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(2)クマさんとそばかす【ボールペンの字も消せる消ゴム】

会社員同士。二歳差。体格差。

柔道経験のある大柄な営業部男性社員と、読書好きの物静かな人事部女性社員。


 営業部には、ひときわ体の大きな男性社員がいた。

 中学から大学卒業まで柔道部に所属した彼は、熱心に練習を積んだおかげで見事な体格をしている。おまけに身長があるものだから、その存在感はかなりのものだ。

 だが、人当たりも良く、口調もやわらかい彼を慕う人間は多い。さらには仕事も出来るのだから、上司からの信頼も厚い。

 そんな敵なしと思える彼にも、実は大きな弱点があったのだ。


 それは、好きな人には積極的になれないということ。


 大きな体で何を馬鹿なことを、と言うなかれ。体の大きさと度胸は、時として比例しないものである。

 さてさて、この恋の行方はどうなることやら……。




「おーい、クマ」

 そう呼ばれて、営業部で一番体の大きな社員が仕事の手を止めて顔を上げた。

「この前言ってた契約、どうなんだ?」

「ああ、来週には締結できそうですよ。先方もかなり乗り気ですので」

 その言葉に、声を掛けてきた先輩社員が苦笑いを浮かべる。

「相変わらず、仕事が早いなぁ。すっかりウチのエースじゃないか」

「いえ、そんな。それもこれも、先輩の指導があったからですよ」

 クマと呼ばれた社員はやわらかく目を細めた。

 そこへ。

「お話し中にすみません。クマ先輩、教えてもらいたいことがあるんですけど」

 書類を手に、新入社員がやってくる。

「ん?どれどれ」

 そういって一緒に書類を覗きこみ、あれこれと説明してやる。

 すると、

「分かりました!ありがとうございます!」 

 ペコリと頭を下げて、後輩が笑顔で礼を述べた。

 このように、営業部には仕事が出来て面倒見のいい『クマ』と呼ばれる社員がいる。

 周りから当たり前のように『クマ』と呼ばれ、その事に対して、本人は何も気にしていないようだ。

 それは、皆が親しみを込めて彼を呼ぶからである。からかう様子が一切ないので、例え名前で呼ばれなくても気にならないのだ。


 そんな大らかな彼は、今、恋をしていた。


 心を寄せる相手は、人事部で働く二つ年下の小柄な女性。

 彼女の肩下まで伸びた髪はクセ毛なのか、柔らかそうにフワフワしていて触り心地が良さそうだ。

 しかし、印象的なのは髪ではなく、こげ茶色をしたフレームの眼鏡。今時、そこまで大きなフレームの眼鏡は珍しい。

 だが、小さな顔の彼女が掛けるその眼鏡は、かえって愛らしさを引き立てているのだった。


 物静かな彼女は、社員食堂でいつも食後に本を読んでいる。熱心に読み進めるその本の作者は、クマと呼ばれた男性もファンである。

 彼女の近くの席で食事を済ませた彼は、チラチラと様子を窺っていた。


『俺もその作家が好きなんだ』


 しかし、その一言がどうしても出てこない。


 彼は食べ終えた食器を手に、今日もすごすごとその場を後にしたのだった。




◆◇◆



 社員食堂を出た俺は、未練がましく振り返る。視線の先にいるのは、熱心に本を読んでいる小柄な女性。

 ちょっとでもこちらを見てくれないかと、一歩進んではチラリと振り返る。

 残念なことに彼女は本から目を放すことなく、俺の事には気が付きもしない。

 大きな体に見合った大きなため息を吐き、俺はすごすごと立ち去ることにした。


 俺がなぜ彼女を気にしているかというと、消ゴムを手に笑ったからだ。

 ふいに見せたその笑顔がちょっと寂しそうで、それが気になって頭から離れず。そして、いつの間にか好きになっていたのだ。

 はじめは密かに想いを寄せるだけでいいと思っていた。遠くからその姿を眺めるだけで満足していた。

 だが、彼女の纏う空気はとても穏やかで心地よく、恋人としてその隣にいたいと思ってしまったのだ。

 そんな訳で、ほんのわずかなきっかけでも逃したくない俺は、せっせと人事部に出掛けるのである。


「すみません、書類を出しに来たんですけど」

 そう言って室内に入ると、近くのデスクにいた小柄な女性が小走りでやってくる。今日は運がいいことに、片想いをしている女性が来てくれた。

 だらしなく綻びそうになる顔をグッと引き締める。

 前に立った彼女は頭二つ分ほど違う俺を見上げ、眼鏡の奥の瞳を微笑ませた。その何気ない笑顔が本当に可愛い。

 ふたたび綻びそうになる顔を、柔道で培った気合いで引き締めた。

 そんな俺に、彼女は不審がることもなく手を差し出す。

「お預かりしますね」

 自分とは全然違う華奢で小さな手に、書類を乗せてやった。

 すると、『人事部 みなみ玲子れいこ』という名札を付けたその女性が、不思議そうに首を傾げる。

「間違いがありますか?」

 と、尋ねると、

「い、いえ、何でもないです」

 と、小さく首を振られた。

「そう言われると余計気になりますよ」

「で、でも、本当に大したことではないので」

「大したことじゃなかったら、言えますよね?」

 俺はしつこく食い下がる。

 彼女の席はこれまで奥の方に配置されていたため、書類を提出しに来た社員の対応に当たることはなかった。

 それが昨日の席替えで受付近くに座ることになったようで、こうしてまともに俺の対応に当たってくれたのは、南さんの寂しげな笑顔を見てから初めてのこと。

 彼女とちょっとでも長く話がしたい俺は、この何てことはないやり取りを必死で続ける。

「教えてくれてもいいじゃないですか。何が気になったんです?」

 繰り返し訊いているうちに、ようやく彼女がおずおずと口を開いた。

「お名前が……」

「名前?」

 今度は俺が首を傾げた。俺の名前はそう珍しいものではないはずだが。

「俺の名前が何か?」

「あ、その……、この前、周りから『クマ』と呼ばれているのを聞きまして。だから苗字が熊井とか熊川とか、熊の字が入っていると思っていました。それなのに永作ながさくと記入されているので、それで“あれ?”って思ったんです」

「ああ、俺の下の名前は昌之まさゆきって言うんです。永作の“く”と、昌之の“ま”を取ってクマなんですよ。それと、柔道をやってきたので、体が大きいこともそう呼ばれる理由なんでしょうね」

