帝国編 48.皇帝
皇帝アルノが人を呼ぶ時は、文書ではなく口伝えだった。
それが変わらなかった。十数年前も、今も。侍従が廊下でヴェラを待っていて、一言だけ言った。「陛下がお呼びです」。それだけだった。
儀式当日の朝、降下の寒室は薄暗かった。窓に幕が引かれていた。部屋の奥に人の形があった。
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ベッドの端に腰を下ろしていた。
背が縮んだなぁ、とヴェラは思った。一年前に会った時より、また縮んだ。それでも背筋は伸びていた。病んでも、それだけは変わらなかった。アルノという人はそういう人だった。宮廷の中でも外でも、いつも背筋だけは同じだった。
机の上に書類が一枚あった。ヴェラには内容が見えなかった。でも見なくても分かった。アルノが今日呼んだ理由は、昨日から予測していた。
「ヴェラ」
声が出た。低かった。細かった。でも確かにアルノの声だった。
「来てくれた」
「あんたに呼ばれたら来てやるさ」
アルノが少し笑った。口元だけだった。「そうだな」と言ってから、少し間があった。
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「フィンに渡したものを、正しい場所に届けてくれ」
声が低く落ちた。「儀式が終わった後に——誰かに」
「あんたがやればいいものを」
「私は今夜を越えられないかもしれない」
ヴェラは何も言わなかった。言えなかった、ではなかった。言う言葉がなかった。アルノが静かにそれを言う時の顔が、ヴェラには分かっていた。覚悟を言葉にする時の顔だった。何年も宮廷にいれば、そういう顔を見る機会がある。でもアルノがその顔をするのを見たのは、これが初めてだった。
「アルノ…」
「今夜のことは、誰も止められない。私も含めて」
少し間があった。窓の幕が、微かに揺れた。風か、それとも廊下から来る空気か、分からなかった。
「カルムもエドンも——もう私の息子ではない」
アルノの声が、また低く落ちた。
「プランナがそうした。あの子らは、もう戻らない」
ヴェラは正面を向いたまま、何も言わなかった。
「フィンだけが、まだ私の子だ」
ヴェラはその変化を聞いていた。アルノが宮廷の外にいる時の言い方だった。何十年も前、まだ皇太子だった頃の——誰も見ていない場所で話す時の声だった。
今日のこの部屋も、誰も見ていない場所だった。
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廊下に出た。
扉が閃まった。廊下は朝の光が差していたが、ヴェラにはそれが見えるのかどうか分からなかった。
フィンを守ってくれる者がいる、とルイから聞いていた。月夜の船。ルイが保証した冒険者のパーティだ、と言っていた。ルイの言葉は信頼できる。それは分かっていた。
でも今日、アルノの言葉が別の意味を持った。
「正しい場所に届けてくれ」——アルノが「正しい場所」と言った時、何を指していたのか。ヴェラにはまだ分からなかった。フィンが文書を持っている。その文書が届くべき場所は、どこか。
廊下の先に窓があった。帝都の空が見えた。雲が低かった。今夜が来る。
ヴェラは歩き始めた。あの冒険者たちを信じる——それしかない、とルイに言った。それが今も変わらなかった。変わらないことだけが、今日のヴェラに残っていた。




