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怖い話

じゅりゅ

作者: 夢野かなめ
掲載日:2026/08/23

 その音は、鳴っているのだ。


 確かに、自分の体の中から。


 じゅりゅ……。


 ふとした瞬間に、その音は鳴る。


 体の中から。体の中から──!


 生物反応として、人間の体は小さな、時に大きな音を立てる。


 しかし、一体、体の何処が「じゅりゅ」なんて音を立てるというのだ。


 しかも、その音は、少しだけ間抜けな響きを持っている。


 そう、まるでアニメーションの中の芋虫が立てるような音だ。


 それが、体の中から鳴っている。


 じゅりゅ。


 じゅりゅ。


 じゅりゅ……。


 何処だ。何処から鳴っている?


 判らない。


 ただ、確かなのは、体の中から鳴っているということ。


 時に脚から。時に腹から。時に耳のすぐ近くで。


 じゅりゅ。


 じゅりゅ。


 じゅりゅ……。


 音は、鳴っている。




 その音に、幡山(はたやま)が気が付いたのは、一か月程前のことだった。


 ふと茶碗を片付けようと手を伸ばした時、腕の辺りで鳴ったのだ。


 じゅりゅ。


 当然、一度は聞き間違いだと思った。


 しかし、その音を意識してから、「そういえば」と思い至ることがあった。


 その音は、ここ最近自身の周辺で鳴っていたものだったのだ。


 じゅりゅ。


 間抜けな音だ。


 部屋の中を見回し、そのような音を立てる物がないかを、注意深く確認する。


 ない。


 散らかっている部屋ではあるが、「じゅりゅ」というような音を立てる物はない。


 そもそも、あのように間の抜けた音は、意図的に作り出すような類のものではないのか。


 文字や、絵として目にするような「じゅりゅ」という音を、幡山は耳で捉えている。


 じゅりゅ。


 そうしてついに、その音が自分の体の中から鳴っている、ということに幡山は気が付いた。


 何故か。


 判らない。


「何が……何処が……何で、鳴ってるんだ?」


 その音は確かに鳴っている。


 気になってしまえば、少しの音にも敏感になる。


 臆病になる。


 体を動かしたくはなくなる。


 それでも、生活していかなければならない。


 集中力が散漫になる。


 意識は、常にいつ鳴るとも知れない音に向く。


「ねぇ、大丈夫? 顔色悪いけど」


 その声に跳び上がると、相手の方が驚いて目を瞬いた。


 同僚の松島(まつしま)だ。


 心底心配している、というように顔を曇らせ、そうして探るような目を向ける。


「どうしたの?」


 じゅりゅ。


「……ん?」


 松島は、その音に気を取られ、顔を横向けた。


 横顔の美しさも、今となっては恐怖に呑まれ、感じ入ることは出来ない。


 ──聞かれた……!


 自身が意図的に出した音ではないが、自分の体から発せられた音に、幡山は恥ずかしさが全身をぎゅっと絞めつける思いがして、俯いた。


「何でもない……。大丈夫」


「でも──」


 じゅりゅ。


「……んん?」


 松島は、眉を寄せ、音に気を取られる。


「……何か、さっきから変な音がしない?」


「しない」


 松島の声に被さるように言うと、松島は怪訝そうな顔をした。そうしてから、時計をちらと見て、立ち上がる。


「ちょっと休憩しようよ。私達、だいぶ根詰めてたよ。このまま続けてもきっと上手くいかないよ」


 松島は手で招いたが、なかなか動き出さない幡山の肩を軽く叩いた。


 じゅりゅ。


 鳴ったその音に、不審そうに目を細め、それから休憩室を指差す。


「ほら、行こ」


 事務所に残っているのは、数人程。皆、自分の抱える仕事に集中して、幡山達の様子になど気を向けていない。


 幡山は、ぐるぐると不安や羞恥心が回る中、松島に続いて歩き始めた。


 休憩室には誰も居なかった。


 小会議室で会議をしているか、外回りに出ているのだろう。


 じゅりゅ。


 音が鳴った。


 幡山は休憩室の入り口で佇み、不安に荒くなった呼吸を抑えようと胸を押さえた。


「幡山君……何か、病気とかじゃないよね?」


「違、う……」


 じゅりゅ。


 音が──。


「その音」


「これは……!」


 顔を上げ、目の前にあった松島の顔を見た瞬間、幡山は懺悔(ざんげ)ともいえるような感情を抱いて全てを打ち明けていた。


 その間も「じゅりゅ」という音は鳴る。


 鳴った箇所を掻き毟る。


 ──嫌だ。嫌だ、こんなのは。


 脚も、腕も、頬も、そんな音が鳴る訳がない。


 異常だ!