「そうでしたか」

 謎が解けてスッキリしたのか、彼女が僅かに微笑む。

「良かったら、南さんもクマと呼んでくださいよ」

 彼女と親しくなりたくて、あだ名で呼ぶようにお願いする。

「え?でも」

 彼女が少しだけオロオロした後、遠慮がちに『……クマさん』と口にする様子はめちゃめちゃ可愛かった。


 そんなきっかけがあり、今では俺が書類を提出しに行くと、彼女が受け取ってくれるようになった。


 ある日のこと。

 人事部に提出しなければならない少々面倒な書類があり、その下書きを南さんに添削してもらっていた。

「あ。ここ、違ってます。すぐ書き直せるように、修正テープで消しますね」

 南さんが自分のデスクに向かおうとするのを引き留める。

「俺は筆圧が強いので、テープ部分が削れるんですよ」

 そう告げると、

「それなら」

 と言って、灰色の消しゴムを手に取った。

「これ、ボールペンの字も消せるんですよ」

 ちょっと得意げな彼女は、丁寧な手つきで誤字を消してくれた。

 今、彼女が手にしているのは、いつの日か儚い笑顔を向けていた消ゴムだ。

 思わずジッと見つめる。

「どうしました?」

 不思議そうな瞳が、俺を見上げていた。

「え?あ、その、便利な物があるんだなって。俺も買おうかなぁ」

 咄嗟に笑みを浮かべると、

「良かったら、差し上げます。いくつか予備を持っているので」

 俺の手の平に消しゴムを乗せてくれた。

 その時、彼女の指先が僅かに触れる。たったそれだけのことなのに、俺の心臓が大きく跳ね上がった。

「ありがとうございます。大事に使わせて頂きます」

 動揺を隠そうとしたら、妙にかしこまった態度になってしまった。

 そんな俺のクソ真面目な態度に、一瞬キョトンとした南さんが小さく吹き出す。

「大事に使ってください」

 フワフワの髪を揺らしてクスクスと笑う彼女に、また、心臓が跳ね上がった。


 それからは、暇さえあれば消ゴムを見つめてしまう。何てことのない消しゴムでも、俺にとっては世界一の宝物なのだ。


――南さん、可愛かったなぁ。


「クマ先輩、どうしたんでしょうか?」

「さぁな」

 周囲の心配をよそに、俺は幸せをかみしめていた。




 その数日後。

 会社の廊下で、自分の前を歩く彼女に気が付いた。

 ゆっくりした歩調で進む南さんの後をゆっくりと歩く俺。


――いや、別に、後をつけているんじゃない、たまたま行く方向が同じなんだ。


 心の中で言い訳していると、前にいる彼女が急にふらついた。

「危ない!」

 運動神経の良さを発揮し、南さんが倒れ込むより早くに駆け寄って支える。

「南さん!南さん!」

 目を閉じている彼女に呼びかけても反応がない。真っ赤な顔の南さんは呼吸がつらそうで、かなり熱があるようだ。

 俺は彼女を横抱きにし、医務室へと急いだ。


 常駐医によれば、風邪と疲労が重なったのが原因だろうという話だ。指示を受け、南さんをベッドに寝かせる。

「安静が大事だから、様子が落ち着いたら早退させた方がいいわね」

 俺の母親ほどの年齢である常駐医の言葉に、俺は人事部に行って事情を説明し、南さんの荷物を受け取る。

 その足で営業部に向かい、自分の荷物を手にして上司に早退を申し出た。南さんの一大事に、この俺がジッとしていられるはずなどないのだ。

