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獄炎の姫君〜失意の底で何を思ふ〜  作者: 蕎麦粉


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帝国編 47.今夜、時代は

儀式の当日の昼、月夜の船の食堂に全員が集まった。


マリーが市場で買い込んだ食材で作った料理が並んでいた。鶸の出汁で炒いた米、塩潬けの野菜、果物。帝都の食材だったが、マリーの手が入るといつもマリーの味になった。「どうやって作るんだ、これ」とフィンが一口目に聞いた。マリーが嫁しそうに顔を上げた。「出汁の比率と炒く時間なんですけど、コツがあって——」と始まり、サラが「また始まった」と言い、マリーが「サラさんも毎回おかわりするじゃないですか」と言い、「そ、それは別の話」とサラが返した。ガンスが「素直じゃないよな」と言い、「あなたには言われたくない」とサラが言った。


フィンがその会話を黙って聞きながら、また一口食べた。目が少し柔らかかった。宮廷でもこういう食事の場があるのだろうか——レイアはふとそれを思った。たぶん、ない。テーブルの向こうでサラとマリーがまだ言い合っていた。


---


ガンスが三杯目を頼んだ。


「腹が減ってるんだ」と先に言った。


「今夜動くんじゃないですか」


「動く前に食っておくのが基本だろ」


「ガンスさんの基本は特殊すぎます」


「失礼だな」


「あー不貞腐れちゃった」


レイアはその会話を少し離れた場所で聞いていた。本物に見えた。本物かどうか判断するのをやめた日から、ただそこにある時間として見えるようになった。今日は特にそうだった。この食卓にいる人間全員が、今夜の後も同じ場所にいるかどうかは分からない。でも今はここにいた。


---


昼食が終わりかけた頃、ルイが口を開いた。


食堂の空気が変わった。


「今夜、おれたちは宮廷外壁の外側で動く。フィン殿下は宿に残ってほしい。何があっても宮廷の内部には入らないでくれ。それだけ守ってくれれば、あとはおれたちに任せてほしい」


誰も話さなかった。


ガンスが残ったパンを手で割った。割り方がいつもより少し丁寧だった。それから言った。


「まあ何かあってもおれらがいるし」


いつもの言い方だった。軽い言葉だった。ゴルンでも道中でも、ガンスはこういう言い方をした。でも今日の昼、この食堂で言われると——届き方が違った。軽いはずの言葉が、どこかで重くなっていた。


レイアは何も言わなかった。サラが「……まあね」と言った。マリーがカップを両手で持った。ルイが小さく頗いた。


---


フィンが立ち上がる前に、少し間があった。


フィンがテーブルを一度見た。空になった皿。マリーが後で出してきた果物。ガンスの洗。ドージの手元に残っていた草。それから顔を上げた。全員をゆっくり、一人ずつ見た。


「ありがとう」


声が静かだった。演じていなかった。


「護衛を引き受けてくれた、みんなに」


誰も何も言わなかった。


マリーが何か言いかけた。口が開いて、閃じた。サラがテーブルに視線を落とした。ルイが前を向いたまま動かなかった。ドージが草を置いた。


沈黙があった。言葉を探している沈黙ではなかった。言葉が追いつかない、という沈黙だった。「ありがとう」の重さが食堂の空気に溦けていくのを、レイアは感じていた。誰かが喋れば終わる。でも誰も喋らなかった。どれくらいかは分からない。長くはなかったと思う。でも食堂の中の時間が、少しだけゆっくりになっていた。


ガンスが皿の端に残ったパンの欠片を指でつまんで、口に入れた。それからフィンを見た。


「飯食えよ」


それだけだった。


フィンが少し止まった。それから——声を出さずに、笑った。椅子を引き戻して、まだ手をつけていなかった果物を手に取った。


食堂が少し、元の空気に戻った。ガンスがまた浗を押し出した。「もう一杯くれ」。マリーが「どこに入るんですか」と言いながら受け取った。サラが「やっぱり特殊です」と言った。フィンが果物を食べながら、それを聞いていた。


---


午後、部屋に戻った。


廊下は静かだった。食堂の声はもう届かなかった。窓の外の帝都の空が朝より低く見えた。雲の動き方が変わっていた。今夜が来る。


——失うものが、増えた。


ガンスがパンを割る手。マリーの声の高さ。サラが口を開いて閃じた時の顔。フィンがテーブルを見た目。ドージが草を置いた音。ルイが前を向いたまま動かなかった背中。


全部、なくしたくなかった。


それをはっきりと思ったのは、今日が初めてだった。「失うのが怖い」と思ったことはあった。でも今日の昼に感じたのは、それより前の場所にあるものだった。なくしたくない。ただそれだけだった。怖いとか守るとか、そういう言葉より根の部分にある、単純な何かだった。


今夜が来る。儀式まで、あと数時間だった。

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