帝国編 46.前夜祭
前夜祭の夜、帝都の大通りに人が溢れた。
儀式の前日だけ許される、市民の祭りだった。通りに色布が張られ、屋台が並び、どこかから音楽が聞こえた。子供が走り、老人が笑い、旅人が立ち止まった。帝都がこんな顔をするとは思っていなかった。レイアは人の流れの中で、少し立ち止まった。儀式の夜が明日に迫っている。でも今夜は、街がそれを知らないように動いていた。
護衛はある。でも今夜は固くならなくていいとルイが言っていた。「祭りの中で固まっていると逆に目立つ」。フィンも今夜は外に出たいと言っていた。ヴェラが「一晩くらいは」と許した。その時のヴェラの顔を、レイアは少しだけ覚えている。子供を外に出す時の顔、だと思った。
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ガンスとマリーが屋台の方へ消えた。
「ちょっと見るだけ」とマリーが言い、「また始まった」とサラが言い、「俺も行く」とガンスが言ってマリーの後を追った。「食べ歩きながら護衛できるの」とサラが言ったが、ガンスはもう人混みに入っていた。
サラがため息をついてから、少し離れた場所で通りを見渡す位置に移動した。
ルイは人の流れより少し高い石段の上に立っていた。街全体を見ている。祭りを楽しんでいるのか見張っているのか、その境目が分からない立ち方だった。レイアはその少し手前で、フィンの斜め後ろについていた。
フィンが前を歩いていた。背が高くない。やはり子供の背丈だ、とレイアは思った。宮廷に行くたびに忘れていた。あの目の落ち着きかた、話し方、父親の話をする時の声——それで大人に見えていた。でも後ろから見ると、ただの細い十五歳だった。
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屋台の並ぶ辺りで、フィンが立ち止まった。
焼いた砂糖の甘いにおいがした。飴細工を作っている屋台だった。職人が手際よく細い棒を引き伸ばし、鳥の形を作っていた。
フィンが動かなかった。
三十秒、四十秒と経った。前夜祭の人が横を流れていった。フィンはその場に立ったまま、飴細工の職人を見ていた。
レイアはそれに気づいたが、声はかけなかった。
しばらくして、フィンが振り返った。レイアと目が合った。一瞬、フィンが何かに気づいたような顔をした。見られていたことに気づいた顔、だった。すぐに表情が戻った。「先に行く」と言って歩き始めた。
レイアはその後ろについた。さっきまでと何も変わらなかった。でも——飴細工を見ていたあの顔は、書類を読む時の顔でも、ヴェラと話す時の顔でも、文書の話をする時の顔でもなかった。
ただの子供が、甘いものを見ていた顔だった。
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通りの端、色布が幾枚も張られた下でフィンが立ち止まった。
人の流れを見ていた。帝都の灯りが多い夜だった。どこかの屋台から笑い声が上がり、子供が走り抜けていった。
「きれいだな」
レイアは返事をしなかった。
「こういう夜が好きだった」
過去形だった。
「今は?」
少し間があった。フィンが前を向いたまま言った。
「今は……どう思えばいいか分からない。きれいだと思う気持ちと、明日のことを考える気持ちが、同じ場所にある。どっちが本当なのか、分からなくなる」
それだけだった。
レイアは少し黙ってから、遠くの灯りを見た。
——里にも、こんな夜があった。
祭りではなかった。ただの夜だった。でも龍神の山が月に照らされると、里全体が銀色に見えた。みんなが外に出て、空を見た。誰も特別なことは言わなかった。ただ見ていた。それだけが、なぜか今も残っている。
今はもう、誰もいない。
「きれいだと思う気持ちの方が、本当だと思う」
自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。でも言った。
フィンがレイアを見た。少し驚いた顔だった。それからまた前を向いた。「そうか」と言った。それだけだった。
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花火が上がったのは、しばらくしてからだった。
音が先に来た。どん、という低い音の後で、空に光が咲いた。赤と金だった。人々が上を向いた。歓声が上がった。
フィンが上を向いた。
口が少し開いていた。花火が反射して、目が光っていた。
レイアはフィンを見ていた。街の全体ではなく、フィンだけを見ていた。
横にいたガンスがいつの間にか戻ってきていた。何かの包みを持ちながら同じように空を見上げた。「おっ」と言った。短い声だった。マリーが「きれいですね」と言った。サラが「口が開いてるよ」と言った。「うるさいな」とガンスが言い、また空を見た。
レイアは視線をフィンに戻した。
二発目、三発目と続いた。花火が上がるたびに、フィンの横顔が色づいた。赤く染まった時、金に染まった時。宮廷で見た顔ではなかった。書類を見る時の落ち着いた目ではなく、ただ光を追っている目だった。
これが十五歳だ、とレイアは思った。これが、ずっとそこにあったのに見えていなかったものだ。
四発目が上がった。光が広がって、消えた。
フィンが小さく言った。
「明日の夜、何かが起きると思う」
声が、さっきとは違った。また戻った声だった。
「プランナだけじゃない——もう一つの、別の何かも動く気がする」
「感覚?」
「分からない。でも、父上が今夜眠れないと言っていた。」
五発目が上がった。今度は白かった。光が散って、また夜になった。
「護衛、明日も続けてくれる?」
「うん」
それだけだった。フィンがまた空を見た。次の花火を待っているのかもしれなかった。
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帰り道、ルイがレイアの横に並んだ。
フィンは少し前にいた。歩き方がゆっくりだった。前夜祭の名残の光がまだ通りに残っていた。
「フィン殿下と何を話した」
「……明日、気をつけて」
ルイが少し黙った。
「何かあった?」
「感覚、だって。お父さんが今夜は眠れないんだと。儀式の前夜に初めてそう言ったと」
「三回目の気配は」
「まだ来てない。でも——明日か今夜だと思う」
「一緒に動く。何かを感じたら一人で動くな」
「分かった」
二人で歩いた。前を行くフィンの後ろ姿に、前夜祭の明かりが当たっていた。
宿に戻る少し手前、フィンが立ち止まった。振り返って、月夜の船の全員を一度だけ見た。何かを確かめるような目だった。ガンスが「なんだよ」と言った。フィンが何も言わずにまた前を向いて、歩き始めた。
ガンスがレイアを見た。「あいつ、大丈夫か」と小声で言った。
レイアは少し考えてから「うん」と言った。
儀式まで、あと一日だった。




