じゅりゅ
その音は、鳴っているのだ。
確かに、自分の体の中から。
じゅりゅ……。
ふとした瞬間に、その音は鳴る。
体の中から。体の中から──!
生物反応として、人間の体は小さな、時に大きな音を立てる。
しかし、一体、体の何処が「じゅりゅ」なんて音を立てるというのだ。
しかも、その音は、少しだけ間抜けな響きを持っている。
そう、まるでアニメーションの中の芋虫が立てるような音だ。
それが、体の中から鳴っている。
じゅりゅ。
じゅりゅ。
じゅりゅ……。
何処だ。何処から鳴っている?
判らない。
ただ、確かなのは、体の中から鳴っているということ。
時に脚から。時に腹から。時に耳のすぐ近くで。
じゅりゅ。
じゅりゅ。
じゅりゅ……。
音は、鳴っている。
その音に、幡山が気が付いたのは、一か月程前のことだった。
ふと茶碗を片付けようと手を伸ばした時、腕の辺りで鳴ったのだ。
じゅりゅ。
当然、一度は聞き間違いだと思った。
しかし、その音を意識してから、「そういえば」と思い至ることがあった。
その音は、ここ最近自身の周辺で鳴っていたものだったのだ。
じゅりゅ。
間抜けな音だ。
部屋の中を見回し、そのような音を立てる物がないかを、注意深く確認する。
ない。
散らかっている部屋ではあるが、「じゅりゅ」というような音を立てる物はない。
そもそも、あのように間の抜けた音は、意図的に作り出すような類のものではないのか。
文字や、絵として目にするような「じゅりゅ」という音を、幡山は耳で捉えている。
じゅりゅ。
そうしてついに、その音が自分の体の中から鳴っている、ということに幡山は気が付いた。
何故か。
判らない。
「何が……何処が……何で、鳴ってるんだ?」
その音は確かに鳴っている。
気になってしまえば、少しの音にも敏感になる。
臆病になる。
体を動かしたくはなくなる。
それでも、生活していかなければならない。
集中力が散漫になる。
意識は、常にいつ鳴るとも知れない音に向く。
「ねぇ、大丈夫? 顔色悪いけど」
その声に跳び上がると、相手の方が驚いて目を瞬いた。
同僚の松島だ。
心底心配している、というように顔を曇らせ、そうして探るような目を向ける。
「どうしたの?」
じゅりゅ。
「……ん?」
松島は、その音に気を取られ、顔を横向けた。
横顔の美しさも、今となっては恐怖に呑まれ、感じ入ることは出来ない。
──聞かれた……!
自身が意図的に出した音ではないが、自分の体から発せられた音に、幡山は恥ずかしさが全身をぎゅっと絞めつける思いがして、俯いた。
「何でもない……。大丈夫」
「でも──」
じゅりゅ。
「……んん?」
松島は、眉を寄せ、音に気を取られる。
「……何か、さっきから変な音がしない?」
「しない」
松島の声に被さるように言うと、松島は怪訝そうな顔をした。そうしてから、時計をちらと見て、立ち上がる。
「ちょっと休憩しようよ。私達、だいぶ根詰めてたよ。このまま続けてもきっと上手くいかないよ」
松島は手で招いたが、なかなか動き出さない幡山の肩を軽く叩いた。
じゅりゅ。
鳴ったその音に、不審そうに目を細め、それから休憩室を指差す。
「ほら、行こ」
事務所に残っているのは、数人程。皆、自分の抱える仕事に集中して、幡山達の様子になど気を向けていない。
幡山は、ぐるぐると不安や羞恥心が回る中、松島に続いて歩き始めた。
休憩室には誰も居なかった。
小会議室で会議をしているか、外回りに出ているのだろう。
じゅりゅ。
音が鳴った。
幡山は休憩室の入り口で佇み、不安に荒くなった呼吸を抑えようと胸を押さえた。
「幡山君……何か、病気とかじゃないよね?」
「違、う……」
じゅりゅ。
音が──。
「その音」
「これは……!」
顔を上げ、目の前にあった松島の顔を見た瞬間、幡山は懺悔ともいえるような感情を抱いて全てを打ち明けていた。
その間も「じゅりゅ」という音は鳴る。
鳴った箇所を掻き毟る。
──嫌だ。嫌だ、こんなのは。
脚も、腕も、頬も、そんな音が鳴る訳がない。
異常だ!
