(1)俺の気持ちもお前の心に留めておけ【クリップ】
会社員同士。三歳差。
他部署でも人気がある指導係の先輩男性と、おっとりマイペースな新人女子社員。
クリップで留めるよりもホッチキスのほうがいいのでは…とも思いますが、あえてクリップで押し通させてください。
今日は金曜日。
晴れ上がった日中は初夏に相応しくグングンと気温が上がり、陽が西に傾き始めた今でも少し暑いと感じる。キンキンに冷えたビールを飲みに行くには最高だろう。いや、キリリと冷えた日本酒もいいかもしれない。
とはいえ吹き抜ける風は爽やかで、蒸し暑さはほとんど感じさせない。恋人同士寄り添って歩いても、互いの体温が不快になることはないだろう。夜のデートにうってつけの気候である。
お酒が好きな人や恋人がいる人は、いち早く帰りたいと願っているに違いない。
だが、会社というのは時に無情で。
「あ~。誰か残業してくれないか?週明けのイベントで配る資料をクリップで纏めてほしいんだ」
上層部との打ち合わせから戻ってきた部長が、部屋に足を踏み入れるなりそう言った。
ちなみにこの会社は車の大手製造メーカーで、某大規模イベント会場で開催される車の展示会に参加することになっている。
本来であれば配布する資料は事前に印刷会社に委託して作成してもらうのだが、自称アイディアマンの専務が、また、何やら言い出して、急きょ新たな資料を配布することに決めたのだろう。
バイタリティのある上司は悪くはないが、それは、時と場合によるのだ。部下たちは揃ってこっそりため息を吐いた。
いつもニコニコと穏やかな部長は多くの部下から慕われており、普段であれば部下たちがこぞって残業に名乗りを上げる。
しかし、今日は金曜日。予定がある人間ならば、これっぽっちも残業などしたくはない。
「すまないが、誰か頼まれてくれないか?」
笑顔で部内を見回す部長。そんな上司からさりげなく視線を逸らす部下たち。
緊迫した空気が室内に流れた。
その時、お使いから帰ってきた一人の女子社員が、
「ただいま戻りました」
と、明るい声を上げて漂ってきた空気を打ち破る。
「あれ?部長も皆さんもどうしたんですか?」
事情を知らない女子社員・三ツ谷佳代子は、不思議そうに見回していた。そして彼女の視線が上司の持つ書類に止まる。
「何でしょうか、その書類は」
何気なく問いかけた女子社員に、部長はニコリと微笑みかける。
「ああ、これは月曜のイベントで配る資料の原稿だよ。これを印刷して、五枚一組にしてクリップ止めしてほしいんだ。それを誰かに頼もうかとしていたところなのだが……」
再び部長が室内に視線を巡らせる。慌てて顔を伏せる部下たち。再度、緊迫した空気が流れる。
そして、その空気を破ったのも、またこの女子社員。
「でしたら、私が引き受けます」
ニッコリ笑って、部長に手を差し出した。
彼女はこの春に入社した社員。一生懸命で、健気な頑張り屋さんの彼女を可愛がる先輩たちは多い。
しかし、今日ばかりは彼らにも譲れない事情があるのだ。皆、可愛い後輩に心の中で何度も謝罪していた。
先輩たちの応援は最初から念頭に無かった女子社員、印刷枚数や出来上がった資料の保管場所を部長に確認したりなど、一人でさっさと話を進めている。
「おお、引き受けてくれるか!三ツ谷君、助かるよ!だが、予定があるんじゃないのかい?」
気遣わしげな口調の部長。そんな部長に、女子社員は改めてニッコリ。
「予定はないですよ。だから、安心して残業を申し付けてくださいね」
部長にとっても、何とか残業から逃げようとしていた先輩たちにとっても、彼女の申し出は天使の囁き。室内は一気に穏やかな空気に包まれたのだった。
◆◇◆
私は自分の仕事を手早く終わらせると、空いている会議室でさっそく資料作りに取り掛かる。
預かった原稿を300枚ずつコピーし終えると、会議室の長テーブルへ順に並べた。それを端から手に取り、五枚一組でクリップ止めしてゆく。
使われるクリップはプラスチック製で、全体的に平たい仕上がり。我が社一押しの車種が模られているクリップは市販されている物ではなく、イベント会場でしか手に入らない代物。もちろん社名もばっちり入っているから、小さいけれどいい宣伝になるのだ。
自分が勤務する会社を世間に売り込むいい機会なのだが、これが残業となるとまた話が違うようで。こういった地味な作業は誰しもあまりやりたがらない。
オマケに、金曜の夜にわざわざ残って仕事したい人なんていないのだ。
でも私は黙々と作業することが好きなので、上司に頼まれたら、まず断ることはなかった。それに、この後の予定もないし。
