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獄炎の姫君〜失意の底で何を思ふ〜  作者: 蕎麦粉


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帝国編 39.夜は更けて

夕食の皿がまだ机に残っていた。


ルイが「少し待ってほしい」と言ったのは食事が終わる前で、それから誰も立たなかった。ガンスが残ったパンを皿の端に押しやり、マリーがカップを両手で持ったまま、サラが椅子に背を預けた。ドージは奥の席から動かなかった。


レイアだけが立っていた。窓を背にして、壁に寄りかかって。


「話がある」


ルイが言った。誰かが息を止めたのが分かった。


ルイの目がレイアを向いた。言葉はなかった。ただ「今だ」という目だった。


レイアは窓から離れた。


——何から言おう。順番を整理しようとしたが、整理できなかった。ずっと一人の中にあったものを、声にしたことがない。声にすると何かが変わる気がして——それが怖かったのか、それとも怖いと思う前に声にする機会がなかっただけなのか、もう分からなかった。


「世の中にはね。使徒という存在がいるの」


声が出た。


部屋が静まった。カップを持ったマリーの手が止まった。ガンスが前のめりになった。


「神に仕える……本物の、神に仕える存在。人間じゃない」


少し間が空いた。言葉が続かなかったのではなく、続け方が分からなかった。


「その使徒が、1年前——龍人族の里、私の故郷を、焼いた」


ガンスのパンが皿の上に落ちた。音がした。


「おいおい、いったい何言いだすんだよ。そんなおとぎ話、おめぇらしくないぜ!」


ガンスは面白おかしく言おうと思ったのだろうが、レイアのまなざしを見て言葉をつぐんだ。


「龍人族は私の一族だ。生き残ったのは私だけだった。だから冒険者をやっている。その使徒を——殺すために」


誰も何も言わなかった。


サラが口を開いた。けれど声は出なかった。マリーが下を向いた。カップを持ったまま、机の上に視線を落として、何かをじっと見ていた。ガンスが腕を机についたまま、動かなかった。体が大きいのに、そこだけ縮んでいるような、妙な静けさだった。


ルイが続けた。声が静かだった。


「もう一個あってね、実は帝都にはプランナという犯罪組織があるんだ。いま儀式の夜に何かをしようとしている——そのプランナが使徒と繋がっている可能性がある。フィンを守ることは、その動きを止めることに繋がるんだよ」


また沈黙だった。


ガンスが机の上を見ていた。落としたパンを見ているのではなかった。ただ下を向いていた。それからゆっくり、レイアを見た。


「……一人で、抱えてたのか」


声が低かった。責めてもいなかった。責める声じゃなく——疲れた声とも違った。ただ、確かめるような声だった。


レイアは答えられなかった。


——答えるべき言葉が出なかった。違うとは言えない。ルイには話した。でもルイに話したのもつい最近で、ガンスたちには——ゴルンから今まで、ずっと言わなかった。言わなくていいと思っていたのか。それとも、声にすることが——声にしてしまうと、何かが崩れる気がしたのか。


「……うん」


それだけだった。


ガンスが何も言わなかった。「なんで言わなかった」とも「俺たちに言えよ」とも言わなかった。ただ一度、大きく息を吐いて、また机の上に目を戻した。


「続けろ」


それだけ言った。


---


ルイが魔王について話した。


「みんなおとぎ話だと思ってるかもしれないけど魔王っていうものは存在してる。神代の時に魂をその時の勇者によって分割されて封印されているんだ。各地の封印が繋がっていて、帝国の建国時の契約がその一部を支えている。儀式の夜——皇帝が位から離れたその瞬間に、封印が緩む。プランナはそこを突こうとしている。帝国の地下に眠る『封印の核』に触れることで、魔王の封印が部分的に解ける」


「部分的に」とサラが言った。「完全じゃないってこと?」


「今夜は、そのはずだ。でも——使徒が動きやすくなる。帝都に入りやすくなる、という方が正確かもしれない」


サラが「つまり」と言いかけて止まった。頭の中で整理しているような間だった。「プランナが儀式を利用して封印を緩めれば、使徒が動ける。使徒が動けば、レイアが追っている相手と——帝都で鉢合わせる可能性がある、ってこと」


「そういうことだ」


サラが「なるほど」とだけ言って、テーブルに視線を落とした。それ以上は言わなかった。


「全部繋がってたってこと」とサラが言った。問いかけではなかった。「使徒も、プランナも、儀式も。ゴルンから全部」


「……わからないけど、もしかしたら」


「一人で歩いてたの」


レイアは答えなかった。


サラが少し間を置いてから「まあいいけど」と言った。刺はなかった。「今聞いてる。それで十分よ」


誰かが息をついた。ガンスだったかもしれない。


---


「それで」とサラが言った。「私たちはどうするのかしら」


全員がレイアを見た。


——なぜ私を見る。


決めるのは月夜の船でいい。自分の話を聞かせただけだ。でも全員がレイアを見ていた。何かを求めているわけではなかった。委ねているわけでもなかった。ただ——待っていた。


「フィンを守ること」とレイアは言った。「今できる一番近いことは、それだと思う」


「使徒と繋がってるから?」とガンスが聞いた。


「それだけじゃない」


少し間があった。


「フィンがいるから」


それだけ言った。ガンスが「……そうか」と言って、椅子に背を預けた。マリーが頷いた。サラが「分かった」と言った。


ルイが「ありがとう」と言った。全員に向けて言ったが、レイアの方を向いていた。


レイアは何も返さなかった。


---


夜、部屋に戻った。


廊下は静かだった。でも何かが違った。同じ宿の、同じ静けさのはずなのに。


——声にした。


変わったのかどうか、まだ分からない。軽くはなっていない。重くもない。ただ、形が変わった気がした。ずっと一人で持っていたものの——形が、少し変わった。


ガンスの声を思い返した。「一人で抱えてたのか」。責めてもいなかった。ただ確かめるような、低い声だった。それが——どう受け取ればいいのか、まだ分からなかった。答えを求めているわけじゃなかった気がする。でも何だったのかも、分からなかった。


フィンの持つ文書に何が書かれているのか、明日、確認しなければならない。


帝都の夜が窓の外にあった。儀式まで、あと九日だった。

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