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(35)誤解 のち プロポーズ【朱肉】

同じ会社、同じ部署。年の差は五、六歳。身長差あり。人事部の主任で、上司から信頼が厚いあまりに、恋人との時間がなかなか取れない男性と。少しだけ寂しいと思いながらも、そんな男性を誇らしいと思っている女性。



 終業時間を迎えると、私はパソコンのキーボードを打つ手を止め、腕を上げて背伸びした。

「今日も頑張ったぞー」

 入社三年目ともなると、結構仕事が回ってくるものだ。

 まだ仕事をしている同僚たちの邪魔にならないようにこっそり呟いて自分を労った後、通勤バッグへと手を伸ばす。

 そしてスマートフォンを取り出し、着信を確認。

 留守電メッセージが二件と、メールが一件という表示があった。

 留守電はどちらも母親からで、一件目は今から三時間ほど前のものだ。

 隣の市に一人で住んでいる祖母が体調を崩し、様子を見に行くというメッセージが残されていた。

 二件目は一時間ほど前に入っている。病院に連れて行ったら軽い風邪と診断され、大したことはない。でも、念のために今夜は祖母の家に泊るという話だった。

「おばあちゃん、大丈夫かな。明日は土曜日で仕事もないし、お見舞いに行こうっと」

 そんなことを呟きながら、メールボックスを開く。

 送り主はこの人事部の主任で、私の恋人でもあるとおるさんから。

 ある程度内容を予想してメッセージに目を走らせれば、思った通りだった。急きょ打合せが入り、今夜のデートはキャンセルというもの。

「相変わらず、忙しいんだな」

 苦笑いを浮かべて、私はスマートフォンをバッグに戻す。

 主任の席は既に空席。私の返事を待つことなく、彼は打合せに出向いていた。

 そんなことはしょっちゅうで、私もいちいち咎めたりはしない。部下として、彼の忙しさはつぶさに目にしているのだ。

 それに、まだ三十代になったばかりだというのに上司からその仕事ぶりを頼りにされて、会社からも期待されている亨さんのことを、私は誇りに思っていた。

 少しくらい寂しいと思っても、私の我がままで彼の将来や仕事を邪魔したくないという気持ちの方が強いのだ。

「今日もドタキャンみたいね」

 帰り支度をしていると、仲の良い同僚の田島由紀子たじまゆきこが小さな声で話しかけてきた。

 社内恋愛は反対されていないけれど、年配の上司たちはあまりいい顔をしない。なので、私は親友の由紀子にだけ、こっそりと教えていたのである。

「予想していたから、別にショックじゃないし」

 夕方、部長が難しい顔をして主任席に近づいていた様子を見た時から、そうなるだろうなと分かっていたから。

「でも、先週もそうだったでしょ?」

 由紀子は約束を反故にされた私よりも渋い顔をした。

 そんな彼女に笑顔を向ける。

「それだけ、私の彼氏様は会社にとって大切な人材だってこと。今すぐにでもお払い箱になるような人じゃなくて、本当に良かったわ。私も鼻が高いもの」

秀美ひでみは人がいいんだから」

 笑顔の私に、由紀子は仕方がないとばかりに肩を竦めた。

「だったら、時間あるんでしょ?今夜は私に付き合ってよ」

「了解」

 私はバッグを手に、由紀子と一緒に総務部を後にした。


 同じ職場に勤めていると、仕事終わりに待ち合わせしやすいという利点がある。

 ところが、私と亨さんには当てはまらないことが多かった。

 彼はそのたびに謝ってくれるけれど、それは亨さんせいではない。それに私が彼を責めるのは、筋が違うと思う。

 彼は浮気をしているのではなく、私をないがしろにしているのでもなく、真面目に仕事をしているのだから。

 ただ、『気にしないで』という言葉を繰り返すうちに、自分の中で寂しいという思いが徐々に膨れ上がっていることを感じ始めてきた。 


 そして、そんなある日。

 またしても、仕事終わりに食事に行くという約束が取り消されてしまう。

 