寂しい女って言わないで!仕事を覚えるのに必死で、彼氏を作る余裕がないの!……というのは、負け惜しみじゃないからね。
静かな会議室に資料を揃えるトントンという音と私の楽しそうなハミングが響く。
「やっと三分の一が終わったぁ」
一旦手を止めて、束になった書類の山を眺めながら大きく背伸びをする。
その時、一人の男性が入ってきた。
それは同じ部署で仕事している三歳年上の皆川先輩。私の指導係を自ら買って出てくれた人だ。ちょっとだけ口調がきついんだけど、仕事は出来るし教え方は上手だし頼りになるし、凄く尊敬している。
その人が、背伸びしている私を見遣って呟く。
「ここにいたのか」
先輩これまで走り回っていたのか、いつもきれいに整えられている髪とネクタイが少々乱れていた。そして、軽く息も上がっている。まるで、誰かを必死に探していたかのように。
スラリと背が高いうえに、顔立ちも整っている。黒髪をサラリと揺らしていつも爽やかに笑みを浮かべる先輩は、部署内でも他部署でも人気がある。
いかにも女性にモテそうな風貌なのに、金曜日のこんな時間まで社内に残っているのが意外だ。そして常にきちんとしている髪とネクタイが乱れがちなのも意外だ。
常にない先輩の姿を見て、私は驚いて目を丸くした。
「お疲れ様です。どうしたんですか?もう帰ったと思っていましたが」
声を掛けると、
「あ、うん……」
といった具合に、なんだか歯切れの悪い返事が返ってくる。物事をはっきり口にする先輩にしては珍しい。
どうしたのだろうかと不思議に思うが、私には終わらせなければならない仕事がある。それ以上何も言わない先輩を気にしつつも、手を動かして作業再開。
すると皆川先輩は私の向かいに椅子を運んできて、ドカリと腰を下ろす。そして私と同じように書類をクリップで留め始めた。
「先輩?」
「二人でやれば早く終わるだろ」
「でも、このくらいは大したことないですし。先輩こそ、早く帰らなくていいんですか?何か予定があるんじゃないですか?」
私の問いかけに、先輩は手元から目線を外してチラリとこちらを見てきた。
「……予定なら、ある」
それだけ言うと、再び黙々と作業を続ける。そんな先輩の態度は意味不明だ。
通常業務以外の指導は必要ない。それに、これは私が進んで申し出た残業なのだ。先輩を付き合わせては申し訳ないではないか。
「でしたら、こんなことをしていないで早く帰った方が」
「いいんだよ」
「でも、予定があるって」
私の言葉に先輩は手を止め、なぜかこちらを睨んできた。
「今日はお前の誕生日だから」
「は?」
それが何だというのだ?後輩の誕生日だから、残業を手伝ってやろうというのだろうか。誕生日プレゼント代わりに?
先輩の言動の意図がいまいち読めない私は、軽く首を傾げる。
すると、先輩がまた私を睨んだ。
「だから!ちょっとお洒落なレストランで食事して、プレゼント渡して告白しようって決めてたんだよ!なのに、俺が席を外しているうちに、お前が残業なんて引き受けるから!!」
静かな会議室に、先輩の怒鳴り声がこだました。その迫力にビクリと肩を跳ね上げる。
「そ、そ、そんなの、知らないですし……」
私の誕生日だからって、わざわざレストランで食事?プレゼント?そして何より驚いたのが、『告白しようって決めてたんだよ!』という先輩のセリフ。
何がなんだか理解できなくて、気を失いそう。
言葉もなく先輩を見つめていると、彼はバツが悪そうに髪をかき上げた。
「お前は大人しいが、ここぞという時は自分の意見が言えるしっかり者だし。それにあれこれ部内のみんなのことを気遣える優しさもあるし。それから……」
言葉を区切った先輩がおもむろに立ち上がり、長い足でつかつかと近付いてくる。そして上体をかがめたかと思うと、座っている私のおでこにキスをした。
「ひゃぁっ」
予想もしていなかったことに、思わず悲鳴が上がる。
そんな私を楽しそうに見つめる先輩。
「ほら、その顔」
「か、顔ですか?」
ビックリしすぎて泣きそうな私が先輩を見上げると、その瞳がゆるりと弧を描く。
「真っ赤になってさ。困ったような涙目が、すげぇ可愛い」
「そ、そんなことないです……」
先輩の言葉に、ますます顔が赤くなった。もう、何なの!
手の平でパタパタと顔を扇げば、大きな手が私の手首をガシッと掴む。
「俺にとっては、そんなことあるんだよ。いいから、さっさと終わらせるぞ。急げば予約の時間になんとか間に合う。そして、もう一回俺に告白させろ。こんな勢いまかせじゃなくて、今度はかっこよく言ってやるから」
不敵に微笑む先輩に、私の心臓は見事に打ち抜かれたのだった。