帝国編 41.日常の歩み
次の日の朝、フィンは誰よりも早く食堂に来ていた。
マリーが厨房から出てきて「早いですね」と言うと、フィンが「宮廷では起床時間が決まっている」と言った。「ここでも同じにしてるの?」「なんとなく」。
マリーが「せっかく自由なんだから、もっと寝ていいんですよ」と言い、フィンが「自由というのが、まだよく分からない」と返した。マリーが少し止まって、「じゃあ今日は一緒に市場に行きましょう」と言った。フィンが「買い物か」「違います。見るだけです。ただし何か気になったら教えてください、私が値段を聞きます」「それは買い物では」「見るだけです」。
サラが厨房の入口で腕を組んでいた。「あなたが値段を聞くだけで終わったことないでしょ」「今日は絶対に戻ってくる」「全く懲りてない」。
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昼前に市場から戻ったマリーの手に、小さな包みが三つあった。
「見るだけだったんじゃないの」とサラが言った。
「これは違うんです。フィン殿下が見つけてくれて——」
「俺は指しただけだ」とフィンが言った。「買えとは言っていない」
「でも指してくれたじゃないですか」
「それはそうだけど」
ガンスが包みを一つ取り上げて「なんだこれ」と言った。マリーが「干し果物です、甘いんですよ」と言い、ガンスが一つ口に放り込んだ。「……まあ悪くないな」「でしょう!」。フィンが「それは俺が選んだやつだ」と言った。
「お前、食い物の目利きだけはあるじゃないか」
「だけは、というのはどういう意味だ!」
ガンスが笑った。声を出して笑ったのを、レイアは久しぶりに聞いた気がした。フィンも笑っていた。少しだけ、宮廷にいる時とは違う顔なんだろう。
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夕方、フィンが宿の外階段に座っていた。
レイアが通りかかって、止まった。フィンが「座ってもいい?」と聞いた。レイアが「どちらかといえば私が聞く側では」と言い、フィンが「そうか」と言って少し横にずれた。
二人で帝都の夕暮れを見た。空が橙から紫に変わっていた。
「一つ聞いていい?」とフィンが言った。
「何」
「龍人族は神に祈らないって、本で読んだ。本当?」
少し間があった。
「……うん。私たちには龍神がいるから」
「龍神に祈るの?」
「祈るというより——話す。頼むというより、一緒に考える、みたいな感じに近い。うまく言えないけど」
フィンが「なるほど」と言った。「俺も、あまり神に祈れなくなった」
「なぜ」
「父上が病んでから」
それだけ言って、フィンは帝都の灯りが灯り始めた方向を見た。「祈っても、何も変わらなかった。だから、どうすればいいのか分からなくなった」
レイアは何も言わなかった。言えなかった——というよりは、言う必要がないような気がした。
「でもお前のところの龍神は、話を聞いてくれるんだろ」とフィンが続けた。
「……聞いてくれる。答えは、すぐにはくれないけど」
「それでいい気がする」
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夜、食堂に全員が揃った。
ガンスがいつもより大盛りのスープを頼んでいた。マリーが「食べすぎですよ」と言い、ガンスが「腹が減ってんだ、ほっとけ」と言った。サラが「一日中何もしてないのにどこで消費してるの」と言い、ガンスが「考えるのに使うんだよ」と返した。サラが「何を考えてるわけでもないだろうに」とぼやいていた。
フィンがその会話を聞きながら、スープを飲んでいた。
しばらくして、ガンスがふと口を閉じた。何かを言いかけて、止まった。それからぼそっと言った。
「……なんかいいな」
全員が少し止まった。
「こういう感じ。嫌いじゃない」
誰も笑わなかった。サラが「珍しいこと言うじゃない」と言いかけて、やめた。マリーが下を向いた。フィンが自分のスープに目を戻した。
ガンスが「なんだよ、言うなよそういうこと」と言い、また大盛りのスープを食べ始めた。
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部屋に戻った。
廊下の窓から帝都の夜が見えた。儀式の準備が進んでいるのか、遠くの宮廷の方角に灯りが増えていた。
——失うものが、増えた。
ゴルンを出た時はこんなではなかった。仲間は仲間だったが、失うと思っていなかった。失うことを、考えていなかった。今は違う。ガンスの笑い声が、マリーが市場で見つけた包みが、フィンの「なるほど」が——全部、なくしたくないと思っている。
なくしたくない、と思っていた。初めて、はっきりとそう思っていた。
儀式まで、あと七日だった。




