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獄炎の姫君〜失意の底で何を思ふ〜  作者: 蕎麦粉


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帝国編 44.夜の研究室

「また来る」と言ったのは、いつだったか。


夜の街を歩きながら、レイアはそれを考えていた。ドージの研究室は宿から十分ほど離れた場所にある。街の東側、薬種問屋が並ぶ区画の路地を入ったところだ。一度だけ場所を教えてもらっていた。


行くつもりで来たわけではなかった。


護衛を終えて、宿に戻って、夜の帝都の空気を吸いたくて外に出た。気がついたら、この路地を歩いていた。


——何を聞く。


扉の前に立った。明かりが漏れていた。ドージはまだ起きている。いつも起きている。何を聞けばいいのか、聞く前から分かっている気がした。でも聞く前から答えも分かっている気がして——だから、また足が止まった。


石畳の上に影が落ちていた。レイアの影と、扉の隙間から漏れる細い光。


扉が開いた。


ドージが出てきた。驚いた顔をした。でもすぐに、驚いた顔でなくなった。


「……レイア」


「通りかかっただけ」


間があった。ドージが扉の枠に手をかけたまま、少し外の方を見た。夜の路地に他に人はいなかった。


「そうですか」


それだけだった。責めなかった。疑わなかった。ただ「そうですか」と言って、少し扉を開けた。


---


研究室は狭かった。


棚に薬瓶が並んでいた。机の上に開きっぱなしの書類。炉がひとつ、低く熱を持っていた。においがした——薬草と、何か甘いものが混ざった、独特のにおい。外の夜気とは全然違う、この部屋だけの空気があった。


レイアが一歩入って、立ったまま部屋を見た。いつも通りだった。何も変わっていなかった。ドージが日々ここで作業をしていることが、部屋の様子から分かった。それが——かえって、何かを強調していた。ここにいる時間と、外で何かをしている時間が、同じ人間の中にある。


「薬草の業者」


ドージが炉の前の椅子に腰を下ろした。手元に何かのメモがあった。


「何を買ったの」


「いくつか研究に必要なものだけですよ」


間がなかった。


それだけだった。「何の薬草ですか」と聞かれれば答えられる。「どこで」と聞かれれば答えられる。でもレイアが聞いたのはそういうことではなかった。ドージにも分かっているはずだった。それでも「いくつか」とだけ言った。


——また、間がなかった。


市場でドージが見知らぬ人間と話していた時も、そうだった。「薬草の業者です」。間がなかった。嘘をついている人間は、間がないか、逆に長すぎるかのどちらかだとレイアは思っていた。ドージは間がない側だった。


「入りますか」


ドージが顔を上げた。問いかけるような目だった。押しつけていなかった。


レイアは少し考えてから、壁際に移動して背中をつけた。立ったままだった。


---


しばらく、どちらも何も言わなかった。


ドージが手元のメモに視線を戻した。書いているのか、読んでいるのか、どちらでもなくただそこに目を向けているのか——分からなかった。炉の熱が低く漂ってきた。


「この研究室、長いの?」


「帝都に来てから借りました。三ヶ月ほど」


「何を調べてる」


「薬草の精製方法です。産地によって成分が変わるので、帝都周辺のものを集めて比較しています」


嘘ではなさそうだった。でも全部でもなさそうだった。それはもう分かっていた。


——責めることができない。


自分も何かを隠して生きているから。月夜の船の全員に使徒の話をするまで、ずっと一人で抱えていた。ルイ以外には言わなかった。言えなかったわけではなく——言う必要がないと思っていた。でも違った。それは「守っていた」のではなく、ただ「抱えていただけ」だった。ガンスの声を思い出す。「一人で抱えてたのか」。


ドージも、何かを一人で抱えている。


何を抱えているのかは、まだ分からない。分からないまま、ここに来た。何かを聞き出すつもりで来たわけでもなかった。ただ——来た。それだけだった。でも——責める気にはなれなかった。


「また来る」


立ち上がりながら、そう言った。


ドージが顔を上げた。少し間があった。


「……はい」


扉を出た。路地の夜気が頬に触れた。振り返らなかった。


---


宿に戻る道を歩きながら、何かがひっかかっていた。


研究室の棚に並んでいた薬瓶。いつも通りだと思った。でも——一本だけ、他と色が違うものがあった。気のせいかもしれない。炉の光が不均一だっただけかもしれない。


でも、ひっかかっていた。


「また来る」と言った。ドージが「はい」と答えた。それだけのことなのに、その「はい」が——何かを含んでいた気がした。何を含んでいたのかは、言葉にできなかった。


儀式まで、あと五日だった。

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