 半ば無理やりな申し出だったが、鬼気迫る俺の様子に上司もすぐさまOKしてくれる。

 そして俺は再びダッシュで医務室へ。

 静かに扉を開け、足音を殺してベッドに歩み寄る。

 医務室の簡素なベッドの上では、彼女が小さな寝息を立てて眠っていた。苦しそうな呼吸が幾分収まっていて、俺はホッとする。

 近くにあったテーブルに荷物を置き、寝ている彼女の顔をソッと覗いた。

 眼鏡は常駐医が外したのだろう。何もない頬の辺りには、うっすらとソバカスがあった。

 あどけない寝顔と頬に散るソバカスに、俺の心臓が鷲掴みにされる。


―――うっわ。なんだ、この可愛さは!


 彼女を想う気持ちに一層拍車がかかる。さらには彼女の寝顔があまりに可愛いので、理性が崩壊しそうだ。

 俺は慌てて医務室を飛び出し、気持ちを落ち着けるために廊下で何度も深呼吸を繰り返した。


 しばらくして南さんが目を覚ましたと、常駐医が知らせてきた。

 ベッドに近づけば、目を覚ました彼女が横になったままボンヤリとしている。

「大丈夫?」

 声を掛けると、南さんはパチパチと瞬きをした。

「あれ?私、どうしてここに?」

「廊下で倒れたんだよ。それで、俺がここに運んできた」

 説明してやると、南さんは申し訳なさそうに眉を寄せ、

「ありがとうございました」

 と、小さな声でお礼を言ってくる。

 そしてハッとした表情になり、自分の顔を手の平でペタペタと触りだした。

「め、眼鏡がない!」

 そう叫んだ彼女は、いきなり布団に潜った。

「南さん、どうしたの?南さん?」

 呼びかけても、彼女は布団から出てこない。

 布団の下で丸くなる彼女も可愛いが、出来ればもっと顔を見せてほしい。

「南さん、何があった?」

 頭がある辺りとポンポンと軽く叩けば、

「あ、あの、私、眼鏡……」

 布団の中からモゴモゴと声が漏れる。

「眼鏡ならそこのサイドテーブルの上にあるよ。だから、安心して出ておいで」

「いえ、そうじゃなくて……」

 歯切れの悪い言葉が返ってくるだけで、南さんは一向に出てこない。

「なんで隠れてるの?俺、何か悪いことした?」

「ち、違います。クマさんは、悪くないです」

「じゃあ、どうして?」

 宥めるように頭を撫でれば、

「……私の顔を見ないでください」

 と、泣きそうな声で言われた。

「どうして?」

「だ、だって、ソバカスが……。眼鏡がないから、丸見えで……」

 どうやら彼女のあの眼鏡は、頬に散るソバカスをカモフラージュするための物らしい。

「ボールペンの字が消える消しゴムじゃなくて、ソバカスが消える消ゴムがあったらいいのに……」

 弱々しい声で告げられたセリフに、

「そんなのはダメだ!」

 と、強引に布団を引き剥がした。

「きゃっ!」

 小さな悲鳴を上げた南さんは、体を捻って俺に背を向けた。そんな彼女の肩を掴んでこちらに向かせる。

「み、見ないでくださいっ」

 バタバタと暴れる南さんを長い腕で抱きしめた。

「その可愛いソバカスを消すなんて、絶対にダメだ!」


 それからの俺はヘタレを返上する勢いで彼女を必死に口説き落とし。


 三ヶ月後、『クマさん』から『昌之さん』と呼ばれるようになったのだった。


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