「幡山君」
その声を耳にしたのを最後に、幡山は意識を失った。
目を覚ました時には病室のベッドで横になっていた。
何が起きたのかを認識する前に、音は鳴る。
じゅりゅ。
視界が滲み、嗚咽が漏れる。
何が。一体、何がこの身に起きたというのか。
じゅりゅ。
頬に手を伸ばす。
きっと、この中に音を発する何かがある。
爪を立て、頬を掻き毟ろうとすると、柔らかい感触が指先に伝わった。
脱脂綿だ。
じゅりゅ。
その先で、再び音が鳴る。
剥してしまおうと縁に爪を立てる。
その時、突然病室の扉が開く音がして、カーテンが遠慮がちに開かれた。
鮮やかな色が顔を覗かせる。
「……松島、さん?」
「幡山君、起きたの⁉」
松島はわたわたと慌てて見せると、すぐに看護師を呼び、医者を呼び、と騒がしくなった。
そうして検査を受け、少しの間の入院生活の後、幡山は日常生活へと戻った。
そこには、松島がそっと寄り添い、そして幡山も彼女を支えようと奮闘した。
そして──。
じゅりゅ。
「んー? なぁにぃ?」
キッチンから、松島──幡山美雪の声が訊く。
幡山は今でも慣れないその現象に顔を歪めてから、返事をした。
「俺は何も言ってないよ」
「あー、ごめんごめん」
笑みを浮かべた美雪が、西瓜を載せた皿を手にキッチンから出てくると、何事もなかったかのように皿を食卓へと置いた。
じゅりゅ。
「安くなってたの、西瓜。糖度も高いって。食べましょ」
そう言いながら、腕を擦る。
じゅりゅ。
今度は、脚を擦る。
じゅりゅ。
首筋を……。
そうして、困ったように笑みを作り「今日は、多いねぇ」と呟くように言った。
音は、今や美雪の体からも鳴るようになっていた。
それは、二人が恋人となり、籍を入れて夫婦となってから、突然に起こった。
最初は幡山自身から発せられる音が大きくなったのかと思った。
しかし、違った。
じゅりゅ。
その音は、幡山の体と、美雪の体、どちらからも鳴っている。
「多いね」
そう返した幡山は、西瓜に手を伸ばし、噛り付いた。
瑞々しい甘みが、口に広がっていく。
だが、それを味わう余裕はない。
美雪の顔を見ることが出来ない。
当然、二人は病気の可能性を疑った。美雪に伝染したのだから。
しかし、どんな検査をしようとも異常は全く見られない。二人して精神科の受診を勧められただけだ。
二人は、時折互いの体から鳴る「じゅりゅ」という音に耐えながら日々を送っている。
じゅ──。
その時、わぁあ、という泣き声が部屋に響き渡った。
「あらら、起きちゃったのね」
と美雪が立ち上がり、ぱたぱたと駆けて行く。
ベビーベッドから、小さな愛らしいものを抱き上げ、胸に抱く。
ゆらゆらと体を揺らしていると、泣き声は段々と収まっていった。
じゅりゅ。
音は、その小さな愛らしいものからも鳴っている。
思わず俯きそうになった幡山の前に、美雪は戻って来ると、笑みを浮かべた。
「パパにも抱っこして欲しいって」
見れば、美雪によく似た顔が、さっきまで泣いていたのが嘘みたいにまん丸の瞳で見つめていた。
「おいで」
じゅりゅ。
今は、誰の体から鳴ったのか。
わっ、わっ、とまだ言葉にならない声を発している我が子を見つめながら、幡山はぼんやりと考えた。
何故。
何故、音は鳴る。
何故、音は伝染した。
この音は。
この音は──。
じゅりゅ。
それは、それがさも自然のことのように鳴る。
この音が何なのか。
判らない。
判らない……。