 今日はちょっとだけ落ち込んでいたので、彼に会えなくなったことが思いのほか落ち込んでしまった。

 バッグを手にトボトボとロビーを歩いていると由紀子が小走りでやってきて、私の腕をいきなりギュッと掴んだ。

 そして私をグイグイ引っ張って、背の高い観葉植物が植えられている壁際へと連れてゆく。彼女を見れば、眉尻を吊り上げて怖い顔をしていた。

「な、なに?」

「私に話すことはない?」

「え?」

 パチパチと瞬きをして由紀子を見ると、彼女は私から目を逸らすことなく口を開く。

「今日の秀美、なんだか考え込んでいたでしょ。話なら聞くわよ。ま、見当はついてるけど」

 表情は厳しいけれど、優しい言葉をかけてくれた友人に、私は思わず言葉を零してしまう。

「もう、だめかも。これまでなんとか頑張ってきたけど、さすがに限界かなって。今日、改めて感じたんだ」

 私が小さく笑うと、由紀子はさらに眉尻を吊り上げる。

 そして周囲を見回すと、私の耳元に口を寄せてコソッと囁く。

「だったら、しゅ……なんて、スパッと捨てちゃえば?」

 それを聞いて、私はまた小さく笑った。

「それは、ちょっと。もう少しだけなら、なんとかなりそうだし」

 由紀子は腕を組んで仁王立ち。

「馬鹿ね。こういうことは、勢いが大事よ。色々思い出があるだろうけど、これで終わりって訳じゃないし。気持ちを切り替えて、次を探せばいいわ」

 彼女の言葉にちょっとだけ考え込み、

「うん、そうだね」

 と、頷き返す。

 それを聞き、由紀子がニコッと笑う。

「そうそう、その調子。ねぇ、この後、飲みに行こうよ」

「いいよ、私も飲みたい気分だし」

「じゃ、ちょっとだけ待っててくれる?」

「え?」

 由紀子は私の返事を待たずに、なぜか人事部へと小走りで戻っていった。


 戻ってきた由紀子に連れられて、私は職場からそれほど離れていないお洒落な居酒屋に来ていた。

 てっきり二人で飲むのかと思ったら、そこには見知った顔がいくつかある。

 他の部署の後輩や先輩など入り混じった席は男性ばかりで、女性は私と由紀子だけ。

「あ、あの、これは?」

 戸惑い気味に尋ねると、由紀子はニンマリと笑う。

「どうせ飲むなら、大人数でパーッとやった方が楽しいでしょ。さっき収集かけたら、集まってくれたんだ。気の良い人たちばかりだから、きっと盛り上がるよ」

 付き合いの広い由紀子らしい発言だった。

 確かに、どうせ飲むならワイワイと楽しいのもいいだろう。

「ほら、二人とも。立ってないで、座って、座って」

「なに、飲む?カクテルでも、サワーでも、色々あるよ」

 私とはほぼ初対面の人たちが気さくに話しかけてきてくれて、私は促されるままに席に着く。


――たまには、こんな気晴らしもいいよね。


 そう思った時、こちらに向かって駆け寄ってくる大きな足音が。

 随分と騒々しいお客がいるものだと顔を向けた瞬間、もの凄い力で抱きしめられた。

「え?え?」

 突然のことにビックリして目を白黒させていると、頭上から

「秀美は俺の恋人だ!お前ら、手を出すんじゃない!」

 という、聞き覚えのある声が降ってきた。

「う、嘘!亨さん!?」

 どうにか顔を上げてみれば、そこには、男性社員たちを鋭い目で睨みつけている恋人の姿がある。


――ど、どうしてここに?


 あっけにとられてポカンとしていると、亨さんが左手で私の右手を掴み、右手で私のバッグを掴んで、ズカズカとその場を後にする。

「亨さん、待って!」

 声をかけるけれど、彼の足は止まらない。


――何が起きてるの!?


