(30)君に夢中★【下敷き】
舞台は都内の某大学。二人は同じく二年生。地方出身で、ホンワカした小動物系女子学生と。そんな彼女をこよなく愛する、爽やかで優しい(……ように見えて、割と強引なところがある)イケメン男子学生。
九月中旬を過ぎ、長い夏休みを終えた学生たちは、そこかしこで友人たちとの再会を楽しんでいた。
昼下がりの学食では、講義のない生徒たちが休み中の出来事を互いに報告しあっている。
そんな中、奥まったテーブル席には、とある女子生徒がテーブルに突っ伏していた。
この大学の二年生である、若林 佳奈枝だった。
彼女は具体が悪いわけでも、ショックなことがあって落ち込んでいるわけでもない。ただ単に、猛烈な睡魔に襲われている最中なのだ。
昼食を終え、ブラインド越しの柔らかな日差しを浴びているうちに、ウトウトと舟をこぎ出した佳奈枝。
講義は午前中だけ。今日はバイトもないし、この後に予定もない。時間だけは、たっぷりある。
ということで、どうにもならない睡魔に惨敗した彼女は、この席でお昼寝中なのであった。
投げ出した左腕に左頬を乗せ、スヤスヤと眠っている。
いくらこの席が人目につきにくいとはいえ、年頃の女の子がこんなに堂々と昼寝するものだろうか。
だが、とある地方の田舎で育った佳奈枝は非常に大らかで、人様に迷惑さえかけなければ、自分のことは気にならないといった性格の持ち主だった。
口元をモゴモゴと動かし、さらに深い眠りにつく彼女。
すると、一人の男子生徒が足早に学食へとやってきた。彼は人探し顔で歩き、キョロキョロと席を見回す。
そして、ある人物の姿を視界に収めると、ホッとした表情を浮かべて足を進めた。
彼は佳奈枝と同じ学年、学部である神田 優二だった。
優二は佳奈枝が伏している席まで来ると、その隣に迷いなく腰を下ろした。
それでも佳奈枝はまったく起きる気配もなく、微かな寝息を立てている。
そんな彼女の様子を、幸せな表情で見守る優二。佳奈枝の前髪を指で掬い上げたり、なだらかな頬にそっと触れたり、実に楽しそうだ。
何をしても起きない彼女に、優二は飽きもせず、ニコニコと笑顔で見つめている。
やがて、佳奈枝の眉がキュッと寄った。
「……暑い」
だが、目を覚ました様子はない。寝言である。
エアコンで適温が保たれている学食内では、いくら天気のいい日でも暑さを感じることはない。それでも、佳奈枝の顔は不機嫌そうに歪んでいる。
彼女がどんな夢を見ているのか気になったが、起こすのは忍びなく、優二は見守り続ける。
そして、ふと何かを思いついて、自分のバッグの中をゴソゴソと漁り出した。
「ああ、あった」
優二はプラスチック製の薄い下敷きを取り出し、それを団扇のように動かして彼女に風を送ってやった。
眠っている彼女を起こさないように、優しく優しく扇いでやる。
すると、佳奈枝の眉間にあった縦ジワが消え、最初に見た穏やかな寝顔に戻った。
再び満足そうに佳奈枝を見つめる優二。
それから十分ほど経った頃だろうか。
はふぅ、と小さく息を吐いた佳奈枝が、ゆっくりと目を開けた。テーブルに伏したまま二、三度、瞬きをして、もう一度、はふぅと息を吐く。
優二は下敷きをバッグにしまうと、ズイッと佳奈枝に近づいた。
吐息が触れる距離まで顔を寄せ、
「そんなに可愛い寝顔を、俺以外の男に見せたら駄目だからね」
と言い、彼女の鼻先にチュッとキスを落とす。
突然、目の前の現れた顔に驚き、佳奈枝は慌てて身を起こして盛大に仰け反った。
しかし、寝起きで体の動きが制御できず、バランスを崩して後ろに倒れそうになる。
椅子から落ちかけた佳奈枝へと素早く手を伸ばして華奢な彼女を難なく支えると、ソッと引き寄せて優二は自分の胸に抱き込んだ。
「大丈夫?」
爽やかに微笑む優二に、佳奈枝は「ひょえー!」と、色気の欠片もない悲鳴を上げる。さらにはワタワタと腕を振り回して、ふたたび椅子から落ちかける。
改めて、優二は彼女を強く抱きしめた。
「佳奈枝ちゃん、落ち着いて。それとも、俺に抱きしめられたくて、わざと落ちようとしてる?」
楽しそうに問いかけられ、佳奈枝はブンブンと首を横に振る。
「ち、ち、違う!わ、わざとじゃない!」
尚も慌てふためく彼女の背中を、優二はポンポンとリズムよく叩いた。
「落ち着いてってば。ほら、深呼吸して」
宥めるような優しいリズムに、佳奈枝の呼吸は次第に落ち着きを見せる。最後に大きく息を吐き、小さな声で謝った。
「ご、ごめん。迷惑かけて……」
「ぜんぜん迷惑なんかじゃないよ。むしろ役得かな」
フワリと微笑む優二に、佳奈枝は真っ赤な顔で、オロオロ、オロオロ。ところが、ややあってからシュンとなった。
眉尻を下げてうなだれる彼女の様子に、優二は心配になる。
「どうしたの?何か、嫌なことでも思い出した?」
すると、佳奈枝はユルリと首を横に振った。
「違う、そうじゃなくて……。私、やっぱり無理だよ」
顔を伏せ、ボソボソと歯切れ悪く話す彼女に、優二は穏やかな声で問い掛ける。
「何が無理なの?」
言おうか言うまいか、何度か唇を動かした後、佳奈枝は極々小さな声で言った。
「……神田君と付き合うのは無理って話」
