帝国編 40.嫉妬
夜のうちに何かが変わったわけではなかった。
昼前、フィンがガンスに腕相撲を申し込んだ。唐突だったが、ガンスは「負けても泣くなよ」と言いながら机に肘をついた。結果はフィンが三秒で押し切られた。
フィンが「もう一回」と言い、もう一回やって、また三秒で負けた。「一回勝てたことある?」とマリーが聞いた。フィンが「ない」と答えた。「でも続けてたら勝てると思うから」「論理じゃないな」とガンスが言った。フィンが「直感だ」と言い返した。
ガンスが何かを言いかけて、止まった。また腕相撲の体勢に戻った。
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昼食はマリーが作った。正確には、マリーが市場で仕入れた野菜と干し肉を使って、宿の厨房を借りて作った。フィンが最初の一口を食べて、止まった。
「……うまい」
「でしょう!」とマリーが前のめりになった。
「宮廷の料理の方が手が込んでる。でも、こっちの方がうまい。なぜだろう」
「誰かが食べる顔を見ながら作ってるからじゃないですか」とマリーが言った。「宮廷の料理人さんはそれができないから」
フィンが少し黙って、もう一口食べた。「なるほど」と言った。それだけだったが、その後で「もう一杯いい?」と聞いた。マリーが「もちろん!」と言った。
レイアはその話を半分聞きながら、テーブルの端の方を見ていた。ドージがフィンの隣で薬草の話をしていた。フィンが「その草は煮るより生で使う方がいい場合があると聞いた」と言い、ドージが「そうです。熱を入れると成分が変わるんですよ。よく知っていますね」と返した。「本で読んだ」とフィンが言い、ドージが「どんな本ですか」と聞いた。二人の声が、ゆっくり続いていた。
本物に見えた。ドージの声も、フィンの横顔も。
——本物だ、と思う。途中から、と言っていた。でも最初は違った。
そこで止める。判断するには材料が足りない。
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夜、廊下でフィンに声をかけられた。
「少し話せる?」
レイアが振り返った。フィンが廊下の端に立っていた。月夜の船の部屋のある方向ではなく、窓側に寄っていた。いつもの「測っている」顔ではなかった。少し、違う顔だった。
「うん」
二人で窓の外に目を向けた。帝都の夜の灯りが遠くに見えた。
「昨日の話を聞いた」とフィンが言った。「俺は食堂には来なかったけど——音は聞こえた。全部じゃないけど」
レイアは何も言わなかった。
「龍人族の話と、使徒の話。プランナとも繋がってるかもしれないっていう可能性」
「聞いてたんだ」
「廊下を通っただけ。聞こうと思っていたわけじゃないよ」
フィンが窓の外を見たまま言った。「それで、話そうと思った。父上から預かっているものがある。お前に見せた方がいい気がして」
レイアが少し顔を向けた。フィンはまだ窓の外を見ていた。
「プランナがこの帝国でやろうとしてることの記録。父上が何年もかけて集めた。証拠と、計画の断片と——あと、少し別のものが書いてあった」
「別のもの」
「帝国の地下に眠る何かへのアクセス方法。儀式の空位期間を使って起動する、と書いてあった。具体的な方法は分からなかった。でも、プランナが儀式の夜を狙っているのは確かだと思う」
レイアが「帝位継承の操作も?」と聞いた。
「書いてある。カルムとエドン、どちらを選んでも都合がいい状況を作ったと。証拠が揃えば、失脚させることができると父上は書いていた」
廊下が静かだった。遠くで誰かが話す声がしたが、言葉は聞こえなかった。
「プランナが使徒と繋がっているかもしれない記述は?」
フィンが少し間を置いた。
「一人、何者なのか全くわからない人が書いてあった——名前はない」
レイアの手が止まった。
「呼称だけ書いてある。『嫉妬』と」
手が、動かなかった。
——嫉妬。
帝都にいる。ルイと確認した残滓——醜悪な、汚泥のような魔力。あの冷たさ。使徒が。この街に。フィンが持っている文書にも書かれているほど、動いている。
「その使徒かもしれないものについては」とフィンが続けた。
「プランナに力を貸している、とだけ書いてあった。何をしているのかまでは、父上にも分からなかったみたいだ」
「その文書、今どこに」
「持ってる。ずっと持ってる」
レイアが「ヴェラに渡した方がいい」と言った。
「まだ早い」とフィンが言った。「今渡しても、使える場所がない。儀式の夜が来る前に、動かされる可能性がある。——渡す相手と、渡すタイミングを間違えたくないんだ」
十五歳の声ではなかった。
レイアが「分かった」と言った。
フィンが「ありがとう」と言った。また「測っている」顔に戻っていた。でも少しだけ、最初に会った時と違う気がした。
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部屋に戻って、窓の外を見た。
嫉妬。
文書に記録されるほど、帝都で動いている。プランナと繋がっている。儀式の夜に何かをする。一人が——この街に、いるかもしれない。
手が、まだ少し痺れている気がした。動いていなかったのは一瞬だったが、止まっていた。レイアが何かに止まることは、あまりない。あの冷たさに近いものが、文書の中にも書かれていた。それだけのことだ。それだけのことだが、止まった。
儀式まで、あと八日だった。