 助けを求めて親友を見遣れば、彼女はニヤニヤ笑いながら、ヒラヒラと手を振っていたのだった。




 それからしばらく歩き、小さな公園へとやってきた。

 足の長い彼が大股で歩くので、私は足がもつれそうになりながらも必死についてゆく。

 だが、いい加減、足が上手く動かなくなってきた。それに、息が苦しい。

「と、亨さん、お願い、ちょっと、止まって」

 息も絶え絶えに話しかければ、ようやく彼が足を止めた。

 そしてクルリと振り返ると、またしても、ものすごい力で抱きしめてくる。

「秀美、秀美……」

 いつもの冷静な彼は欠片もなく、縋りつくように私を抱き締め、泣きそうな声で私の名前を呼んできた。


――この状況って、いったい……?


 私は深呼吸を繰り返してどうにか自分を落ち着かせると、静かに口を開いた。 

「亨さん、どうしてあの店に?」

 すると、彼は私の髪に頬擦りしながらボソリと呟く。

「課長との打ち合せから戻ったら、俺のデスクにメモが置いてあったんだ」

「はぁ……」

 そのメモとは、なんだろうか。私はそんなものを彼のデスクに置いていないので、まったく心当たりがない。

 それにしても、どうして彼は私を追いかけるようにしてあの店にやってきたのだろう。

 心の中で首を傾げていると、亨さんがポツリ、ポツリと言葉を続ける。

「お前が寂しい思いをしているから、新しい恋人を探してやるって。田島の名前入りで」

「はぁっ!?」

 いきなり聞かされた親友の名前に、私は素っ頓狂な声を上げた。


――由紀子、何してんの!まったく、いつのまに……。って、もしかして!


 飲みに行く前に人事部へと向かったのは、このためだったのか。彼女なりに私たちのことを心配して、彼へとお灸を据えたということだろう。

 それにしても、上司になんというメモを残したのか。彼女の大胆さには驚かされる。

 親友の行動に唖然としていると、亨さんが静かに身を起こした。そして大きな手で、私の頬を優しく包んでくる。

「すまない。仕事の忙しさにかまけて、お前との時間が取れなくて。秀美の優しさに甘えて、俺はいつも仕事を優先させてばかりだ。本当にすまない」

 真っ直ぐに私を見つめ、彼は真剣な顔で謝罪を繰り返す。

 私は頬に感じる穏やかな温もりが嬉しくて、笑顔で首を横に振った。

「気にしないでください。私は仕事している亨さんの姿が好きなんですよ。仕事を放りだすような、そんな無責任な亨さんは見たくありません」

 それは本心だ。

 寂しいと思う気持ちは嘘ではないけれど、その何倍も、彼の仕事熱心な姿を誇りに思っているから。

 正直に告げたのだが、彼の瞳が不安そうに揺れた。

「だが……。このままだと、お前は俺を捨てるんだろ?」

「はい?」

 話の繋がりが見えず、私は忙しなく瞬きを繰り返す。


――私が亨さんを捨てるって、どういうこと?