それを聞いた途端、これまで穏やかだった優二の顔が一瞬で強張った。だが、すぐさま元の優しい表情となる。
「どうして、そう思うの?」
落ち着いた声で促せば、チラッと視線を上げた佳奈枝がオドオドしながらも口を開いた。
「だって、私はこんなに落ち着きないし……。神田君には、いっつも心配とか迷惑とかかけてるし……。それに、田舎から出てきた私が、どうしておしゃれでカッコいい神田君と付き合っているのか、今でもぜんぜん分からないし……」
佳奈枝はとびきりの美人でもないし、ずば抜けた美少女でもない。柔らかな空気感を持った癒し系であることは確かだが、人目を引くような顔立ちではなかった。
そんな彼女が、学内でも美形で有名な優二になぜか惚れ込まれたのは、二人がこの大学に入学して間もない頃。
講義で偶然、隣り合って座った二人。
その時は、スマートフォンを弄るのに夢中になっていた優二。横に腰を下ろした佳奈枝など眼中になかった。
ところが、
「へくちっ」
と、ちょっと変わった可愛らしいくしゃみが聞こえ、思わず視線を向けてしまった。
小柄な彼女は小さな手で口元を覆い、「へくちっ、へくちっ」と何度も何度もくしゃみをする。
こちらが心配になるほどくしゃみを繰り返したあと、どうにか落ち着いたようだ。
ほぅと胸を撫で下ろし、僅かに涙を浮かべた顔で、佳奈枝がヘラリと笑う。
「うるさくしてごめんね。花粉症の薬はちゃんと飲んだんだけど、なかなか効かないみたいで」
赤らめた顔で照れくさそうに笑う佳奈枝に、優二は釘付けとなった。
何も言わない優二を見て、佳奈枝は相当怒っているのだと判断した。
「またうるさくすると悪いから、私、別の席に行くね。前の方なら、たくさん空いてるし」
机の上に広げていたノートと筆記具を手早く纏め、佳奈枝は席を立った。すると、その手首を男性特有の大きな手でガシッと掴む優二。
「え?」
キョトンとした顔で己を見遣る佳奈枝に、またしても優二の心臓はズドンと撃ち抜かれる。
掴んだ手首をグイッと引き寄せ、佳奈枝を元の場所に座らせた。
「あ、あの……」
掴まれている手首と優二の顔を交互に見遣る佳奈枝は、眉尻を下げてかなり情けない顔をしている。
そんな彼女を優二は熱っぽい顔でジッと見つめ、そして、彼は言った。
「付き合ってくれるかな」
佳奈枝は答えた。
「ええと、どこに付き合えって言うの?もうすぐ講義が始まっちゃうよ」
ものすごく真面目な声で。
計算でも、天然でもなく答えた佳奈枝。
目を奪われるほどかっこいい優二が自分に交際を申し込んでいるなど、ミジンコのかけらほども思いつかなかっただけなのだ。
これまで自分の周りにいなかったタイプであり、また、彼女が放つホンワカした優しくて温かいオーラにたまらなく惹かれた優二は、この日から猛烈な勢いで佳奈枝に迫ったのである。
ところが、優二の告白を「田舎者の私をからかっているだけだ」と思い込む佳奈枝には、彼の想いは一向に届かない。
それでもあきらめきれずに、追い掛け回すこと一年と少し。
大学二年の夏休みを前に、優二は彼女からようやくO.Kを貰えたのであった。
そんなこんながあった二人だが、交際は順調に見えた。……のは、優二の側だけ。
彼には釣り合う所がないと思い込む佳奈枝は、優二と一緒にいるうちに段々と苦しくなってきてしまった。
そして、先ほどのセリフとなったのである。
優二はなおいっそう強く佳奈枝を抱き締めた。
「俺、今、言ったよね。迷惑なんか、少しもかけられてないって。そりゃぁ、可愛い佳奈枝ちゃんの事が心配で、目を離せないのは事実だけどさ」
「……神田君、目がおかしいよ。私が可愛いなんて、絶対におかしい」
ボソボソと呟く佳奈枝の耳元に口を寄せ、優二は甘く囁いた。
「そうかな?大好きな女の子のことは、可愛く見えて当然だと思うよ」
「うがっ」
またしても色気のない声をあげる佳奈枝。
それでも、彼女を見つめる優二の視線は変わらずに甘い。
「ねぇ、佳奈枝ちゃん。この後、時間あるよね?」
「え?あるけど……」
首を傾げる彼女に、優二はニンマリと口角を上げる。
「じゃあ、佳奈枝ちゃんの可愛いところを、じっくり説明してあげるね」
「い、いえ、結構です!」
ジタバタ身じろぎするが、体格の差と腕力の差があるため、佳奈枝は逃げ出せない。
「まぁ、まぁ、そう言わずに」
楽しそうに笑う優二は席を立ち、佳奈枝の手を引いて立ち上がらせる。そして、二人分のバッグを持って、学食出口へと歩き出した。
前にある広い背中に、佳奈枝はオドオドと話しかける。
「あ、あの、神田君?」
「なに?」
「どこに行くの?」
「俺のウチだけど」
足を止めることなく優二は進み、二人は大学構内を出た。そして彼は迷うことなく、大学近くに借りているアパートへと向かう。
ヘニョリと眉を下げている佳奈枝は、強引に手を引かれてつんのめりながら足を進めるしかなない。
「ど、どうして、神田君のウチに行くの?」
「さっき言ったでしょ。これから佳奈枝ちゃんの可愛いところを、じっくり説明するんだよ。……二人きりになれるベッドの中でね」
そう告げて振り返った優二の顔からは、艶めく色気がダダ漏れしていたのだった。




