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獄炎の姫君〜失意の底で何を思ふ〜  作者: 蕎麦粉


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帝国編 37.市場の影

その日は護衛全員で市場に出た。


フィンが「また行きたい」と言った。昨日と違う区画を見たいらしい。ガンスが「昨日も行ったばっかじゃねえか」と言ったが、フィンが「食材の流れは一日ごとに変わるんです」と返すと、それ以上何も言えなかった。


「賢い子供って反論しづらいんだよなあ」とガンスが歩きながらぼやいた。


「当たり前でしょ。あれだけ頭が回れば大人でも手こずるわ」とサラが隣で言った。


「お前もわりと手こずってたろ昨日の夕飯」


「してないわよ。あれは様子見」


「ぜんぜん言い返せてなかったじゃねえか」


「様子見って言ってるでしょ!」


二人の言い合いを背後に、マリーが「……あの子、今日もこっちを観察してますよ」と小声で言った。前を歩くフィンが、さりげなく全員を視界に収めながら歩いているのが分かった。昨日から変わっていない。


「分かってる」とレイアが言った。「見られてても別にいい」


「なんで」


「信用を測ってるだけだから」


マリーが「……そういう子供って、守りがいがあるんですよね」と少し遠い目で言った。サラが「油断しないの」と即座に返した。




市場の中区画に入った頃から、レイアは何かが引っかかっていた。


うまく言葉にできなかった。人が多いせいかもしれない。でも——人の多さで説明できない種類の「見られ方」があった。視線の温度とでも言うべきものが、どこかから向いている気がした。


露店の間を進む。マリーが「うわ!かわいい!」と立ち止まった。藍色に金糸で刺繍を施した布が並んでいた。


「マリー、あとで」とサラが引っ張った。


「ちょっと、見るだけ!値段聞くだけ!」


「あなたが値段を聞くだけで終わったことないでしょ」


「……今日は大丈夫」


「ガンス、マリーを押さえて」


「俺はそういう役目か」とガンスがぼやきながらマリーの肩を押した。マリーが「今日は絶対に戻ってくる……!」と前方を向いたまま呟いた。フィンがその一連を眺めて、口元を少し緩めた。


——正面から来る。


フィンの左前方、露店の間を縫って一人が近づいてくるのが見えた。持ち物がない。目線がフィンに固定されている。


「ガンス」と呼ぶより先に体が動いていた。


フィンの前に出た。男と目が合った。男が立ち止まった。笑いかけようとした顔が、固まった。


ガンスが右側からすっと割り込んだ。身体が大きい。男からすれば壁が二枚出てきたように見えるはずだった。


男が三秒で視線を外した。露店を眺める素振りで通り過ぎた。


「なんだ今の」とガンスが小声で言った。


「分かんない。移動しよう」


別の路地に入った。人の流れが薄い。フィンを中に挟んで、五人で固まって歩いた。


——それで気づいた。


さっきの男が通り過ぎた方向と、今いる路地の先に立っている人間の位置が、どちらもフィンを挟む角度にあった。一人ではなかった。正面と、回り込んだ先に、もう一人いた。


「ルイ」と小声で呼んだ。


「見えてる」とルイが短く返した。「来た道に戻る」


引き返した。別の路地を二本抜けて、荷運びの馬車が止まっている広い通りに出た。人の流れに紛れてしばらく歩いた。


追ってくる気配が消えた。


フィンが「……うまく撒けましたか」と聞いた。声が落ち着いていた。


「多分」とレイアが言った。「でも最初の一人だけじゃなかった」


フィンが少し間を置いた。「知ってました。入り口から、三人いた」


全員が足を止めた。


「三人?」とガンスが言った。「俺が気づいたのは最初の一人だけだぞ」


「私も最初の一人を動く前に気づいたのは偶然に近い」とレイアが言った。「残り二人は、撒きながら気づいた」


「帝都の市場で三人同時に動かせる組織、そんな簡単に出てくるもんじゃないぞ」とガンスが言った。声から軽さが消えていた。


フィンが「昨日からです」と静かに言った。「昨日の市場にも、別の人間が二人いた」


誰も何も言わなかった。昨日の市場を思い返した。接触を試みてきた男一人を撒いて、それで終わったと思っていた。


——終わっていなかった。昨日から、周りを測られていた。




市場の外縁まで来た時だった。


レイアが何気なく後ろを振り返ると、ドージが露店の列から少し離れた壁際で、見知らぬ男と話していた。


短い会話だった。一方が何かを渡して、もう一方が頷いた。それだけだった。


レイアが足を止めた。


ドージがすぐに振り返った。目が合った。


「あの人、知り合いですか」とレイアが聞いた。


「薬草の業者です」とドージが言った。


間がなかった。


「そうなんですね」


「ええ」


それだけだった。ドージが視線を外して前を向いた。その後ろ姿を、レイアはもう一秒見てから歩き出した。


——間が、なかった。




宿に戻った後、フィンが先に部屋へ上がった。残った全員で食堂のテーブルを囲んでいた時、フィンが階段の途中で振り返った。


「さっき市場にいた三人、プランナじゃなかったですか」


全員が静止した。


「……知ってるの、その名前」とレイアが言った。


「帝都にいれば自然と聞こえてくる。特に最近は」


フィンはそれだけ言って上の階に消えた。足音が廊下を進んでいく音が聞こえた。


しばらく誰も何も言わなかった。


「……なあ」とガンスが口を開いた。「プランナって何だ?」


マリーも「私も初めて聞いた名前です」と言った。サラが「東大陸の話?」と眉をわずかに寄せた。


ルイが少し考えてから口を開いた。「東大陸を拠点にした犯罪組織だ。金と情報で人間を動かす。宮廷の中にまで入り込んでいると言われている。今護衛してるフィン殿下が狙われている理由と、繋がっているかもしれない」


「宮廷の中にまで」とサラが繰り返した。「それって……依頼のルートも含めて、全部筒抜けの可能性があるってこと?」


ルイが「……あり得る」と短く言った。


テーブルが静かになった。マリーがカップを両手で包んで下を向いた。ガンスが「昨日から測られてたのか」と呟いた。誰も頷かなかったが、誰も否定もしなかった。


「ちゃんと言えよ、そういうことは」とガンスがルイに言った。責める声じゃなかった。疲れたような、それに近い声だった。


「……うん。遅くなって悪かった」


窓の外で、市場の方角がまだ賑やかだった。帝都はまだ浮き足立ったままだ。


レイアは何も言わなかった。


——市場の外縁での、ドージの「間」のなさを、頭の中で繰り返していた。薬草の業者。間がなかった。用意していた言葉だったのか、それとも——本当のことだったのか。どちらかが分からないまま、今夜は終わった。

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