 そんな話は考えたこともないし、誰かに聞かせた記憶もないのだが。

 再び心の中で首を傾げると、亨さんはバツが悪そうに視線を僅かに伏せた。

「偶然、聞いてしまったんだ。秀美が会社を出る前、ロビーで田島と話しているのを。俺はちょうど、あの辺りで一息入れていたんだよ」

 おそらく、観葉植物の陰にあるソファーに座っていたのだろう。私はその植え込みに背を向けていたので、まったく気が付いていなかった。

「そうでしたか。でも、それがどうして、亨さんを捨てるという話になるんですか?」

 と尋ねれば、彼がバッと勢いよく顔を上げて、射抜かんばかりに私を見つめてくる。

「そこで田島が『主任なんて、スパッと捨てちゃえば?』と話しかけて、それでお前は、『うん、そうだね』と同意しただろうが!」

 ものすごい形相で詰め寄ってくる亨さんに仰け反りつつ、私は

「……は?」

 と、間抜けな一言を発し、そのまま黙り込んでしまった。

 亨さんは頬にあった手を私の背に回し、痛いくらいに抱きしめてくる。

「頼む、俺を捨てないでくれ。秀美がいなくなったら、俺は、俺は……」

どうやら、彼は激しく誤解している。

 この温もりは手放しがたいが、早く誤解を解かなくては。このままでは私は窒息しかねない。

「亨さん、ちょっと放してください」

 優しく声をかけるものの、

「嫌だ」

 と、即答される。

「私は逃げませんし、もちろん、亨さんを捨てたりしませんから」

 何度もお願いすると、ようやく渋々といった感じで亨さんが腕の力を緩めてくれる。

 私は大きく息を吸うと、苦笑いを浮かべた。

「それは亨さんの聞き間違いです。由紀子が言っていたのは朱肉のことで、主任ではないんです」

「……は?」

 今度は亨さんがポカンとしてしまった。

 初めて見る子供のような表情に思わず苦笑を深め、私は彼に説明する。


 祖母から譲り受けた朱肉を、入社以来使っているということ。

 仕事柄、判を押す機会が多いため、朱肉の生地の部分がボロボロになってきたということ。

 自分がなかなか物を捨てられない性格であること。

 だが、さすがにその朱肉が限界を迎え、捨てるべきだろうかと悩んでいたこと。


 それを聞いた亨さんが、盛大に息を吐き出した。

「そういうことか……」

「はい。誤解は解けましたか?」

 問いかけると、彼は恥ずかしそうに少しだけ目元を赤く染め、頷き返してくる。

「ああ、事情は分かった」

「だから、亨さんは安心して仕事してくださいね」

 ニコッと笑って告げると、彼はやたらと真剣な表情に変わった。

「いや、これからはそうもいかない」

 誤解は解けたのだし、私はこれまで通りで構わないと言っているのだ。なのに、どうして彼は納得していないのか。

「どうしてですか?」

 問いかける私に、彼は予想外の言葉を伝えてきた。

「うかうかしていると、お前が浚われてしまうことが良く分かった。あの飲み会に参加していたのは、揃いも揃って秀美を狙っている連中ばかりだ」

「まさか!」

 目を丸くして驚くと、キッと睨まれる。

「俺の情報網を甘く見るな。これまで忙しい合間を縫って、必死ににらみを利かせていたのに。今日は田島にマンマと出し抜かれた、くそっ」

 憎々しげに吐き捨てる彼だが、次の瞬間、また私を真剣な表情で見つめてくる。


 そして、その彼が次に口にしたセリフは。

「だから、結婚しよう」

 というものだった。


「あ、あの、『だから』って、どういうことでしょうか?」

 慌てふためく私の額に、亨さんが優しくキスを落とす。

「このままだと、またお前を狙う奴らが出てくる。そうさせないためにも、秀美を俺の苗字にしてしまいたいんだ」

「いや、そ、それは……」

 オロオロと視線を彷徨わせていると、今度は赤く染まった頬にキスをされた。

 左右の頬にそれぞれキスをした亨さんは、私が知っている中で一番真剣な表情になる。

「お前の優しさに甘えてばかりだった、馬鹿な俺を許してくれ。秀美のことは、必ず大事にする」

 ボンと音を立てて顔を赤くした私は、彼の肩口に額を押し付けた。そしてモゾモゾと手を動かし、彼の背中にソッと腕を回す。

「これまでも、十分に大事にしてもらってましたよ」

 私たちは一緒にいる時間こそは少なかったけれど、その分、会えた時は『もう、お腹いっぱいです!』という程、彼から愛情を注がれていたのだから。

 亨さんの背中をキュッと抱き寄せるものの、彼は首を横に振った。

「これまで以上に、だ。俺には、秀美より大切なものはないんだ。だから、頼む。俺と結婚してほしい」

 大好きな恋人にこんなことを言われて、断れる人間がいるだろうか。

 私は目頭を熱くしながら、大きく頷いたのだった。

 





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