だって、私は由良さんにしか仕事を頼まれたことがなかったから。
確かに他の二課の社員は、必ずしも同じ人と組んで仕事をしていなかった。でもそれは、急ぎの仕事をたまたま手が空いている二課の人に頼んでいたのだと思っていた。
「一課の社員にはきっちり釘を刺して、君に仕事を振らないようにしていたからね」
クスクス笑いながら、彼は呆然としている私の髪に頬ずりしてきた。
「でも、さすがにそろそろ気が付いてもらいたいと思っていたところで、さっきのセリフを聞いて、思わず抱き締めちゃった」
「い、いえ、でも……」
もう、何が何だかさっぱり分からない。
抱き絞められたままオロオロと視線を彷徨わせていると、彼がふいに腕を解いた。そして私が座っているイスをクルリと回転させ、お互いが真正面から向き合う形に。
再び居たたまれなさに襲われ、私は顔を伏せた。
彼は腕を伸ばし、椅子の背を大きな手で掴む。長い腕が私を囲い込んだ。
「ゆ、由良さん。あの……」
真っ赤な顔のまま俯いていれば、ギシリと椅子の背が鳴る。彼が上半身を倒して、いっそう身を近づけてきたからだ。
私を完全に追い込むと、彼が穏やかな声音で問い掛けてくる。
「俺の仕事をサポートしてくれるのは、もちろん嬉しいんだけどさ。これからは、俺の人生もサポートしてくれない?この先、ずっと」
「はい?」
ドキドキとうるさい心臓の音に邪魔され、彼の言葉がよく聞こえなかった。
不思議そうな顔で見上げると、由良さんがとびきり素敵な笑顔を浮かべる。
「結婚を前提に、付き合ってくれってこと。『うん』って言ってくれるまで、放さないから」
今の彼は、私が見たことのないほど強い光を瞳に宿している。これが一課の人たちが言う所の、『もう一人の由良さん』なのだろう。
「ええと、それは……」
耳まで真っ赤にしてドギマギする私に、彼は口角を上げる。
「そうだ。営業の極意を教えてあげるよ」
突然何を言い出すかと思って首を傾げる私に、彼はニンマリと笑いかける。
「押して駄目なら、もっと押せ。……ということで」
由良さんはコンパスやメモ用紙を手早く片付けると、私の腰に腕を回して、やや強引に立たせてきた。
それから二人分のバッグを手に、早足で歩きだす。
私は彼に促されるまま、足を動かすしかない。
「な、なにをっ!?」
「ここだと、見回りに来た警備員に邪魔されるからね。とりあえず、俺の家に行こうか」
「で、でも、私、別に、返事をしたわけじゃ……」
嬉しいと感じるより戸惑いが大き過ぎて、どうしたらいいのか分からない。
しどろもどろで声をかけると、さらに腰を抱き寄せられた。
「ん?それは、俺の家で聞くし」
おまけにこめかみへとキスを落とされ、私の足からガクリと力が抜けた。
そんな私を軽々と抱き寄せ、嬉しそうに足を運ぶ由良さん。すれ違った警備員に、もの凄く爽やかな声で、「お疲れ様です」と言う余裕すらあった。
私なんて、もう、いっぱいいっぱいで、今にも魂が抜けそうだというのに。
その後、私は優しさと強引さを絶妙に織り交ぜた彼に迫られ続け。
由良さんの部屋に着いて十五分ほど経った頃には、すっかり陥落してしまったのだった。