「幡山君」


 その声を耳にしたのを最後に、幡山は意識を失った。




 目を覚ました時には病室のベッドで横になっていた。


 何が起きたのかを認識する前に、音は鳴る。


 じゅりゅ。


 視界が滲み、嗚咽が漏れる。


 何が。一体、何がこの身に起きたというのか。


 じゅりゅ。


 頬に手を伸ばす。


 きっと、この中に音を発する何かがある。


 爪を立て、頬を掻き毟ろうとすると、柔らかい感触が指先に伝わった。


 脱脂綿だ。


 じゅりゅ。


 その先で、再び音が鳴る。


 剥してしまおうと縁に爪を立てる。


 その時、突然病室の扉が開く音がして、カーテンが遠慮がちに開かれた。


 鮮やかな色が顔を覗かせる。


「……松島、さん?」


「幡山君、起きたの⁉」


 松島はわたわたと慌てて見せると、すぐに看護師を呼び、医者を呼び、と騒がしくなった。


 そうして検査を受け、少しの間の入院生活の後、幡山は日常生活へと戻った。


 そこには、松島がそっと寄り添い、そして幡山も彼女を支えようと奮闘した。


 そして──。




 じゅりゅ。


「んー? なぁにぃ?」


 キッチンから、松島──幡山美雪(みゆき)の声が訊く。


 幡山は今でも慣れないその現象に顔を歪めてから、返事をした。


「俺は何も言ってないよ」


「あー、ごめんごめん」


 笑みを浮かべた美雪が、西瓜を載せた皿を手にキッチンから出てくると、何事もなかったかのように皿を食卓へと置いた。


 じゅりゅ。


「安くなってたの、西瓜。糖度も高いって。食べましょ」


 そう言いながら、腕を擦る。


 じゅりゅ。


 今度は、脚を擦る。


 じゅりゅ。


 首筋を……。


 そうして、困ったように笑みを作り「今日は、多いねぇ」と呟くように言った。


 音は、今や美雪の体からも鳴るようになっていた。


 それは、二人が恋人となり、籍を入れて夫婦となってから、突然に起こった。


 最初は幡山自身から発せられる音が大きくなったのかと思った。


 しかし、違った。


 じゅりゅ。


 その音は、幡山の体と、美雪の体、どちらからも鳴っている。


「多いね」


 そう返した幡山は、西瓜に手を伸ばし、噛り付いた。


 瑞々しい甘みが、口に広がっていく。


 だが、それを味わう余裕はない。


 美雪の顔を見ることが出来ない。


 当然、二人は病気の可能性を疑った。美雪に伝染したのだから。


 しかし、どんな検査をしようとも異常は全く見られない。二人して精神科の受診を勧められただけだ。


 二人は、時折互いの体から鳴る「じゅりゅ」という音に耐えながら日々を送っている。


 じゅ──。


 その時、わぁあ、という泣き声が部屋に響き渡った。


「あらら、起きちゃったのね」


 と美雪が立ち上がり、ぱたぱたと駆けて行く。


 ベビーベッドから、小さな愛らしいものを抱き上げ、胸に抱く。


 ゆらゆらと体を揺らしていると、泣き声は段々と収まっていった。


 じゅりゅ。


 音は、その小さな愛らしいものからも鳴っている。


 思わず俯きそうになった幡山の前に、美雪は戻って来ると、笑みを浮かべた。


「パパにも抱っこして欲しいって」


 見れば、美雪によく似た顔が、さっきまで泣いていたのが嘘みたいにまん丸の瞳で見つめていた。


「おいで」


 じゅりゅ。


 今は、誰の体から鳴ったのか。


 わっ、わっ、とまだ言葉にならない声を発している我が子を見つめながら、幡山はぼんやりと考えた。


 何故。


 何故、音は鳴る。


 何故、音は伝染した。


 この音は。


 この音は──。


 じゅりゅ。


 それは、それがさも自然のことのように鳴る。


 この音が何なのか。


 判らない。


 判らない……。


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